第8話 プレイヤー交代
出口はこの先よ ジェイドの声がささやいた
彼女を信じ それを進んだ
大鎌に四方から切り刻まれ 死の苦痛を味わった挙句 入り口に戻された
くくく とグリエインの笑い声
声で私だと信じないで とジェイドの声
ああ そこを行っては危ないわ 今度は本当よ信じて とジェイドの声
私はまたしても彼女を信じて別の道を進み 茨の檻に囚われた
薄暗い静寂を破って携帯が鳴り、創作への没入から引き戻される不快に歯噛みした。
「信楽さん? 今、ロビーにいるのですけど」
「ああ、わかった。すぐ行く」
座卓に置いたパソコンを閉じ、立ち上がる。日曜の夕刻、群馬県は山あいにある温泉宿の一室だ。昨日からここで新作のシナリオを書いている。
この膨大な物語を仕上げて始めてグラフィックスチームが動き出せる。忙しいという言い訳は他人にはつけても自分にはつけない。社長業との両立は今だ暗中模索である。
内装も絨毯も古めかしいロビーで、青木が所在なげに立ち尽くしていた。
「よう、遠かっただろう」
「ええ。こんな所とは思いませんでした。まわりに何も無いのですね」
社長の健康を守る会とやらの誘いを断り続けていたら、週末でもいいですから一度お食事に行きましょうとすごまれた。ここに来られるなら来てみろと言ったら、本当に来た。ありがたいと言うべきだろうか。
「ここの夕飯、ひとりじゃ食いきれないほど出るから、一緒に食おう」
「お部屋で、ですか?」
「嫌なら、車でラーメンでも食いにいくか」
「まあ、それでは本末転倒ですよね」
青木は悟った顔でついてきた。縁側のある十畳の和室だ。ほどなく座卓一面の料理が運ばれてきて、仲居がごゆっくり、と退く顔に、彼女は居心地悪そうに座りなおした。好きなのを取っていいぞと言うと、バイキングみたいにちびちびと料理を持っていく。
「信楽さん、週末はいつもここに?」
「いや、ここは初めてだ。気の向くまま、あちこち足をのばしている。この前は北斗星…… 知ってるか? 寝台列車なんだが、それで札幌まで行って、月曜の朝に飛行機で戻ってきた。移動していると原稿が進むんだ」
「平日は?」
「近くのホテルが多いかな」
結未の部屋が空白になったマンションは、足を踏み入れる度に喪失感と美紗緒への愛憎がぶりかえすので、早々に売り払った。それ以降、荷物は会社に近いワンルームに押し込め、ホテル暮らしを続けている。優雅なようだが、心はホームレスだ。美紗緒を大株主にしてつなぎとめた後は、仕事のためだけに生きている。
青木は困った顔で微笑んだ。
「意外と独身生活を謳歌してらっしゃるのですね。心配して損しました」
「そうだ。僕なんかのことを心配している場合じゃないだろう。婚活はどうした」
「進展なしです」
「青木はどうして結婚したいんだ?」
少し言いにくそうに、下を向いた。
「子どもが欲しいんです」
そうか、彼女も三十六、七だ。そういう衝動にかられる時期なのだな、と感慨深く目を細めた。
「うむ。子どもはいいぞ。青木ならいい母親になりそうだな。面倒見がいいし」
すると、恨めしそうな目で睨まれた。今みたいなのはセクハラ発言だったか?
「信楽さん、率直にお聞きします。いつか、と言ってもそう遠くない未来に、つまり私が子どもを産めるうちに、八嶋さんのことを忘れて私と結婚してくださる気はありませんか」
ぶほっー! っと茶碗蒸しを噴き出してしまった。食い終わった皿の上で良かった。いや、そういう問題ではない。
「すまん……」
おしぼりでいくらか掃除する。
青木は真剣らしかった。どういう経路か知らないが、昔抱いていたという信楽への恋心がぶり返したらしい。信楽の離婚と、期限のある彼女の衝動が合致したというわけだ。
一ヶ月前、ポートランド空港で別れる時、美紗緒はいい人を見つけてくださいと言った。青木なら申し分ない。そうわかっている。
サングラスを外してテーブルに置くと、緊張した顔で答えを待っている青木をまっすぐ見据えた。
「今日はここに泊まっていくか?」
昼時のポートランド中心街は、ランチを求めて行き交うビジネスマンで賑わっている。店前に空席待ちの列があるイタリア料理店から、美紗緒は肩を怒らせて飛び出した。来るべきじゃなかった。憤まんと後悔で視界が狭い。通行人とぶつかりそうになり、横から腕をつかまれた。
「危ないよ、八嶋さん」
はっと振り向くと、松本雄二が立っていた。
『大丈夫かい?』
逆を見上げると、レンだった。
『ふたりとも、どうしてここに?』
「今日の朝、電話を立ち聞きしちゃってさ、追ってこようとしたら、こいつにつかまって、道案内に車を出してもらうはめになった」
『なら、ふたりでランチして帰って』
ぴしゃりと言って男二人の間から逃れた先を、レンが塞いだ。
『ミサオ、とにかく一緒に帰ろう』
『レン、君は車があるだろ。僕は彼女の車に乗せてもらう』
『わかったよ。ユージ、じゃ、彼女を頼む』
レンは路肩に止めた彼のBMWに戻り、松本が無理やり美紗緒の助手席に陣取った。まるで連行される犯罪者だ。
「大株主の変更が告知されて、業界で話題になっている。株ごと君を召し抱えたいって会社が日本にもアメリカにもあるらしい。店にいたの、コントラUSAの駐在員だろ?」
美紗緒は苦々しく頷いた。ランチをご一緒に話だけでも、と誘われ、つい出てきてしまった。株を売らないかと持ちかけられた。コントラUSAにポストを用意するとも。
「心配で偵察しに来たわけね」
「うちがコントラの子会社になるなんてぞっとしないからね。八嶋さんは、ただの転職話かと思ったんだろう」
「そうよ。ヘッドハンティングかと思ったの」
自虐的に白状した。コントラは日本のゲーム会社。一部上場の大企業だ。信楽が第一作エクスプローラーの販売権を売った会社、後藤が勤めていた会社でもある。
「転職なんて考えないで、大ドンを助けてやったらどう? 大ドンもそういう気持ちで株を譲ったんだろ」
「助ける?」
「ありえない忙しさらしいよ。千のパズルに千のシナリオをつけるって豪語して昼夜を問わず書いているらしい。上場会社の社長ってだけで忙しいってのに」
そう聞くと、いたたまれないほど心配になった。助けられるものならそうしたい。ぐっと飲み込み、冷たく言った。
「シナリオは彼が書くしかないでしょう」
「いや、経営のほうさ。こっちじゃ君、大ドンの影武者みたいな働きっぷりじゃないか」
「彼は私に助けて欲しいなんて思っていないわ」
「噂なんだけど、月曜の朝、大ドンが青木部長を車に乗せて一緒に出社したんだって」
唐突な松本の言葉は、予想通りとも希望通りとも言えるのに、胸をナイフで一閃されたように痛みを感じた。
「本当だとしたら大ドンも節操ないよな」
「私は気が楽だわ。こっちも別の人とやりなおしたいもの」
「明日の夜、レンとデートするんだって?」
「ええ……」
「なら、お互い別の相手を見つけて、万万才。仕事は仕事で割り切ればいいじゃないか」
「まあね」
強がりがこときれそうだった。別の家庭を持ち、美紗緒を邪険にする信楽の近くで働くことを想像しただけで泣き叫びそうだった。かろうじてポーカーフェイスを保ち、とまほーくアメリカに辿り着く。レンの大型車も近くの駐車スペースに止まり、降りたレンが足早にやってきた。
『あなたも私がコントラに株を売り飛ばすんじゃないか心配でユージについてきたの』
皮肉っぽく聞くと、悲しげな顔をした。
『違うよ。わかっているよね』
『そうね……ごめん。じゃ、明日ね。レン』
走るようにその場を離れると、背中から荒っぽいがテンポのいい会話が聞こえてきた。
『彼女は無理だよ、レン』
『やってみる前からあきらめるのは、日本人の悪い癖だ。失敗を恐れないのが僕たちさ』
『ふうん、それでこの国には結婚に失敗した奴がごろごろしているのか』
『そういう狭量で人口が減るんだ。離婚、再婚、シングルマザーに試験管ベビーに、同性愛、なんでもござれでいいじゃないか』
『おまえら、ぶっこわれてるぜ』
『完璧主義は国を滅ぼすよ。雑種は強いんだ』
お二人さん、いい友人になっているわ。私がいなくなっても大丈夫ね。ふっきるように口の中でつぶやいた。
次の日の夜、ダウンタウンの創作料理レストランでレンと恋人同士のように向き合った。グロスで髪を撫で付け、糊のきいたワイシャツにネクタイ姿のレンには、ノーベル賞の授賞式に呼ばれ、初めてめかしこんだ学者のような、微妙なちぐはぐさがあって微笑ましい。信楽はどんな格好でもしっくりした。めかしこめば実業家然とし、ラフにすれば一流スポーツ選手みたいになる。いつもうっとり眺めたものだ。
『ミサオはどんな子どもだったんだい?』
『優等生だったわ。長女だから。親の言うことを聞いて妹の面倒を見て、褒められるのが嬉しくて。あなたは?』
『僕は三兄妹の真ん中だ。好きなことを好きなだけやってきた』
なるほどと納得する。そういえば信楽には姉がいる。豪快な彼女の前では借りてきた猫のようになる信楽が可愛いらしかった。
『ミサオ、誰のことを考えてる?』
見透かしたように聞かれて、ばつ悪く目を落とした。
『君は本来、明るくて率直で行動的な人間のはずだ。これからは誰かを喜ばせるためじゃなく、自分が何をしたいかを考えればいい。親のためでもなく。夫のためでもなく』
『私は充分自分勝手に生きているわ』
『そうかい?』
懐疑的な声音に、きっと顔を上げた。
『ならレン、あなたは何がしたいの? 何が人生の目標なの?』
『若いうちは好きな仕事をして、いつか愛する人とファミリーを作ることかな』
『とまほーくの仕事は好き?』
『好きだよ』
単純明快さが、くやしいほど羨ましかった。
今何がしたい? と自分に問えば、とまほーくに転職した時と変わりない。信楽の創造に荷担したい。彼のゲームを共に作りたい。今更プログラマーには戻れないが、経営面では米国にいてこそ見えてきた点がいくつもある。松本が言うように大株主として彼を助けることができる。けれど信楽が無理やり株を譲ったのは、離婚して愛想をつかしてもなお、空想の女の生き写しを手放したくなかったからだろう。仕事上、何かを望んでいるとは思えない。
『ミサオ、話してみないか? 離婚した本当の理由を』
レンは、ふたりきりのプライベートなテーブルでこそかもしだせる親密な雰囲気で、微笑みながら言った。美紗緒は話すつもりはないままに、頭で言葉にしようと試みた。
もう二度と彼の子どもを生みたくないの。想像するだけで恐ろしいの。なぜだかわからない。でも無理やり産もうとしたら私、何か恐ろしい結末に突き進んでしまう予感がする。でも彼には子どもを持ってほしい。もう一度、幸せになって欲しい。だから……
そこまで言葉を紡いで、またしてもレンの前で涙をぼろぼろとこぼしてしている自分に気付いた。頭の中の言葉を無理やり消し去って、涙を拭いた。
『ごめんなさい。レン、言えないわ』
『そうか』
レンはもらい泣きするかのような、こらえた顔で目をしばたき下を向いた。それから、たあいの無い会話を始め、ディナーの後はアパートまで送ってくれ、ドアの前に立った。
『今日はありがとう、レン』
『こちらこそ。僕たちの仲は進展しそうになかったけどね』
『そうね。残念だけど』
『残念? 本当に?』
美紗緒の言葉尻をとらえて、レンは背を丸め、ぐいと顔を近づけてきた。彼からもらった真心や献身が頭をよぎり、澄んだ瞳から目をそらさずにいた。すると柔らかな唇が押し付けられ、なまなましい感触を残してすっと離れる。レンは悲しげに微笑んだ。
『夫を裏切ってしまったって顔をしている』
はっと頬に手をあてた。
レンは踵を返し、足早に車へと向かった。キスされたくらいで何よ。動揺する自分をせせら笑いたいのに、私、信楽さん以外に触れられたくない。そう自分に確認したとたん、涙がこぼれた。
朽ち果てた古城でしばしまどろむ
夢の中でグリエインがささやく
愚かよのう
まだジェイドがこの世に存在したと信じるか
一時はおまえの妻であったと信じるか
すべてわしの幻術であったというに
おののいて目覚め
挑むがごとくジェイドの声を信じて進む
油の海に落ち、放たれた火に身を焼かれた
「信楽、またうわのそら」
小林の叱咤に、信楽はサングラスの奥で目をしばたいた。つい創作に入ってしまった。この間株主総会が終わったと思ったら、もう中間決算である。上場会社社長の忙しさは個人企業時代の比ではない。今日も今日とて小林が社長室につめて書類のチェックだ。
電話が鳴った。無意識に取った受話器の向こうで、愛しい女の声がした。
「もしもし。信楽社長?」
「ああ」
何の用だ、という口調で答えると、美紗緒はひるんだように無言になった。
「どうかしたのか?」
少し心配になって声を和らげた。
「あ……の。何でも。あっ、そうだわ。申し上げておきますが、私、株主として何かをする気はありません。あなたが決議したい案件があれば、すべて同意します。たとえ名義は半分私のものになっても、これまでどおり会社を左右する力はあなたにあると考えていただいて結構です」
「ふうん。そうなのか? アメリカでビジネスに目覚めて俺と離婚したのかと思っていたが。そんな弱気で大丈夫なのか」
「わ、私が株主としてあなたに立ち向かったら、大変よ?」
「できるものならやってみろ」
「いいえ。私、とまほーくを辞めます。私の能力は別の舞台で使わせていただきます」
「なんだと!」
仕事が生きがいだからと頭を下げたのは誰だ。俺と別れても平然と仕事をこなし、皆の賞賛を集めていたのは誰だ。俺が君に固執し続けることは、君を苦しめるだけだと思った。だから株を譲渡して会社というつながりだけにすがろうとしたのに。今度は辞めるというのか。罵倒の言葉が頭に溢れ、しかし言葉にならぬままに受話器を握りしめた。
「好きにすればいい!」
叩きつけるように受話器を置いた。目の前で小林が眉をしかめ、鼻を鳴らした。
「ふうん。信楽、最近そういうかんじで彼女と話してるんだ」
「会社を辞めると言ってきた」
「ええっ! 株を持ったまま?」
「議決は俺に従うから心配するなとさ」
小林は、あちゃあ、とのけぞった。
「わからなくもないけどね。お姫様扱いから、その豹変ぶり。辞めたくもなるわね」
「向こうが俺を捨てたんだ」
「今でも覚えているわ。彼女の出社一日目。あなたが作品ごとにスタッフを厳しく評価しているという話をしたら、彼女、それは辛いでしょうね、って涙ぐんだの」
そんな話に信楽も涙ぐみそうになり、はすにかまえた。
「だから?」
「知いらない。あとは自分で考えなさいよ。私はね。もう愛とか恋とか忘れちゃった」
愛とか恋か。そんなもの今の俺達にも無い。いや俺にはあっても彼女には無い。
頭を冷やして善後策を考えようと立ち上がりかけたその時、また電話が鳴った。着信番号は海外である。仕方なく深呼吸し、受話器を上げた。
『ハロー、シガラキさん』
『レン。今度は君か』
『何かありましたか?』
『今さっきミサオがかけてきて、仕事を辞めると言われたんだ』
『遅かったか。いや……』
レンはくやしげにつぶやき、数秒沈黙した。
『シガラキさん、こんなアドバイス、絶対しまいと決めていた。だが、ミサオのことを思って考え直したんです』
『アドバイス?』
『ミサオには心的外傷がある』
思いがけない言葉に、全ての思考が途絶え、しかし今まで自分を取り巻いていた濃い霧がふっと薄まった気がして目を見開いた。
『事故の……か?』
『いや、それは違うようだ。彼女は本当に事故のことを覚えていないし、フラッシュバックも無い。それより、あなたが娘さんを亡くした時の激しい嘆きが、彼女の精神を痛めつけた…… そんなことのように感じます。確かな事はわかりません。ただひとつ言えるのは、彼女が離婚を望んだのは、その傷のせいだということです』
見失っていたパズルのピースが現れ、急に全体像が明らかになった、そんな衝撃に、信楽は力なく椅子にへたりこんだ。
『彼女は嘘をついている。自分にも、あなたにも。心の傷がそうさせている。だからあなたは彼女の言葉ではなく、顔色や、行動や、声のトーンなどから彼女の本心を推し量るべきだ。そして、彼女を救って欲しい』
心的外傷?
俺の激しい嘆き……
言葉は嘘、行動が本心……
『あなたと別れれば好転するかと思いきや、どうも違った。僕はお手上げだ。やはりあなたにしか…… シガラキ社長?』
『あ、ああ。レン。俺は…… いろいろ思い当たることがあって。いや、本当に感謝する』
『見返りはいただきましたから』
『何?』
『今日彼女とデートしたんだ。最後に一度だけキスを、ね。では、ミサオを頼みます』
『くそっ、おまえ! ……わかった』
受話器を置くと、両手に顔をうずめ身動きできなくなった。なぜだ、なぜ彼女の言葉を全て鵜呑みにした。反証は数限りなくあった。矛盾もあった。彼女の俺を見る目はいつも愛しげに潤んでいた。口づけに応え、体を許した。
手の中でサングラスがきしみをあげた。そのままむしりとり、壁に投げつける。
「どうしたの?」
小林が心底驚いた顔で、腰を浮かせた。気付くと涙が書類の上にぽたぽたと落ちていた。それを無視して顔を上げた。
「小林、頼む、今から三日、休暇をくれ」
「はあああっ!?」
もの凄い非難の声も当然といえば当然。決算の締め切りは三日後だ。
「すべて君に任せる。問題が出たら責任は俺が取る。もちろん音信不通にはならない。とまほーくアメリカに行くだけだ」
社長印を掴んで歩み寄り、無理やり押し付けると、立ち上がった小林に正面から睨まれた。
「何の電話だったの?」
「レンが、美紗緒には心的外傷があると教えてくれた。離婚もそのせいだと」
小林も目を見開いた。そして感心したように頷いた。
「なるほど。そういう言葉に落とせるのね。さすがアメリカ人」
「気付いていたのか?」
「美紗緒さんが仕事に復帰した時、何かに怯えているようだった。アメリカに行って、それが薄らいでいるように感じたの。そして日本に帰ろうとしなかったでしょう。何かあるとは思っていたわ」
「なぜ教えてくれなかったんだ」
「気持ちの問題だと思ったからよ。そんなの夫だからどうできるってものでもない。私が小さい頃犬にかまれて、今も犬が怖いっていうのは誰にも治せないもの」
「君、犬、嫌いだったのか」
「それはどうでもよろしい! とにかく行ってきなさいよ。あなたがいないからって問題なんか起こしません」
きっぱりした物言いに、抱きしめそうになった。あやうく踏みとどまり社長机にとって返す。時計は午後二時。直行便はだめだが夕刻に出る経由便ならぎりぎり間に合う。携帯で御用達の旅行会社を呼び出しながら、社長室を飛び出した。
サンフランシスコ経由でポートランドに着いたのは日も落ちかけた夕刻だった。美紗緒は昨晩の電話からどんな一日を過ごしただろうか。レンタカーでとまほーくアメリカに乗り付け、受付係が突然の社長来訪に目を白黒するのをいなして、美紗緒のオフィスに直行した。
彼女の顔が見たい。直接話したい。
しかしオフィスは薄暗く、無人であった。
すでに社を去ったということはあるまい。乗り継ぎを待つサンフランシスコからテオに電話した限りでは、彼女は出社している。辞表を出してもいない。
その時、窓の外、パーキングロッドの入り口に巨大な黒塗りのリムジンが止まるのが見えた。降り立った人物に目をみはる。美紗緒と六十がらみの日本人。見間違いようがない。コントラの社長、枝野恭一だ。ふたりは会釈を交わし、美紗緒は足早に車を離れた。枝野はのっそりとリムジンに乗り込み、運転手がドアを閉め黒い車体は走り去った。
コントラは幾度となく信楽を引き込もうとちょっかいをかけてきた。うちでだって好きなものは作れる、もっと金をかけた作品を作らないか、うちから売ったほうが同じ作品も倍売れる、そちらの言い値で会社を買い取ってやる、等など。思い出すだに、はらわたが煮えくりかえる。
その枝野が美紗緒に接触した。わざわざ日本から飛んできたのか。美紗緒の株を狙って? あの男ならやるだろう。まさか美紗緒が別の舞台と言ったのはコントラのことか?
美紗緒が息せき切ってオフィスに飛び込んできた。憤懣やるかたないといった表情だ。そこで窓際に立ち尽くす信楽を認め、目を見開く。その目に嬉しさと安堵、泣きつきたい不安、最後に自分を制する気丈さが、次々に浮かぶのを見た。
「あ…… 社長…… どうして?」
「優秀な社員に勢いで辞めろと言ってしまったのを後悔して、引き止めに来た」
一瞬、彼女の顔が泣きそうに歪み、けれど信楽を睨みつけることで持ちこたえた。
「大丈夫。転職先はよく考えますから。大株主として問題のないところに」
「株のことを心配しているんじゃない」
「とまほーくで働き続けることはできません。私…… 別れた夫のもとで働くことがこんなに耐え難いことだとは、想像していなかったんです」
本当は愛しているのに、別れた夫と。彼女の声音からはそう読み取れた。ゆっくり近づき手を取った。小さく震えている。愛撫するように手のひらを指でさすると、肩で大きな息をひとつして、潤んだ瞳で信楽を見上げた。
「私がいたら、あなたも目障りでしょう?」
「今までそういう態度を取ってきたことは、あやまる。これからは敬意を持って接する」
彼女は唇をかみ、ようやく真実と思える必死さを顔に表した。
「特別扱いもなし。ただの社員として扱っていただける?」
「うむ。ただの大株主としてならな」
「大株主として、あなたに歯向かうかもしれなくてよ?」
「ああ。望むところだ。これまでの功績を考えれば、もっと早く重用してしかるべきだった。とまほーく全体のために。そして毎日が修羅場の俺のためにも、君が必要だ」
ゆっくり、ゆっくりだ。彼女の心をひきとめ、真実を探るのだ。信楽は自分に言い聞かせた。美紗緒の手を離し、あらためてその手を差し出し、握手を求めた。
「とまほーくに残ってくれるね」
美紗緒は狼狽と嬉しさが入り混じった顔で、信楽の手を凝視し、右手をゆっくりと持ち上げた。それが信楽の手に届くまで、じっと待った。
「ええ……」
ようやく指と指、そして手のひら同士が合わさり、嬉しさに胸が高鳴った。
「これまで以上の働きを期待している」
「はい」
こぶりな手をつよく握ると、彼女がとまほーくに転職してきた最初の日、社長室で交わした握手が蘇った。あの瞬間から、俺は彼女の人生を狂わせてきたのかもしれない。ゲームに引き込み、頭の中のヒロインだと説き、ゲームのモデルをさせ、結婚し、子を産ませ、上場に巻き込み、子を事故で亡くし、みさかいのない嘆きに立ち会わせた。彼女は全て受け入れてくれた。俺はそれが愛だとのうのうとしていた。その挙句、彼女の言葉をなにひとつ疑わず、心の傷に気付きもせず、離婚まで突っ走ってしまった。
俺はきっと彼女に幸せな人生を取り戻させる。心に誓うと、ようやく肩の力が抜け大きく息をついた。長旅の疲れがどっと押し寄せる。
「となればひと安心だ。そこで休ませてもらってもいいか。いや、いっそのこと、ここで明日の飛行機まで寝かせてもらうか」
ふたりがけのソファに陣取り、行儀悪く肘掛に足を乗せた。
「今、いらしたのに、明日、帰るのね」
「うん。ちょっと忙しくてね」
「ホテルを取ってらっしゃらないの?」
「ああ、かまうな。自分でなんとかする。君は仕事してくれ」
「それなら…… 私のアパートにいらっしゃる? 簡単なものなら、お食事も作るわ」
「いいのか?」
「え…ええ」
どこか葛藤を秘めた顔で、頷いた。
その夜、彼女と小さなキッチンテーブルをはさんで夕飯を食べた。一緒に眺めたテレビで話がはずんだ。今はこれで満足しろと自分に言い聞かせ、リビングのソファで寝るから、と明かりを落とした。
しばらくして美紗緒の小さな足音が忍び寄り、寝たふりをした信楽に口づけた時、彼女は葛藤を秘めたまま、ひっそりと信楽を求めているのだとわかって、胸が焼け付くような恋情に身もだえした。
一時間ほど言い訳を考えたり、眠ろうと無駄な努力したあげく、勢いよく飛び起き、寝室にずかずかと踏み入って、薄いタオルケット一枚の下に横たわる彼女のベッドに飛び乗った。黒髪を掻き分け、耳元に唇をよせる。
「嫌なら今止めてくれ」
美紗緒は首を振った。
体を寄せると、美紗緒はあまりにも愛しげに信楽を抱きとめた。聞いて、私レンにキスされてしまった。この唇も、この体もあなただけのものなのに。あなただけを愛しているのに。それで思わず電話したの。ばかよね、私。何を言うつもりだったのかしら。お願い、滅茶苦茶に抱いて。他の男にキスされたことなんて、忘れさせて。
そう言っているような気がした。
ことが終わると、燃えつきた二本の花火のように、しおれ寄り添って眠った。
朝日の中で互いの目覚めを確認した時、美紗緒は天井を見つめ、抑揚のない声で言った。
「昨日のは遊びよ。そうでしょう」
また偽ろうとしている。
「もうこんなこと、していてはだめよね。お互い、別の道を歩き始めたのだもの」
その口調に悲しみが溢れているのを、心にきざむ。抱き寄せ体を預けてくるのを確かめる。
言葉は邪魔だ。もう彼女の嘘には騙されない。けれど嘘を指摘したら、もっと大きな嘘をつこうと苦しむのだろう。問い詰めまい。ただ彼女の心と体に入り込み、今だ真っ暗な彼女の迷宮をひとつひとつ角を曲がるごとに明らかにしていこう。
「私の言うこと、聞いてらっしゃる?」
「ああ、聞こえている」
肩やひじや腰の関節のなだらかなアーチを指でひとつひとつ辿るごとに、彼女は優しく吐息をはくのだ。
ジェイドよ
私はもうおまえの言葉を信じない
グリエインに翻弄される私を 真実のおまえはどれほど悩ましく見ていたろうか
私は自分の信じる道を進む
だがおまえへの愛が消えたわけではない
ジェイドよ
まやかしでもいい おどしでもいい 私に話し続けるがいい
私はおまえの声を聞くだけで 前へ進み続けることができるのだから
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