親子の家 2
このマンションで、2人の人間が死んだ。
ひとりは国分ありさ。4歳の誕生日を翌日に控えた去年の8月11日のことだった。母親が目を離しているうちにベランダで転び、頭を打ったらしい。病院に運ばれたものの翌日に死亡が確認されている。
もう一人は国分亮子。23歳。ありさの母親で、今年の6月に正面階段8階の踊り場から転落して死んでいる。
ありさの幽霊が現れたのは、彼女の四十九日法要が終わった頃だった。最初にその姿を見たのは3階の住人で、マンションの共用廊下を走り抜けるところを確かに見たと主張した。
「10月頃には、かなりの人がありさちゃんの姿を見ています。ええと、私のところに相談が来たのは10月7日ですね」
野本が日報を捲って言った。
机の上に置かれた日報の下からありさの写真が覗いている。十はさっき見たありさの姿を思い返していた。
血に濡れた青いギンガムチェックのワンピース。白いレースの上着は裾が床につくほど長かった。赤い、うさぎのキャラクターがついたサンダル。
血まみれの顔で笑っていた。自分が死んだことなど気がついていないような軽やかな足取り、翻る上着の裾。ひらひらと、蝶のように。
十は、ありさの仕草を真似て人差し指を立て、唇に当てた。この仕草が表すのは、「静かにして」あるいは、「邪魔しないで」?
「十、この子を見たんだね?」
「見た。さっき、エレベーターの前を歩いてた」
野本が目を丸くする。
「この子もそういう力があるんですか?」
「ありますよ」
盈は即答して付け足す。
「そういったものを見ることに関しては僕より上です。優秀な弟子ですよ」
面と向かって褒められるとなんだか照れる。十は顔が赤くなるのを誤魔化して、見たままを説明しようと努めた。
「特に見ようと思ってみたわけじゃなくて、自然に見えた。怒ったりはしてなかったと思う。普通。普通だった」
霊の姿を説明するというのは難しい。
「普通って?」
野本の問いには盈が返した。
「強い恨みや後悔を抱いて死んだものは、姿が変わるんです。幽霊って、みなさんが思っているよりも弱くて放っておくとすぐに消えてしまうんですよ。ただ、何かに怒っていたり、未練があったり、後は、そう――自責の念などが強いと悪いものが集まってくる」
「悪いもの、ですか?」
野本の唾を飲む音が聞こえた。
「
幽霊はドーナツのようなものだと、かつて同じ説明を十に盈は説明した。
その頃、十は病院のベッドの上にいて、たくさんの怖いものを見ていた。
――十、幽霊は怖い見た目をしているかもしれないけど、怖くはないよ。幽霊になると体の真ん中に穴が空くんだ。ドーナツみたいに。魂の入っていたところがぽっかりと空洞になって、悲しくて寂しい。だからその空洞を埋めようとしてしまう。そこに入ってくるものが怖いんだ。生きている人の恨みとか、苦しみとか、どうしようもない八つ当たりとか、そういうものが幽霊を育てる。
十には、病院で目覚める前の記憶がほとんどなかった。白い軽自動車。誰かの叫ぶ声。自分の名前を呼ぶ声だ。それだけが朧げに蘇ってきた。
自分の中の何かが深く眠っている間に抜け出してしまったような気がして、その頃の十はよく泣いていた。目に映るものもとても怖かった。首のない人、足のない人、四肢がなく這いずる人、団子のように重なって蠢き泣く赤子。ベッドのそばに誰かが来たと思ったら、それは顔のないぶよぶよした塊だった。病院にはそれらが満ち満ちていた。自分ももう少しでそららの仲間入りをするところだったとは、後から聞いた。
父と母が交通事故で死んだ。その車に同乗していた自分は彼らが庇うように折り重なって倒れていたから奇跡的に助かった。もちろん無事とはいかず、半年間も昏睡状態だったのだと大人たちに聞かされても、両親の顔も出てこなかった。十の記憶から忘却の波にさらわれずにに残されたのは、葦原十という名前、そして幽霊を映すこの目だけだった。父の弟、つまり十にとっては叔父である盈と暮らすようになった家の戸棚の上に置かれたふたつの骨壷を見ても、なんの記憶も蘇らなかった。
「あの子は普通に歩いて、笑ってた。もしかしたら、自分が死んじゃったことに気がついていないんじゃないかな。そういう幽霊は死んですぐと同じ姿をしてることが多いから」
十はありさが血まみれだったことは伏せた。
「笑ってたんですか」
野本がつぶやいた。
「そうか、笑ってたか……」
そして噛み締めるように繰り返した。
「まだ、ありさちゃんが生きていた時ですが。よく管理人室に遊びに来ていたんですよ。おじちゃんって言って、娘が小さかった頃のことを思い出したなあ」
懐かしむように上を見上げ、野本は目元を拭った。
「ありさちゃんの幽霊が出るって聞いたときに、思い当たったことがあるんです」
そうしてまた日誌を捲る。
「ここです」
最初の日時は去年の12月10日、15時。ありさが死ぬ8ヶ月ほど前の日付だ。
12月10日、15時
707の長谷さんから小さい女の子がマンション内をうろついているとTEL。→505の国分ありさ
12月11日14時
506の日下部さんから相談。505の住人が夜中に出かけていく。ドアの開閉がうるさい。→保留
1月4日10時
301の大宮さんから報告。朝からありさちゃんがマンション内を徘徊している。事故でもあったら危ないから親御さんに注意してくれないか。→済
1月10日、13時。
4月12日、406の水橋さんから報告。上の子どもの足音が気になる。夜間に聞こえる。注意してくれないか。→済
2月10日、505の国分さんから報告。506とのベランダ境壁破損。→業者連絡済、工事の際は両室に連絡→済
「505の住民というのが国分さんですね」
盈が日誌から目を上げた。
「国分さん、ありさちゃんの母親には何か問題があった?」
「父親はいなかったようです。マンションで暮らすことに慣れておらず、騒がしいことがあったのは事実ですね。まあ、騒ぐと言っても何か問題を起こしたとかそういうのではないんですよ。ただ、このマンションは子どもも多いし、皆さん早めに休まれるのであまり遅い時間に騒がしいのは困ると何回か注意しました」
「12月11日の記述の後?」
「ええ。
野口が言いよどみ、盈が日誌を捲る。
「その後もありさちゃんの徘徊が続いていますね」
ありさの件と関係のない報告や苦情の書付の下に、「11時ありさちゃん来る」「14時ありさちゃん見かける」などが並んでいる。
「亮子さんは放任主義というか、あの年齢の子を放っておいていた気があるんです」
「ギャクタイってこと?」
あまりにもストレートな十の指摘に、野本が絶句した。
「それはわからんなあ。その家の基準ってもんがあるし、うーん。まあ、もうすぐ4歳って子を放っておくのは危ないかもしれんが。幼稚園とか保育園は行ってなかったんですね?」
野本は、おそらくと頷いた。
盈は日誌を捲り続ける。生身のありさの目撃は8月11日の「館内居室で事故」という記述で途絶え、そして、10月7日の「水橋さん、ありさちゃんの幽霊を見た?」から今度は幽霊のありさの目撃談が寄せられるようになる。
「多いですねえ。これ、本当にこんなに見てるんですか?」
目撃情報は15件。延べ10人の人物から寄せられている。
「ええ、水橋さんは2回。7階の佐古さんは3回見てます」
「野本さんは?」
訊いたのは十だ。
「私は一度も見てません。それよりも、警察は来るし、噂が広まって退去者が増えたことで上からヤイヤイ言われまして、そっちの方にかかりきりでしたね」
「警察が入ったってことは、虐待の線は消えたんですよね」
「ええ。ありさちゃんの死因は転んでできた脳挫傷だったようです。ベランダに出していた物干し竿のブロックの上に仰向けに倒れたらしくて。事件性はないということでした。亮子さんはもうそれからふさぎ込んでしまって、しばらくは母親仲間が励ましたりして、元気になってきたところだったんですが」
野本はもう、亮子の件を事故とは言わなかった。
ふと野本の顔に影が差す。
「私はですね、ありさちゃんがお母さんを連れていったのではないかと思ってしまったんですよ」
「それはないでしょう」
盈はあっけらかんと言った。
「だって、亮子さんも幽霊なってるんですよ。あの幽霊が残っている理由は恐らく自責の念だ」
パタンと音を立てて盈は日誌を閉じた。
立ち上がりざま、野本の様子を伺うように見下ろしていたのが十は少し気になった。
「ありがとうございます。大体飲み込めました。仕事を始めます」
「待ってください。最後に一つだけいいですか」
立ち上がりかけた盈を野本が慌てて呼び止めた。
「ありさちゃんは天国に行けますか?その、無理矢理に消してしまうようなことはしないであげてほしいんです」
まだ小さな女の子なんですから、と野本は再び目頭を押さえた。
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