親子の家 3

「ねえ、師匠」

 管理人室を出て、エレベーターに乗り込むと十は切り出した。これから、国分家の部屋だった505号室を見てみることにしたのだ。鍵は野本から借りてきた。

「あの子のお母さんには、あの子が見えていたのかな?」

「どうかなあ」

「オレは見たんじゃないかなって思うんだ。自分が不注意で死なせちゃった子どもが目の前に現れたから、死んじゃったんじゃない?」

「そうかもしれんねえ」

いつもの調子で盈はのんびりと答えた。

 十はその横顔を見つめる。

短い髪、太めの眉。そこまではわかるのだが、顔立ちがどうしても説明できない。極端に端正でもなければ、不細工というわけでもない。目と鼻と口があるなあというのはわかるが、それを顔だとして認識しろというと、ぼやけてわからなくなる。表情に関しても、笑っているとか怒っているらしいということはわかるが、時々それもわからなくなる。こんなことになるのは盈の顔だけで、他の人たちはわかるのだ。むしろ、人の顔をおぼえるのは得意な方なのに。

十が事故の時に父親の死に顔を見たから、それがトラウマになっていて父親によく似た盈の顔を脳が認識しないのだとか、事故で頭を打った時の後遺症の可能性だと言われていたが、だからといって納得できる話ではない。

 盈は23歳だと言っていた。自分の顔は兄である十の父親とそっくりで、彼をそのまま14歳若返らせた感じだと。

ただ、顔が見えないということは、十にとってさほど困ることではなかった。他の人よりもかなり長身の盈は人ごみの中でも目立つから、わざわざ顔で確認する必要はない。そして何より、こうして並んで歩くとき、彼は十の歩幅に合わせてくれる。他にも知っていることがある。料理はあまり上手じゃない。下手というか、完成まで時間がかかる料理は待ちきれないらしく、家ではだいたい焼きそばとか、焼きうどんとか、チャーハンばかり作る。

背が大きいので、時々鴨居などにぶつかっているのもよく見る。そして、不思議な力を持っている。十は、自分の持つ幽霊を見る目のことが好きではなかったし、この力があってよかったとも思っていなかったが、盈との血のつながりをそこに感じるたび悪くないとは思った。それらを知っていれば十分だった。


液晶の階数表示が消え、ポーンと音を響かせて、エレベーターが5階に到着した。

エレベーターは共同廊下の端に位置しており、降りてすぐに501の部屋番号をつけた鉄の扉が見えた。


――あれ?


 このマンション、こんなに暗かったっけ?

十は辺りを見回して目を擦った。廊下の電灯は昼間だから消えているが、空は翳ってはいない。真冬の快晴だ。雲もない。

それなのに、建物の中の光が急激に薄れたような気がする。

「どうした?」

「なんか、暗い。なんだこれ?鳥?」

 一羽が十の目の前を掠めていった。黒い羽の、黒くて半透明な鳥。鳩に似ている。頭は小さく、首がやや長い。それは廊下のあちこちを飛び交う。さっきまでは見えなかった。今はあちこちにいる。電灯の傘の上で羽を休めるもの、床を歩くものも、辺りをせわしなく飛び交うものもいる。盈が眉間を押さえて怪訝そうに唸った。何か見えたのだ。

「十には鳥に見えるのか」

十は頷く。胃がせり上がるような吐き気がした。

「いやなものだ、これ」

黒い鳥たちの目には眼球がなかった。暗い虚ろがぽっかりと穴をあけている。のぞき込んではいけないと本能が警鐘を鳴らす。虚ろからは口の中でだけ呟くようなか細い声がずっとしている。


「教えてあげなきゃ」

「教えてあげなきゃ」

「教えてあげなきゃ」


鳥のくちばしはみじんも動かないのに、声は陰に籠って聞こえてくる。

鳥の翼は光を吸収して、陰気に沈んでいた。

「ずっと『教えてあげなきゃ』って言ってる。師匠。これやだよ。食べちゃってよ」

「ええっ絶対いや」

ええっという声が本気で嫌そうだったので、十はちょっと気分が晴れた。

「俺にはこれが糸に見える。何本も束ねられた黒い糸だ。糸が震えているのはわかるけど、音はしない」

盈は腕を伸ばして、地面を歩く鳥に触れた。盈としては、地面に張った糸の一本に触れたつもりだった。


『教えにいかなきゃ』


 5階の廊下を埋めていた鳥が、一斉に飛び立った。

鳥の羽音というよりも、虫、それも穀物を食い尽くしてまだ飛散を続けるイナゴの大群のような羽音だった。

 糸が、引かれていく。盈は反射的に十を腕の中に庇いながら、波が引くように、あるいは蛇の大群が引き上げていくかのようなその様子を見つめていた。

 5階の廊下には、何もなかった。誰かが廊下に置きっぱなしにしたバイクのヘルメットが転がっているだけだ。それでも、盈が十を離さなかった。

「師匠。なに?苦しいんだけど……」

十を抱えたまま、盈は片手で人差し指を立てた。またこの仕草だ。


キュッ……キュッ……キュッ……


 廊下の角から、聞き覚えのある音がした。

十たちが入ってきた方とは逆から、彼女は現れた。

 翻る白いレース。血で真っ赤になったギンガムチェックのワンピース。サンダルには、赤い頭巾をかぶったうさぎの子どもが描かれている。

白いレースが床を滑り、滴った鮮血を帯のように廊下に広げたが、瞬く間にそれも消えてしまう。

十たちの横をすり抜け、国分ありさの幽霊は、軽やかな足取りで通り過ぎようとした。

「なにしてるの?」

 とっさに声が出て、十は慌てて自分の口を塞いだ。

キュと足音が止む。後姿があらわになっており、細くて柔らかそうな髪の間からじくじくと血が滲んで髪を伝い滴っているのがわかった。

痛々しい。

 ありさが振り返る。血まみれなこと以外は幸福そうな子どもの顔だ。

また、人差し指を立てた。そして、ありさは口だけ動かして、しかし唇の動きがよくわかるように大きく口を開けながら、確かにこう言った。


か・く・れ・ん・ぼ


 もういいだろうと言わんばかりにありさは素早く前を向き去っていく。

軽やかな笛の音が、彼女の死にまつわることを知った今は少し悲しく聞こえるその音がまた遠ざかる。


「かくれんぼ?」

 いきなり盈が腕を緩めたから、十は尻もちをつきそうになった。

盈が大きく息を吐くのが聞こえた。

彼は短い髪をガシガシとかきながら、やけに疲れたようにジーンズのポケットからガムを取り出していた。


「なんであの子、カーテン巻いてるんだ?」

盈はガムを3枚口に放りこむ。

「あの白いやつは上着じゃない。カーテンだよ。窓の内側につけるレースカーテン。なんであんなもの巻いてる?」

幽霊は、特に理由がなければ自分が死んだ直後の姿で現れることが多い。特に、ありさのように自分が死んでいることに気が付けない場合などはそれが顕著だ。

それなら、ありさはカーテンを巻き付けて死んだことになる。


虐待があったのかと聞かれた時の野本の表情が十の頭に蘇った。


「時間がかかりそうだなあ」と頭上で盈がまた息をついた。














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