第7話 暗く歪んだレンズ

 ゲーム製作会社とまほーくは、社長でありゲームデザイナーでもある信楽武司の新作「サウザンドトゥームス2(仮題)」の製作を三月二十六日の株主総会と同時に発表した。

 新作に先駆け、ユーザーがダンジョンを作成し出来栄えを競うオンラインゲームを無料で提供し、優秀な作品を新作の下敷きにする計画。定評のある信楽氏のストーリーを、自分が作ったダンジョンにあてはめてもらえるチャンスとして、ファンに参加を呼びかける。オンラインゲームは日本以外に米国版、欧州版も用意。世界的展開となる。夏休み前に始動予定。

 新作の発売は未定だが、来年末を目指すとのこと。

 これを受けてとまほーく社の株価は最近の割安感もあり、数日で三十%近く上昇した。 

(日本ビジネス新聞より)



 税関の出口に姿を現した信楽は、不機嫌に口を結び、薄暗いサングラスをかけていた。美紗緒は丁寧に一礼して駆け寄った。

「お疲れさまです。飛行機はいかがでしたか」

「快適だった」

 彼は目の前を通り過ぎた。早朝のポートランド国際空港。広い通路に人影はまばらで、行く手を阻むものはない。

「この出張をお願いしたのは私です。二日間のスケジュールはきっちり埋めさせていただいています。一緒に行動していただかないと、こなせません」

 早足で追いかけ立ちはだかると、彼は一瞬美紗緒を見下ろしたようだったが、すぐ顔を上げ遠くに目をやった。

「わかった」

 あとは黙々と美紗緒に従い、パーキングビルに止めた車の助手席に納まった。

「松本さんはニューヨークに出張中です」

「そうか」

「そのサングラス、度入りですか」

「ああ」

 車中で交わした言葉はこれだけである。まるで敵同士だ。いやそのとおりかもしれない。

 五月の光輝く青葉が茂る木立の中から、茶色いタイル張りの二階建てビルが姿を現す。信楽がとまほーくアメリカに来るのは十ヵ月ぶりだ。エントランスを入って、目の前にほぼ全職員が満面の笑みをたたえて出迎えるのを前に、彼はようやく不機嫌な顔を緩めた。

『ハロー、ボス』

『新作、とうとう始まりましたね』

『お会いできて光栄です』

『ありがとう、新作では皆を驚かせるよ』

 ひとりひとりの顔を確認し、にこやかに握手していく。

『レンだけがストーリーを知っているらしいけど、教えてくれないんだ』

『すまんが、まだ極秘なんだよ』

『日本版と海外版は同時発売ですか』

『ああ。そのつもりだ』

 われもわれもと話し掛ける社員達との会話は永遠に続きそうで、しかたなくその間に入って両手をふりあげた。

『はい、これまで。お出迎えに参加してくれてありがとう』

『ミサオ、手伝うことがあれば言ってくれよ』

『社長、またお会いしましょう』

 社員たちは会話の中断に嫌な顔ひとつせず、ふたりに笑顔を向けながら散っていった。信楽はこちらを見ようとしない。美紗緒は予定表を出し、遠慮がちに近づいた。

「英語ベータ版を原型にして多言語チームが作業中です。午前中は彼らとの打ち合わせ。社長との会話でモチベーションを上げて短期間で仕上げさせるのが目的です」

「うむ」

「昼はレンがランチミーティングを要望しています。新作の内容に関する事とのことです」

「ああ」

「昼食後、テレホンサポートチームに今回のオンラインゲームの趣旨をプレゼンしていただきます。ご用意はいかがですか」

「機の中で作ってきた」

「ブレイクをはさんでE3の最終打ち合わせを二時間。ブースにオンラインゲームの展示を急遽入れ込みましたから、かなり混乱しているようです。方向付けをお願いいたします」

「わかった」

「明日は経営に関する打ち合わせ。支社長と管理部が出席します。私も同席させて下さい」

「なぜだ」

「支社長が私をご指名なのと、松本さんがいらしたことで私には経営寄りの仕事が増えているからです」

「そうか。とにかく同席したまえ」

 信楽は低く言って、のしのしと会議室へ向かってしまった。それを見送り自分のオフィスへ戻ったとたん、深いためいきとともに、うずくまった。

 四月に松本が赴任してきた。日本の同僚達と頻繁にやりとりをしている彼を通して、美紗緒と別れてからの信楽の様子がもたらされていた。どこかのアーティストみたいに、始終サングラスをかけはじめたこと。仕事の鬼になり、長時間会社にいること。マンションを売ったという噂が立ったこと。今どこに住んでいるのかわからないこと。笑顔がぎこちないことこのうえなく、サングラスよりむしろそれが皆に彼をターミネーターと呼ばせていること。

 話を聞くたび、彼は立ち直る、と呪文のように繰り返してきた。

 実際に会ってみると、感情の無い殺人機械さながら、触れたら殺されそうな気迫をみなぎらせている。だが、それが負であれ、エネルギーに満ちているのには安堵した。決して憔悴してはいない。社員達への態度は昔のままだ。けれど美紗緒の存在に対する不快はあからさまだった。

 何のために土下座までして社員でい続けることを選んだのだろう。愛する夫と別れ、想いを隠し、彼に疎まれながら一緒に仕事をするなんて。たった一時間の再会だけで、ぼろ雑巾のようになった心が揺らぎはじめている。

 会社を辞めたほうがお互いのためかもしれない……と。



 なんと涼しい顔で仕事をしているのだろう。信楽は美紗緒の態度に呆れていた。

 東京とポートランド間の直行便は、朝着いて午後に出る。今回の滞在は今日の朝から明日の昼まで。一泊三日の強行軍だ。来月E3というゲーム展示会のためにも渡米予定で、こうなってしまった。

 出迎え不要とメールしてあったのに空港に立っていた彼女を見たとたん、怒りや失った愛への未練が爆発しそうになった。だが、一日半を完璧にスケジューリングして抜かりない有能な駐在員には、嫌味ひとつ言う隙もなかった。


『以前、ミサオに有用な提案を社長に遠慮してひっこめるなと、説教されたものですから』

 ランチミーティングで中華レストランの個室に陣取ると、レンは少し緊張した面持ちで、前置きした。まったくもって彼女にぬかりはない。

 美紗緒が離婚を望んだ理由はレンではない。とするとこの男も彼女に片恋慕する同類というわけだ。努めて敵対心を抱かぬようにする。

『東京の会議で新作の構想をお聞きしました。その限りでは悲しい物語です』

 レンはグラフが入った紙を差し出した。

『北米でハッピーエンドが好まれる率を調べた映画業界での統計です。それから、過去の信楽作品をハッピーエンドとして何点だったかをユーザーに評価してもらった結果。5点満点で4.8。そして、なぜ信楽ゲームが好きかという質問に対して、ストーリーがハッピーエンドだからと答えたユーザーの割合、複数回答ですが72%です』

『つまり今度もハッピーエンドにしろと』

『それが商売上は望ましいということです』

『君、個人は賛成できかねる口ぶりだ』

『こういうマーケティングと拝金主義がこの国の映画をだめにしていると思っています』

『なら黙って見ていろ、と言いたいところだが、知っているべき情報だ。礼を言う』

 真顔で言ってから、料理をほおばった。そんな統計で作品を曲げる気はないが、エンディングを未だに決めかねているのも事実だ。

『あの話にハッピーエンドがありえるのですか』

 妙に柔らかい焼きそばを飲み込んだ。

『一面クリアするごとに、ジェイドの骨にこびりついたグリエインの悪意を浄化していく。そして全ての浄化が終わったとき、元のジェイドが生き返る』

『それは……素敵だ。とすると、ジェイドは生き返ってなどいなかったという最初の設定が、消えてしまいますね』

『そうだ。やはり生き返るという話にする。ハッピーエンドにするにはそれしかない』

 レンは顔をひきしめ、身をのりだした。

『シガラキさん、あなたは芸術家だ。作りたいものを内なる衝動のままに作ったほうがいい。それを曲げたら、あなたの作品の輝きが消えてしまう』

『芸術家? ばかばかしい。僕は経営者でもある。商業的な成功を犠牲にして芸術だなどと言ったら、会社は潰れてしまうだろう』

『確かに、デジタル技術に売れる要素を足して美術で味付けしたビデオゲームが最近の主流です。でもあなたのゲームは違う。だから僕はとまほーくで働いている』

『最初に、そう聞いたな』

 三年前、レンが本社に押しかけてきて、信楽のゲームについて熱弁した。彼の理解がひどく心にしみたのを思い出す。

『美紗緒はこちらで元気にしているか』

 唐突に聞いてしまった。するとレンは親密な顔をふっと、よそよそしく変えた。

『この二年半。彼女が元気だったことはありません。笑顔は無く、同僚と雑談もしない。仕事のためだけに生きているようだった。あなたとのお子さんを亡くしていたのだと知ったのはつい最近です』

『そうか』

 苦いものがこみあげた。

『彼女はあなたに頼るより、ひとりで戦うことを選んだ。その勇気を僕は尊敬します』

『戦う……?』

 尋ねようとした信楽に、軽蔑とも同情ともつかぬ顔で、ナンオブマイビジネス(僕に説明するいわれはない)と、肩をすくめた。この青年のほうが美紗緒を良く理解しているのかもしれない。それはひどい屈辱だったが、もう挑むいわれは無いのだと自分に言い聞かせた。

 美紗緒が去って以来、暗い色の眼鏡をかけ始めた。株主総会でも外さずにいたら、方々から小言をくらった。それでも心の弱みを見られるよりましだった。ふとしたことで涙が浮かぶ。美紗緒はもう自分を愛していない。それを受け入れるのは、結未を失った時の地割れにのみこまれるような悲しみとは違う。地平まで広がる泥の海を一歩一歩足を取られながら進み続けねばならぬような、べっとりと体にまとわりつく、悶々とした悲しみだった。

 だが、それを歩き渡り、克服し、人生を立て直すのが「結未」を持ち去った彼女への返礼になる、と思い定めたのだ。

 夕刻、美紗緒のオフィスでソファに腰を下ろした。この子会社には信楽の社長室が無いから、出張中はここに陣取るのが常だ。殺風景である。結未の写真ひとつくらい置いてもいいのにと思う。プライベートを知られて気を遣われたくないというのはわかる。だが、駐在を望んだ動機は本当だったのだろうか、と今になって思う。

「コーヒー、どうぞ」

 彼女が運んできたコーヒーは、信楽の好みの甘さになっていた。彼女がこちらをじっと見ている。わざと不機嫌に睨みつけると、立ったまま言いにくそうに切り出した。

「テオがディナーは私とふたりがいいだろうと、気を使われて……」

「ああ、テオには言っていなかったか」

「社長からお話いただいて、テオとディナーになさってください」

 支社長のテオ・モーレルは、ティントーイズからのつきあいで、この子会社で信楽と美紗緒のことをよく知るひとりである。

「いや、君と話がある。彼には明日話す」

「そう……ですか」

 美紗緒はしぶしぶといったかんじで引き下がった。



「運転させてくれ」

「は? はい」

 美紗緒の車に乗り込む段になって、信楽がハンドルを取った。五月の六時は昼のように明るい。街のいたる場所に花が咲いて、薄暗かった冬を忘れさせてくれる。彼の少し荒っぽい運転はアメリカの道にこそ似つかわしい。

「社長?」

 ハンドルさばきに見とれているうちに、車は美紗緒のアパートメントに着こうとしていた。

「112号室だったな」

 パーキングロットにぴたりと駐車し、スーツケースを掴んで車を出ると、植え込みをまたいで目の前のドアに歩み寄った。

「開けてくれ」

 彼の意図がわからぬまま鍵を開けた。信楽は躊躇なく歩み入り、リビングを抜けてキッチンに向かった。そしてあっという間に彼の手に渡ったものを見て愕然とした。美紗緒がマンションから引き上げた荷物の中で唯一アメリカに持ち帰った、結未の茶碗であった。信楽の代わりにと、毎日陰膳を作っている。

「これは返してくれ」

 有無を言わせぬ口調ですごまれた。

「嫌…… いいえ。いいわ。どうぞお持ちになって」

「他のものはどうした?」

「捨てたわ」

 彼の眉がつりあがるのがわかった。結未が育った部屋。結未が遊んだ部屋。結未が泣いた部屋。そしてずっと彼女がそこにいるように、彼が整え続けていた部屋。あれをまっさらに消してしまうのは美紗緒にとっても吐き気をもよおすほど辛いことだった。あの後、信楽は美紗緒のホテルに伝言をよこした。書類に判を押してからアメリカへ帰れ、と。美紗緒は週明けに役所に行き、離婚届に判を押して彼宛の書簡とし、すぐに空港へ向かった。

 それが七年間の結婚の終わりだった。一緒に暮らしたのはたった四年である。その四年の中に、結未の誕生があり、とまほーくの上場があり、結未の死があり、そして信楽の嘆きの暗黒があった。

 信楽は調理台に載せたスーツケースから真新しいタオルを出して茶碗をくるむと、大事そうにしまった。

「話さなければならないのは、金のことだ」

「父の話は忘れてください。私が一方的にお願いした離婚です。何もいただきません」

 彼が挑むようにこちらに近づき、暗いレンズに自分の必死な顔が映るのを見た。

「今は必要なくても、いつかもらっておけばよかったと後悔するかもしれない」

「あなたもいつか私に渡したことを後悔するわ。私に下さるくらいなら、あなたの未来のために、とっておいて下さい」

「未来なんて!」

 はき捨てるように言った信楽に、美紗緒はとうとう涙をにじませてしまった。抑えていた感情がこぼれ出てしまった。

 信楽はやにわに美紗緒の腕を掴んだ。力強く大きな手は二の腕をほとんど包んでしまう。胸の横に彼の親指が当たり、部屋にふたりきりでいる緊張に息を呑んだ。もう夫ではない。恋しい男でしかない。毎夜のように夢に見る男でしかない。

 信楽が片手でサングラスを外そうとした。

「だめ。外さないで」

 大好きな彼の目を見たくない。とっさにその手を止めると、信楽は辛そうに喘いだ。

「これのせいで、世界が歪んで見える」

「歪んで?」

「君がまだ俺を求めているように見える」

 闇が目の前に迫り、キスされた。三ヶ月前の社長室でされた時と同じだった。拒もうとするのに、彼を求める純真が目を覚ます。力が抜け感情だけが色めきたつ。

「ベッドに……」

 脅すように促され、朝整えておいたベッドにふたりで転がった。それ以上言葉を交わすことなく体を交わした。

 長い別離の末の信じられないような快感だった。体重が二倍か三倍になったように重くなり、信楽の肩に頭を載せ、しばしまどろむ。目を開けると、信楽がサングラスを外し、ベッドの端に置くところだった。至近距離にある彼の目は輝いていた。心を持っていかれ、前後不覚になる。信楽はそれを救うように美紗緒を優しく抱き、横のシーツに降ろしてくれた。

「何も言わないでくれ」

 美紗緒は観念して、愛しさに目を細め、頷いた。

「何も聞かないで」

 抱き合ったまま眠った。時差のせいで丸一日寝ていない信楽はわかるが、美紗緒にとっては夕刻だ。それでも不思議なほどあっという間に眠りに落ちた。

 小一時間ほどで目覚めるとバスルームからシャワーの音がした。ひとりのベッドで自分を抱きしめる。これが最後かもしれない。いいえ、最後にしなければ。

「バスタオルを貸してくれ」

 彼の声が響いた。タオルを持ってドアを開けると、開いたシャワーカーテンの向こうに濡れた大きな体が立っていた。広さは六畳ほどもあるが、トイレと洗面台と浅いバスタブがひとつあるだけのがらんとしたバスルームである。バスタブまでタイルの上を五歩、行くうちに、信楽は美紗緒の裸体に目を細め、受け取ったバスタオルを壁の棚にほおると、バスタブに引き込まれた。

「君を洗いたい」

 美紗緒の決心は泡となり、同じ石鹸の匂いをまとってバスルームから出られた時には、信楽に支えられなければ歩けなくなっていた。しかし、彼がこうささやいた時、全身の力をふりしぼって、信楽をつきとばした。

「俺はまだ離婚届を出していない」



 信楽に体を預け朦朧としていた美紗緒が、鬼神のように自分の腕から逃れたから、まずぼう然とした。

「なぜ? 私を騙したの?」

 体を交わして芽生えた希望が一瞬で吹き飛び、事態は振り出しにもどった。溶けかけていた信楽の中の怒りが再燃した。

「騙すだと? ただ財産分与の話が済んでからでもいいと思っただけだ」

「でも私があなたを呼ばなければ、こちらに来る予定は無かったのでしょう。そうしたら何ヶ月放置する気だったの」

「君は俺への気持ちが冷めてから何年放置したんだ。人のことを言うな」

「なら、帰国したら、出してくださるのね」

「ああ!」

 きっぱり答えると嫌なものを飲み下したように腹が冷たくなった。やはり終わっていたということだ。魂の交感のように体を求めあっても、何も変わりはしなかった。


「俺が夫でなければ、抱かれるのか」

 オレンジ色の街頭が照らす夜道を美紗緒の運転でホテルに向かう車中、苦々しく聞いた。

「さっきは私を妻として抱いたの?」

「妻とか妻じゃないとか、関係ない」

 君を求める渇望に翻弄されただけだ。

「私も、関係ないわ。ただの遊びよ」

 悪ぶった物言いに、鼻で笑った。まるでそぐわない言い草だ。

「他の男とでも遊べるっていうのか」

「気が向けばね」

 胸に大きなわだかまりができた。遊びで男と寝るような女じゃない。そんな認識さえ、誤っているのか。彼女が自分を愛し続けていると誤解していたのと同じように。

「だがもし、さっきのことで君が妊娠していたら……」

「ありえません」

 きっぱりした答えに、横顔を凝視した。

「ピルを飲んでいますから」

 まさか他の男と遊ぶために? それとも俺との間に何も残したくはないからか。だとすれば今日の事を予想していたのか。でないとすれば、何年も前から? 矢継ぎ早に頭に浮かんだ問を聞くことができず、押し黙った。


 次の日、会議の後で支社長テオ・モーレルとふたりになった。ラテン系の濃い顔。四十そこそこの秀才で、元は経理の人間だった。純粋にジェネラルマネージャとして雇ったから、実務にはまったく関与しない。もともと指揮は信楽が直接取るつもりだった。しかし子会社発足直後に結未の事故があり、放置状態となってしまった。その混沌を救ったのが美紗緒だったというわけだ。

『タケシ、君にしては決断が遅かったな』

『どういう意味だ?』

『話っていうのは、ミサオの昇進のことだろう。ゴトーさんも、コースケも一向にアクションを起こさない。新年会議の時それとなく聞いてみたが、念頭にないそぶりだった』

 テオは呆れ顔で言った。実際、信楽の念頭にも無かったから、しばしテオの話を聞くべきだと思った。

『どういう昇進をすべきだと思う?』

『そこだよ。僕が強く言いたくなかった理由は。もし昇進して本社に帰られたら、こちらは大穴だ』

『松本では彼女の代わりにならないか?』

『ユージでは質が違う。彼は人生をエンジョイしたいクチだ』

 テオはおまえの目は節穴かと言わんばかりに断言した。こういうアメリカ人管理職の人を見る目の鋭さには時々舌を巻く。

『ミサオは完璧なホワイトカラーだ。自分を管理し、仕事を管理し、会社全体の利益を考えて何が重要かを常に順序だてて行動している。必要とあらば人間性を抑えた判断もいとわない。与えられた仕事をこなすだけのワーカーとはレベルが違うよ。そこらへんを見込んで君は人生のパートナーにも彼女を選んだのかと思っていた』

 ぐうの音も出ないとはこのことだった。テオの表現する彼女の能力と実績をすべて知っていた。だがそれを信楽は、妻が離れた夫に示す愛だと誤解し、後藤や赤池は夫を置き去りにしてのびのび働く妻の身勝手だと捉えていた。昇進の話などひとつも無かった。

 彼女に関する何もかもが崩れていく。自分はいったい何を見ていたのか。愛情と結婚というフィルターを通し、自分に都合のいい女を作り上げていただけなのだろうか。

『わかった。彼女の昇進については早々に結論を出すよ。だが、僕が話したかったのはそのことじゃない。僕は彼女と離婚した』

 テオは目を見開いて、口をぱくつかせた。



 空港に信楽を送って行き、ゲートで別れるとき、彼が突然サングラスを外したから、美紗緒は瞳に吸い付けられ、息苦しくなった。

「昨日、レンと話して思ったよ。彼は純粋で、優秀な男だ」

 何を言い出すのかと、どこか悟ったような顔を凝視する。

「あいつと君がつきあったからと言って、君の首を切るようなことはしない。だが、遊びはだめだ。あいつを傷つけるな」

 私にレンと本気でつきあえということ? 心で嘆きながら、息を吸い込んだ。

「そう。あなたのお墨付きが出たというわけね。ありがとうございます。あなたもいい人を見つけてください。遊びでなく」

 信楽はむっとした顔でサングラスを戻した。

「そうするよ。ありがとう」

 彼の背中がゲートに消え、美紗緒は体がばらばらになるような脱力感を覚えた。これで終わり。本当に終わりだわ。まだ離婚届を出していないと聞いたときには動転した。さらに彼を傷つける何かをせねばならないのかと思うと泣きたくなった。激情にかられて彼と寝てしまった後でもう一度なんて、と。

 けれど信楽は他の男を勧めるほど、美紗緒を思い切ったのだ。離婚届も出してくれるだろう。ようやく彼がもう一度幸せになる道筋が見えた。

「よかった」

 強いてつぶやくと、世界にひとり取り残されたような気がした。待合のベンチに悄然と腰をおろす。まわりの風景が絵のようになり、英語や異国の言葉が遠のいていく。

『ミサオ、彼は帰ったのかい』

 どれほどたった後か。我に返った美紗緒の横にレンが座っていた。いつからいるの、どうして来たのと聞くでもなく、静かに答えた。

『ええ。行ってしまったわ』

『いつか、僕に話してくれないか。彼と別れた本当の理由を』

『だめよ。この秘密は墓まで持っていくの』

『そうか』

 はっと、この離婚に隠した理由があることを明かしてしまったのだと気づいたが、もう戻せない。

『レン。お願いがあるの。私がとまほーくを辞めても、あなたは辞めないで』

『辞めるつもりなのか。そうだよね。別れた夫の会社に勤め続けるなんて、どうかしていると思っていた。でも、どうして僕を?』

『あなたはとまほーくにとってすごく大事な人だから』

 レンは思慮深げな顔で美紗緒を見つめ、優しく微笑んだ。

『わかった。辞めないよ。君に辞めるなとも言わない。今の状況は辛すぎるよね。そのかわり、とまほーくを去る前に、僕とデートしてくれないか』

 信楽との会話が蘇り、決意に息を吸い込んだ。

『いいわ。E3が終わったらね』

 これが遊びにしろ本気にしろ、私はもうあなたに関係ない女になるの。レンの嬉々とした笑顔に、美紗緒は複雑な思いで微笑み返した。

 数日後、気乗りしないながらも母親に電話し、役所で戸籍を取って欲しいと頼んだ。離婚届が出されていれば、新たな美紗緒ひとりの戸籍ができているはずである。次の晩、電話が鳴るから、その結果だろうと受話器を取ると、響いたのは信楽の声であった。

「今日の朝、離婚届を出した」

 いったいどういう経路で信楽に話が行ったのか、たぶん父だ。と悔やみながら、ありがとうございます、とつぶやいた。

「それから財産分与として、俺が保有するとまほーく株の半分を君に譲渡する」

「はっ!?」

 あまりに突拍子が無く、意味が飲み込めなかった。しかしゆっくり飲み下すうちに、その意味するところの重大さに青くなった。

 彼はまぎれもない筆頭株主である。その半分と言えば、価値は数十臆円になる。さらに、信楽は経営に関わる議決権を左右する力を失い、美紗緒に預けることになる。

「寝ぼけているの?」

「こっちは昼だ」

「無理よ、そんなこと」

「無理ではない。お義父さんの力も借りる。君の心の準備が整うまで管理してくださるそうだ」

「父に強要されたの? そうなのね?」

「違う。昨日お義父さんがここに来て、財産分与のことは忘れ、早く離婚届を出してやってくれと頼まれた。俺が離婚をしぶって君を苦しめていると思ったのだろう。お義父さんは、君の幸せだけを考えている」

 父の顔が浮かび、涙がこみあげた。

「ずっと考えていた。離婚したら、俺たちの間には何も残らない。まるで何も無かったかのように、ゼロになってしまう。だが、本当に何も無かったのだろうか。俺たちが出会ってから作り上げたものは何だったのか。考え続けた」

 信楽の声は不思議なほど淡々としていた。

「今のとまほーくは俺が君と作り上げた。俺たちの子どもだ。君には権利があり、これからも面倒を見続ける義務と責任がある。俺とそれを分かち合うべきだ。それが俺の結論だ」

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