震源地

親子の家 5

「こんな高いやつ頼んでも大丈夫なの?」

ハンバーグが1500円である。いつも行くチェーン店のチーズインハンバーグなら600円。クーポンでがあれば400円である。

「好きなもん食べな」

みつるはポケットから取り出したジッパー付きのビニール袋を見せた。中には一万円札が5枚、千円札と硬貨がいくらか入っていて、じゃらっと鳴った。

ビニール袋には皺がよっていて、スライド式のジッパーも外れかけているそれが満の財布の代わりである。小さく折り畳めて、雨にも濡れず、さらに中身がいつでも確認できる。これ以上ないとは盈の台詞だが、十としては見ていて悲しくなるし、かなり恥ずかしい。

「十はどう思ってるかわからないけど、俺にはけっこうお金があるんだよ。今回だって、解決できれば一ヶ月生活できる以上はもらえるし、これもまあ、経費になるだろ」

確かに、十は生活で困ったことはない。小遣いだってもらっている。それはそれとして、この店は普段の生活水準から考えてワンランク上だった。

天井から吊り下がったシャンデリア風の照明の灯りは温かみのあるオレンジ色で、光量も控えめで落ち着いている。淡いクリーム色と白のストライプの壁紙。壁面に貼られたチョコレートサンデーのポスターもきちんと額に収まっている。大きな窓の下には造花のバラが入った花瓶。

 5階の廊下でありさの幽霊を見てから、盈はずっと何か考えているようだった。

そして「腹が減ったから飯を食おう」と言って、まだ昼時には早い窓際の4人席に落ち着いたのはついさっきのことだ。店内の時計は10時45分。モーニングとランチの間の半端な時間である。

 店内に人は少ない。奥まった席で珈琲を啜っている老人。新聞を読むスーツ姿の男。空になったモーニングの皿を前に談笑するスポーツウェア姿の中年女性たち。

「絶対に儲かる」「先輩も最初は貧乏だったんだけど、今はベンツ乗ってる」「早く始めたら早く始めるだけいい」と声量は控えめながら熱心に話し込む若者たち。どこか熱っぽい目をして話しているツーブロックの男の後頭部からは煙みたいなのが出ている。煙を辿っていくと、顎から下が昆虫の口吻そっくりになったツーブロック男の顔がくっついていて、俯いて話を聞く大人しそうな青年の首にストローのような口を差し込んで何かをじゅうじゅう吸っていた。本体は「これ見て、今回の配当で買ったんだよ」とキラキラした時計を見せびらかしているのに、煙の先の男の顔は必死な顔でじゅうじゅうと何かを吸い続ける。

 盈に教えられた通り、横目にそれを捉えて、十はまたメニューを捲る。オムライスかな。パンケーキもいいな。ランチまで15分あるから選ぶ時間はたっぷりある。

 背後で羽音がして、十はそちらに目を向けた。

あの鳥だ。半透明の黒い鳥が、斜め後ろの中年女たちのテーブルにとまった。

赤青黄、信号機のように鮮やかなスポーツウェアを着た3人の女は何事もないように笑っている。

「師匠。ここに来たのって、これが見えてたから?」

うん、と盈は頷いて、すぐに首をかしげる。

「俺に見えてたのは糸が一本、黒い糸だな。俺と十で見ているものが違う。本体はこの辺の土地にいる地霊みたいなもんなんだろうが、誰かの執着に感応して形を変えてるんだ。それが連想させるものが俺と十で違うから、違ってみえる」

あ、と盈が何かに気が付いたようだった。

「糸じゃない。糸電話だ」

「なにそれ?」

「うそ、知らんの?糸を張って紙コップ両側につけて作るおもちゃ」

「知らん。なにそれ」

盈は一瞬、大変傷ついた顔をしたが、すぐに視線を戻した。十も耳を澄ませる、

 やはり十には鳥に見える。鳥は、頭を前後に振りながらゆっくりテーブルの上を歩くと、赤いスポーツウェア姿の女の前で立ち止まり、にゅうっと首を伸ばした。

アハハハと何事か笑う彼女の口の中へと首から潜りこんだ。

黄色い服の女が立ち上がり、お手洗いのほうへと歩いていく。

赤いウェアの女が、青いウェアの女に身を乗り出した。

「――さっきあなたがトイレ行ったときに彼女が言ってたんだけど、感じ悪いのよ。あなたの今日の化粧濃すぎないかって」

赤いウェアの女は空席をちらりと見て「彼女」を強調した。

「やだ、そう?私もマスカラつけすぎたかなて思ったんだけど」

青いウェアの女は恥ずかしそうに顔を隠したが、手のひらの向こうで黄色が消えていったお手洗いのドアを睨んだのが見えた。

「そんなことないわよ。素敵よー。どこの使ってるの?年のせいかまつげが抜けちゃって困ってんのよ」

ことさら明るい声を作る赤い女の口から鳥が顔を出す、にゅうっと伸びた首が気持ち悪い。首は長く長く伸び、青いウェアの女の耳へと入り込む。


『教えてあげたよ』


 伝書バト稲田だ。十ははっと気が付いた。

十のクラスに伝書バト稲田とあだ名されるクラスメイトがいる。

家庭の事情とリハビリという名目で、ほどんど学校には行っていない十だが、一発で覚えてしまうくらい強烈なインパクトを残すあだ名だった。

簡単に言うと、彼女は女子グループの密偵なのである。

誰が誰の陰口をたたいてるかといった情報を把握し、それを本人に伝えて回る。筆箱の色が被ったからムカつくとか、お小遣いたくさんもらってる自慢がウザいとか。

そういう陰口とは本来本人のいないところで交わされ、それが集団のガス抜きとして機能するのだが、伝書バト稲田はそれをご丁寧にみんなに伝えて回った。

情報を持ってあちこちへと飛び回るから「伝書バト」。

彼女の暗躍で女子グループは瓦解と再編を繰り返したのだという。十が転校する前とはクラスの女子の力関係は変化している、伝書バト稲田が暗躍する限り、また変化を続けるだろうと、これまた情報通だがクラスのパワーバランス観察が趣味という変わったやつが言っていた。

 それを十は盈に手短に説明した。「伝書バト稲田」というインパクトが強すぎる名前が登場するたびに盈が笑いをこらえている気配が伝わってきたが、おおむねうまく説明できただろう。

「だから鳥か。伝書バトね。鳥……鳥ねえ……」

盈が呟きながら額を軽く押さえている。

「俺にも見えてきた」


 鳥は今や、最初に見た時よりも大きくなっていた。

信号機女たちのテーブルでは、入れ替わりに赤がトイレに立ったので、どこがひりついた空気が立ちこめている。

「ちょっと行ってくるね」

盈が立ち上がった。

空いたグラスを持って、女たちのテーブルの脇を通りざまに、盈は鳥の首をつかんだ。

「すいません」

女たちには盈が椅子の足につまずいて軽くよろけたようにしかみえなかっただろう。不可視の羽が宙を舞う。盈が手に力を籠めると、だらんと動かなくなった。

鳥を片手に下げたまま、盈はコーラをコップに汲んで戻ってくる。

「捕った。軽いな。糸電話は食う気がしないけど、これならチキンみたいなもんでしょ」

カーネルサンダースが激怒するぞと十は思った。

鳥をぶらぶら振る。声はしない。

コップを置いて、両手で鳥を持ち直すと、盈は一息おいて鳥の胸のあたりに嚙みついた。十にしか聞こえない何かをかみ砕く音がする。鳥は翼をわななかせたが、無駄な抵抗だった。

「美味しい?」

咀嚼を終えた盈は、黙り込んでいる。

「――なんだこれ?」

ぽつりと言った。

「国分涼子の幽霊の味だ」


 背後のテーブルで笑い声が上がる。

「もう、直接本人に言ってよお」

「ごめんねえ、傷つけちゃうかなって思って」

「傷つくような年齢じゃないってばあ。何年付き合ってんのよ」

テーブルの雰囲気は明るいものに戻っていた。

それがどうにも空々しく響いてくる。

 十は視線を前に向けて窓の外を見た。ここから通りを挟んで、マンションサウスヒルズが見渡せる。

ブルーグレーのタイルが飾る壁面を見上げて、息が詰まった。


 ここからでもわかるほど、大量の黒い鳥が飛びまわっていた。

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