親子の家 1

「退治していただけるんですよね、幽霊」

 野本と名乗った管理人からそう切り出され、葦原あしはらみつるは羊羹に伸ばしかけていた手を止めた。ずっしりとした色艶のいい羊羹だった、断面に見える小豆の粒も盈の好みである。

 盈たちが仕事で現場を訪れるとき、出迎える人間の反応はおおむね2つに分けられる。

ひとつはあからさまに不審げな視線を向けてくる者だ。幽霊とか妖怪とか名前がつかない怪異を信じていない人々である。とある場所を通して盈に仕事を依頼するのはマンションや不動産の管理会社でも役職が上の方の人々で、実際の現場と足並みがそろわないことも多い。仕事の依頼をする地主だとか社長だとか会長だとか、そういった役職があっていくつもの不動産を扱っている者は縁起をかつぐ。だから、がいるという事実を飲み込みやすい。

しかし、実際の現場ではそこで起こった様々な現象を現実のものとして信じている。なにか手に負えないことが起こるまでは。

 もうひとつは「神にもすがるような」という言葉がそのまま当てはまる反応だ。頼みますどうか助けてくださいなんでも協力しますと縋りつかれる。こっちの方がことを進めやすいように感じるが、もうすでに事態が最悪に限りなく近いことが多い。つまり、幽霊やそれに準ずるものの存在を信じ、助けを求めざるを得ないほどの何らかの問題が起こってしまった後だからだ。

 マンション「サウスヒルズ」の管理人室。4畳ほどの小さな部屋にはスチール机が置かれ、その上には監視カメラ用モニタとノートパソコン、それから紙のファイルが置いてある。 そこに今日は部屋に折り畳み椅子が2脚並べられている。その上に盈はやや身を縮こませて座っていた。190センチ近い盈にはいささか小さいのだ。

反対に、椅子は十には大きすぎた。地面にギリギリつま先がつくかどうか。

 あ、これはヤバいなと十は思った。野本さんというらしいおっさんは、大変切羽詰まった顔をしていた。目の下にはクマが浮いているし、顔色は悪いし、全体的に、なんだかヨレヨレである。十は軽く額を押させえてそこに目があるように想像した。

師匠である盈が教えてくれた、「見る」ための方法だ。

 野本の肩には、灰色っぽい煙がまとわりついていた。煙は野本と同じ顔をしていて、違いと言えば、こちらは嬉しそうに口を開いて笑っているところだった。笑っているのに、朗らかさは少しもない。「もうすぐクビになるぞ」「ローンがまだ残ってるのに」「お前を再雇用してくれる人間などいない」と彼の右耳にぼそぼそ吹き込んでいる。

 その状態でも十にまで茶と菓子を出してくれたのだから、多分根はいい人だ。

「幽霊の正体はわかっているんですか?」

盈が羊羹を飲み込んで訊いた。

十が尊敬する師匠は、とにかく四六時中何か食べている。そのくせちっとも太らない。

「1年前にここで亡くなった、国分ありさちゃんという女の子です。お願いしたいのは、その女の子の除霊なんですよ」

 野本は重そうに肩を回し、ファイルを手に取る。パラパラめくり、一枚のページを開いた。手が小刻みに震えている。

「この子です」

それはA4サイズにプリントアウトされた写真で、2人の人物が写っていた。

季節は春だろう。背後で淡いピンク色の花が零れるように咲いている。

大人と子どもだ。栗色の髪を緩く巻いた女が、しゃがんで子どもの肩を抱いていた。2人は頬をぎゅっとくっつけている。女は少し照れ臭そうにはにかんで、4歳くらいの小さな女の子は満面の笑みで写っている。この先に暗闇などないと信じ込んでいる、安心と希望に満ちた笑顔だった。「サウスヒルズ」という文字が写り込んでいる。場所はこのマンションの正面玄関だろう。

「あっ!この人!」

 十は椅子から身を乗り出した。さっきの女だ。髪は巻いていなかったし、眉もまつ毛ももっと薄かったが間違いない。

「師匠、この人さっきの!」

 盈は顎に手を当てて写真を見下ろしていた。

野本は、明らかにさっきよりも青い顔をして二人を見た。表情が不安を通り越し、恐怖へと変わる。

「国分さんも、いるんですか?」

口をぱくぱくと開け、ようやく野本が声を絞り出した。

「ええ、いますよ。中央の階段、8階の踊り場」

盈はそこから落ち続けていますとは言わなかったが、それで野本は察したらしい。ああ、と低い声を漏らして彼は膝の上に視線を落とした。

「事故です」

不自然なほど早口で、野本はそう言った。

「2人とも事故。不幸な、事故です」

野本自身に言い聞かせているようにも、誰かに言い訳をしているように見える。

野本は額の汗を拭い、薄くなった髪をぐしゃりと掻いた。視線が彷徨う。

「ですから、どうかお願いします。葦原さんは仕事が早い。大掛かりな祭壇も下準備もなく全て終わらせてくれると聞いています」

野本は早口で捲し立てた。情緒のギアが2段階ほど上がってしまったのがわかる。

「この際国分さんの幽霊はどうでもいいです。ありさちゃんの幽霊だけは、どうか消してほしいんですよ。先月から退去が相次いでいて、このままだとうちは幽霊マンションなんて噂が立ってしまう!」

限界だったのだろう。野本は盈に縋り付くと、頼みます、頼みますと繰り返した。

盈は幾分ひきつった笑いを浮かべながら、「落ち着いて」と繰り返している。

野本の背中に覆いかぶさる、煙のような野本が「お前はもうクビだよ」「娘の進学費用をどうするんだ」と囁いた。

 修羅場になっちゃった。十は額の目を閉じた。よく知らないが、こういうのを修羅場と言うのだろう。たぶん。子どもは見ないほうがいい。十は自分でそう判断して、目を逸らした。

「たすけて」と盈が口パクで伝えてきたが、子どもにできることはない。ごめん師匠。オレにできることはないのだ。頑張って。

 キュッキュッキュという場違いに脳天気な音がして、十はそちらに目を向けた。

椅子からビョンと降りて、管理人室の扉を細く開く。管理人室はエレベーターのあるホールに面していた。サトイモに似た大きな葉を垂らした観葉植物の鉢の横に、数人がたむろしている。エプロンをつけたおばさんたち。スーツ姿のおばさん。地味な色のブラウス姿のおばさん。

その向こう。エレベーターの前を、小さな影が通り抜けた。

 キュッキュッキュキュッキュッ。軽快に音が鳴る。床に点々と赤色が溢れる。

 エレベーター横にある自動販売機の裏を覗き込んでいたのは、小さな女の子だった。

あっ、やば、目が合った。

女の子は十の顔を見つめ、その血まみれの顔にニコッと笑みを浮かべた。

「しーっ」

 人差し指を立てると、廊下の暗がりに消えていく。羽織った白い上着が、ひらひらと翻る。

 キュッキュッキュキュッキュッ

 押し笛の入ったサンダルが、歩くたびに音を奏で、やがて消えていった。


「いたー!いたっ!女の子の幽霊!」

 十は管理人室に飛び込んだ。

「このままでは私はクビなんです。まだ家のローンが残ってるのですよ。それなのにもう3人も退去者が出てしまってえ……」

 大人が泣いている姿というのは、見ちゃいけないものを見た気になる。野本が俯いて涙をこぼしており、「そんな簡単にクビになるわけないじゃないすか」「なんとかしますんで」と盈がその背中をさすっている。

「師匠、女の子の幽霊いたよ」

「そうか。ありがと。でも先にこっちをなんとかしよう。野本さん、落ち着いて」

盈の指が野本の肩に、正確にはそこにしがみつく煙に伸びた。

蜘蛛のようだと十は思う。蜘蛛の足のように、盈の指は煙を押さえつけ捕らえた。

「お願いします。お願いします。この仕事がなくなったら、私はもう首を括るしかない」野本が懇願する。煙の笑みが深くなる。

「そんなことはありませんよ」

ずるり、と煙は野本から引きはがされる。首の後ろから、それは引き抜かれた。スライムのように粘りつく黒い液体が糸を引いて野本の背中から出てくる。煙の口が開く。口はもう笑みの形をしていない。空気が震えた。十は耳を押さえたが、その音は鼓膜を震わせる現実のものではなかった。野本の顔をした煙の口から迸る悲鳴は、だからこそひどく不快なものだった。魂の底に響き、ぐらぐらと揺らしてくる。聞き続けていたら確実に気が狂う。金属音のような、古くなった蝶番がきしむ音のような、黒板を闇雲に引っ搔くような、この世の気に障る音を煮詰めて出力したらこうなるという、陰鬱で耳障りで、気分が急速に滅入るような音。

「うるっせえ」

盈は小さく毒づいて、引き抜いた煙に食いついた。美しく並んだ歯列が、肉食獣の狩りの速さで喉笛を捕らえた。煙も喉笛を裂くことに効果があるのか十にはわからなかった。ただ、そこが急所なのだろうことはすぐ理解できた。煙の叫びが細くなり消えていったからだ。盈の手の中でだらりと弛緩した煙は、靄が張れるように消えていった。

「野本さん」

盈が野本の背中を軽く叩いた。

「野本さん。落ち着きました?詳しいお話を伺ってもいいですか?」

野本ははっとして顔を上げ、また額の汗を拭った。

「し……失礼しました。取り乱して、申し訳ありません。あれ?」

野本は首を左右に傾けて、不思議そうな表情をした。その顔は、さっきまでとは比べ物にならないくらい晴れている。

「まあ、あんまり思いつめると自分で自分の首を絞めてるみたいになりますから、気楽にいきましょう」

そう言って盈は十に視線を合わせると、唇の端で笑って「羊羹のお礼」と囁いた。












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