405号室 水橋千春
親子の家 4
教えてあげなきゃ。
水橋千春にとって、それはもう使命のようなものだった。
「人間は誰しも自分を客観的に見ることはできません」そう言ったのは、彼女が中学1年生だった時の担任の女教師だった。彼女はこう続けた。
だからこそ、他者からの評価というものが大事なのですよ。自分の中の見えていない良い面、そしてよくない面も他の人からの評価は教えてくれます。
道徳の時間だったような記憶があるが、もしかしたらホームルームだったのかもしれない。他のクラスメイトが眠そうにあくびを噛み殺したり、中には隠すことなく机に突っ伏している中、その一言は天啓の如く水橋の心の深いところに突き刺さった。
水橋は人から相談をよく受ける。見た目が無害だからだと水橋は思っている。中肉中背。派手な髪色や化粧の似合わない地味な顔立ち。服装だって個性はない。また選んでしまった地味で無個性な生成りのブラウスを鏡で見て実感する。
いい人ね、と水橋はよく言われる。夫にも言われる。水橋さんって本当にいい人。他者からの評価が自分を作るのだとしたら、水橋千春は「いい人」なのだ。もちろん、それが言葉そのものの意味でないこともわかっている。そこまで自惚れてはいない。
「いい人」の「いい」は、善良であることを指す「善い」でもなければ優秀であることを指す「良い」でもない。「付き合うのにちょうどいい人」なのである。文房具で言えばセロハンテープよね。水橋は自嘲する。高価でもなく、美しいわけでもなく、でもあると便利。
水橋の故郷には大きな工場があって、「なくしてわかる大切さ。親と健康とセロテープ」という上手いんだか下手なんだかわからない標語が掲げられていた。そう。なくしてわかる。なくしてわかる大事さなの。私みたいな人はね。水橋は繰り返した。もちろん心の中でだ。教えてあげなくちゃ、これは声に出した。
「ついに今日来るんですって。霊能者の人」
いつものようにエレベーターホールで、水橋は日下部と話していた。
子どもたちを学校に見送って、少しの時間立ち話をするのが日課である。
有名な中学受験専門塾で塾講師をしている日下部瞳は、今日も紺色のパンツスーツに身を包んでいる。受験の本番が近いため、いつ呼び出しがあるかわからないから休みの日もスーツなのと大仰に困った顔をして見せた。彼女の娘達は市内でも有数の進学校に通っている。糊のきいた群青色の制服に身を包んで、高価そうな革の指定鞄を下げて仲睦まじく登校するのを毎朝見ていた。
「そう。これで収まるといいね」
日下部の目が泳いだ。ホールに飾られた観葉植物のクワズイモを見たふりをしたが、彼女が国分ありさの幽霊を無意識に探しているのは明白だった。
「日下部さん、幽霊って信じてるんだ」
これには少し気分を害したように、日下部の目が水橋を睨めつけた。銀のフレームが光る。
「水橋さんも見たんでしょ?」
「あんなにはっきり見えるとは思わなくて。あれなら日下部さんが信じるのも無理はないわ」
水橋は大袈裟に頷いた。悪気はないことのアピールだ。そして続ける。
「長谷さんも何回も見てるって言ってたわ」
長谷という名前に、日下部の苛立ちはそちらに移っていった。メガネのレンズ越しの目に、冷ややかな色が浮かぶ。
日下部は鼻を鳴らした。フンというその音が、あまりに「いけすかない風紀委員の女」という印象にぴったりで、水橋は心の中で笑った。
「そうそう。長谷さん、引っ越すんですって。年明けに完成予定の駅前のマンション、内見に行ったって聞いたよ」
「あら、そうなの?」
平然を装う日下部の目が、ほんの一瞬見開かれたのを水橋は見逃さなかった。
長谷は7階の住人で、ここでたまに世間話に興じる仲の女だった。それが先月の中頃、引っ越すと水橋に告げてきたのである。
水橋とのランチ中のことだ。マンションの近くに、他のチェーンよりはちょっと高いが落ち着いていてそこそこ美味しいファミリーレストランがある。そこで仲間内の愚痴や悩みを聞くのが、水橋の日課だった。早く結婚した水橋の子どもたちはもう高校生で手もかからない。というよりも、絶賛思春期の彼らは水橋に世話を焼かれるのを嫌っている。仕事をしてもいない水橋は時間だけはたっぷりあった。
「こないだの異動で主人がちょっと偉くなって余裕もできたから、もうちょっと部屋数の多いマンションに越そうかって話してるの」
「そうなの?羨ましい話ねえ!」
あの日、水橋は長谷のまだ膨らみの小さい腹をそっと見た。2人目は女の子だという。エアコンの風がこちらを向いて、長谷は乱れた髪を耳にかけた。
個性的なデザインの真珠のイヤーカフが左耳を彩っていた。TASAKIのコメットプラスだ。間違いない。
「それから、あんなことがあって、ここに住み続けるのはどうなんだろうなんて思っちゃって」
アイスコーヒーを一口啜り、長谷は紙ナプキンで口の周りを拭いた。長谷にはストローを噛む癖がある。潰れたストローの吸い口に少し視線をやって、水橋は「そうよねえ」と頷いた。
「お腹の子って、そういうのに敏感だっていうじゃない?怖いのよ。それにこのマンション、あんまり治安も良くないじゃない?うちこないだ車を
変えて、ちょっと良いナビをつけたんだけど、駐車したらナビが『車上荒らし多発地域です』なんて言うのよ」
「ええ〜知らなかった。あ、そのイヤリング素敵ね」
「安物よ。デザインが可愛いから通販で買ったの」
見え見えの嘘。
「すごく高く見える!」
水橋は驚いて見せながら、「教えてあげなきゃね」と口の中で呟いた。
あの時の会話を頭の中に反芻し、水橋は目の前の日下部に笑いかける。
「それがね、長谷さんもちょっと意地悪なのよ。このマンションは治安が悪いからなんて言うの。新しく買った車のナビに『車上荒らし多発地帯』て言われたらしいんだけど、私、正直感じ悪いなって思っちゃって」
「なにそれ」
日下部はもう憤慨を隠そうともしていなかった。
「あの人、治安とか言える身分なわけ?下品なのよね。私あの人とご飯食べるの大嫌い。口を開けて物を噛むじゃない?しかも
そうかもねえ、ひどいわねえと水橋は怒ったように相槌を打つ。
感情をそのまま返せば、日下部は満足する。
この場の誰にも見えていない黒い鳥が、日下部の肩にとまる。長く長く伸びた首が、ずるりと日下部の耳の穴に潜りこんだ。
鳥の眼球のない目から、音ではない声が、脳髄へと響く。
『教えてあげたよ』
日下部の怒りはそう長く続かなかった。
管理人室に入っていく背の高い人影を見たからだ。
水橋はもっと、長谷がTASAKIの高価なイヤリングをしていたとか、彼女の入居話予定の部屋の広さ(このマンションなら2部屋も多い)とか教えてやりたかったが、黙ることにした。
「背は大きいけど、若いね。大学生くらいじゃない?あれが霊能者?それに子ども連れてなかった?」
日下部は眉根を寄せて、左手首のスマートウォッチで曜日を確認した。
「学校はどうしてるのかしら」
そこに疑問を持つというのが日下部らしい。
「私たちもいろいろ訊かれたりするかもしれないわね」
まだ眉根を寄せたまま日下部は閉じた管理人室の扉を見つめた。
教えてあげなきゃ。
水橋は全身の血流が早くなるのを感じた。
胸の高鳴りさえ感じる。中学生の頃、クラスで1番可愛い女子に、彼女のいない所で彼女の取り巻きがこっそりと話していた陰口を告げた時の興奮が蘇る。「ありがと!千春ってほんといい人!」ぎゅっと抱きついてきた彼女からはいい香りがして、私はいいことをしたんだなあという満足感につま先から頭のてっぺんまで満たされた。その後彼女のグループは壊滅したが、彼女も取り巻きも、自分を見直すいい機会になっただろう。
僅かに笑った水橋の唇の端から、黒い鳥が這い出てくる。翼を広げ、眼球のない虚から声が漏れる。
瞳はいらないのだ。水橋は何も見ていないから。
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