親子の家 6

 今やマンションは鳥の洪水に吞まれていた。

蚊柱のように辺りを飛び回る。ここから見えるすべてのベランダに鳥は佇んでいる。

屋上の給水塔を黒く染め上げて、瞳のない鳥が鈴なりになっているのもわかる。

見れば見るほど、自分のなかに黒くて厭なものが侵食してくるようだった。

「なんで急に……」

「元からいたんだ」

みつるが言った。

「俺たちが幽霊に近づいたから見えるようになった。俺たちは、管理人室で2人の幽霊の名前を聞いた。国分ありさ、そして国分亮子。名前がわかった。次に死因。ありさは事故死。亮子は、おそらく自死。幽霊に近づけば近づくほど、それを取り巻くものがよく見えてくる」

「師匠が『味が濃くなる』って言ってるやつ?」

盈は頷いた。

「幽霊は寂しいんだ。どんな形になっていても、どんなに人に恐れられようと、自分が死んだことを、自分が死んだ時に抱いた感情を知ってほしいと思っている。だから、そこに近づく者がいるほど存在が濃くなっていく」

 それは前にも聞いたことがある。100年、200年、もっと長く残る幽霊は名前が知られている。いつも誰かがその存在を噂する。そうすることで、人の感情や執着を巻き込んで長く残っていく。


「ただいまより、ランチタイムです」店員がそう告げてランチメニューを置いていき、会話が途切れた。

「注文しようか」

盈が再びメニューを開いて決めたようだったので、とおはパンケーキを選ぶことにした。呼び鈴を押すと店員がすぐに来て、てきぱきと注文を取って去っていく。

 盈が再び口を開いた。

「国分亮子の幽霊は殆ど味がない。飛び降り続ける場合はもっと後悔の念で染まっていてもおかしくないんだよ。自殺っていうのは、それ自体が噂になって霊の姿を留めやすくなるし、さらにそれに感応して彼女を見る者が一人くらいいても不思議はない。ところが、彼女を見たという人は誰もいない。俺達にははっきりと見えたのに。一番おかしいのは、あの幽霊、かすかに鳥の味がしたことだ」

鳥というのは、マンションに巣くうあの黒い怪異だ。どうもあれに入られると人の影口や秘密を伝えたくてたまらなくなるらしい。そういうもの・・・・・・は沢山いる。幽霊でも妖怪でもなく、人の執着、欲望などがたまたま形を取って悪さするようになったもの。

「鳥と幽霊が混ざることはあるんじゃないの?」

幽霊ドーナツ現象だ。幽霊は空洞にどんどん他のものを詰め込んでいく。

「なんっていうのかな、幽霊ってベースの味があるんだよ。後悔の念が大きいなら苦身が強いとか、怒りなら辛いとか。何を取り込んでいても、中心になる幽霊そのものの味があるはずなんだ。ところが、あれには鳥と同じ執着の味がわずかにするだけだった」

ベースに味があるって、なんかラーメンみたいだなと思いながら、十は気になっていたことを口にした。

「国分ありさの方は?あれも変だよ。あんなに元気な幽霊初めて見た」

「元気な幽霊だよなあ。あれだけ鮮明に残るっていうのと、意思疎通ができるのはなかなかいない。自分が死んだことに気が付いてないのもあるけど、なにか他にもありそうなんだが」

 盈が何事か考え始めてしまったので、十はドリンクバーへ向かう。普段は麦茶しかない葦原家だが、こういう時はジュースを飲んでもいい決まりがあるのでメロンソーダのボタンを押した。濃い緑色の液体と、透明な液体がコップの中で混ざり合う。ドリンクバーで飲み物を飲むたびにいつも思うが、この透明な液体はなんなのだろう。味の薄い幽霊ということを考えていたら、コップの縁からメロンソーダの泡が溢れて、十はボタンに当てていた指を慌てて離した。幽霊もこんな感じで薄まってしまったのかもしれない。なにか余計なものが、国分亮子の幽霊を薄めている。跳ねる炭酸の泡を十は眺めた。


「逃げるなよ」

怒りを込めた声が響いて、次いで何かが倒れる音がした。十たちの座るボックス席の対角線上にある4人席、そこにいたツーブロックの男が、荷物を抱えた青年の腕を掴んでいる。さっきの音は彼が慌てて立ち上がったために椅子が倒れた音らしい。

椅子が一脚、横向きに転がっている。

ツーブロックの首から伸びた煙は、今や煙ではなかった。艶のある肉色に変っていた。肉色の表面に、赤や青や紫の細い模様が網のように浮いている。引き摺り出された内蔵そっくりに見え、ひどく不快だ。その先端にはやはりツーブロック男とそっくりの顔がついていて、剣のように尖った口吻を振り回している。その先から零れた、どす黒い液体が床や壁に飛沫を作る。

「ここで逃げたら試合終了だよ?一生そのままフリーターで終わる?」

さっきの怒声とは打って変わって、猫撫で声でツーブロックが言った。

腕を積まれている青年は、長い前髪の下で、「離して……ください……」と消え入りそうな声を出した。

「離してください……。僕もう帰ります。すみません」

「聞こえないなあ」

男はまた優しい声を出し、「大丈夫!」と殊更明るく付け足した。腕を離さない。

臓物によく似たものが、さらに激しく口吻を振り回す。制御できないかのように、肉色の体がぶるぶると震えていた。溢れているのはそれの体液なのか、それとも青年から吸ったものなのか。

 老人が席を立つ。中年の女たちも、サッと伝票を掴んだ。新聞を広げている背広の男は、無視を決め込む。店内からは関わりたくないという声なき声が聞こえてくるようだった。

 十はできるだけ遠回りしてテーブルに戻った。せっかく汲んできたメロンソーダは飲む気がしなかった。

椅子に座りながら葦原を見て、彼にどうしようかと訊こうとし、そのまま十は動けなくなった。

茫洋として掴めないままの葦原の顔の中で、口元だけが鮮明に見えた。美しい歯列。それが笑みの形に動いて、舌が唇を舐めた。それはひどく動物的だった。いつもどこかとぼけていて、それでいて頼りになる優しい師匠からはあまりにかけ離れている。

ゾッと背筋が寒くなった。首筋から背中にかけてが泡立ち、唾さえ飲み込めない。

目の前に座っているのが誰かわからなくなる。たまに、こういうことがある。いつもはそれを忘れていて、こういう場面で思いだす。

「そういうことかあ」

呟いて、音もなく盈は立ち上がった。

そのまま、まっすぐツーブロックの男の元に歩いて行く。

「山田先輩じゃないですか!」

さも今気がついたように声をかけた。

虚をつかれたツーブロックが、「誰?何?」と狼狽えたのと、盈が臓物の口吻を掴んで床に叩きつけたのはほとんど同時だった。肉色の化け物は体が途中でちぎれて辺りに体液をぶちまける。果実が腐る直前の甘い腐臭があたりに満ちた。

「帰りな」

盈が青年に耳打ちする。

青年の腕から指が解け、ツーブロックは椅子にへたり込むように腰を下ろした。

青年は倒れた椅子もそのままに店外へと駆け出していった。

 盈は動かなくなった臓物のお化けを引きずって、入口の近くにある喫煙室に入っていく。ツーブロックは呆けて椅子に寄りかかったままだ。

十はなんとか落ち着きを取り戻していたが、ただ、今盈が戻ってきても、盈の顔を見れそうになかった。またあの怖い笑みを見てしまったらどうしよう。

店員がパンケーキと盈の頼んだ馬鹿みたいにでかいステーキを置いていく。赤みの残る肉を今は見たくなかった。

 それから盈は5分ほどして戻ってきた。

十の様子がおかしいことに気が付いた盈は、「どうした」と口を開きかけ、それはすぐに「ごめん」に変わった。盈の顔は元の通り靄がかかったようによくわからなかったが、どうやら困惑しているらしいというのは伝わってきて、それに十は安堵を覚えた。

「ごめん。お腹が空いていました」

でかい大人の男が肩を落として、「お腹が空いていました」である。しかも8歳の子どもを前に。

隠れてつまみ食いをした子どものようにさえ見え、十は思わず吹き出した。さっき見た得体のしれない盈の表情が、薄れて消えた。

 お化けを食べることでは腹が膨れないのか、それとも単に燃費が悪すぎるのかは知らないが、盈はとにかくよく食べる。結局その後、サンドウィッチとピラフを追加で注文し、十がパンケーキを食べ終わる前に食べきっていた。

「気が付いたことがある」

海老と鶏肉が入ったピラフの最後の一口を食べ終え、律儀に手を合わせてから盈が言った。奥の席ではまだ背広姿の男が新聞を読んでいる。

盈は窓の外を指さした。鳥に覆われた、マンションサウスヒルズ。

ファミレスとマンションを隔てる幅の広い通りを、車がクラクションを鳴らして走りすぎる。すぐ近くに横断歩道があるのに、道路を横切って走っていく者がいたのだ。

「あのマンションに幽霊が出るんじゃない。あそこが震源地なんだ」

交差点を無理に右折しようとしていた車が、直進してきた自動車にクラクションを鳴らされる。そういえばさっきからやたらクラクションの音が耳につく気がする。

「あのマンションが人を苛立たせているんだ。あそこが澱んでいて、それに無意識に通り過ぎるものが感応する。あの男も」

今やすっかり大人しくなってコーヒーを啜っているツーブロックに盈の指が向く。

「人の抱えているもの、オレはこういう言い方は好きじゃないんだけど、心の闇?そういうものを増幅させる。ここにいてもこうだ。中に毎日いたら、おかしくなる」

野本のことを思い出した。彼にもよくないものが憑いていた。自己嫌悪と焦燥と不安を食って大きくなった自意識。それが形を持ったもの。あれがもっと育つと、ツーブロックに憑いていたみたいにもっと怖いものになって、場合によっては人を害する。

「場所が悪いってこと?土地が悪いっていうのは前にもあったよね」

十は2か月前の古い民家のことを思い出した。もともと神様として祀られていた土地に憑くものをないがしろにして5人が死んだ。

「それは俺にはわからない。ただ土地じゃない気がする。家を満たしているものが、歪んで影響しあっている。鳥はその一部だと思う。中にいたらわからない。外から見てわかったが、まだたくさん中にいる」

家を満たすものという言葉が、十の中にするりと入り込んできた。

「住んでいる人が、あのマンションを怖いところ・・・・・にしている?」

そう、と盈は低い声で答え、

「全部あぶり出す必要がある」


 後ろの席から背広の男が立ち上がって席を立つ。テーブルの横に置いてあるトートバッグを持ち上げた。背広に似つかわしくない、ホームセンターで売っているような綿の大きなバッグ。持ち上げると、ガチャという金属の触れ合う音がした。

男の腰に女がしがみついている。白い腕。赤い唇。腕だけがやけに鮮明で、そこには横一文字の切り傷が無数に、平行に入っている。古い傷跡は盛り上がり、新しいものはまだ血を滲ませていた。

「殺さなくてもいいんじゃないですか」

男とすれ違いざま、盈が言った。

「ちょっと厄介な女をひっかけちゃったというだけです。放っておいても死にはしない。奥さんとは、まあ話し合ってください」

男の手からトートバッグが落ちた。

大ぶりの金槌、ネイルハンマーと呼ばれる釘抜と鎚面が一体になった工具。柄の所にホームセンターのテープが貼ってある。

男はあっと小さく叫んで慌てて鞄にしまった。女が男の腰からずり落ちて地面に転がる。腕だけが鮮明だ。

 男は怯えたように盈の顔を見て、一度目を伏せるとレジへとぎこちなく歩いていく。

「こんな風に影響を受ける」

盈はその場に残されてこちらを睨む女を見て小さく笑った。











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