第6話 ジェイドふたたび

 早朝自分のオフィスに入るなり久美子はぎょっと立ち止まった。巨大なトカゲが窓に張り付いている。両手を窓につき微動だにせず外を見下ろす後ろ姿。信楽である。

「おはようございます……」

 おそるおそる近づいた。

 おとといの深夜、赤池との突貫作業中に「妻といちゃいちゃ」しているはずの彼が突然戻ってきて、無言でプログラムに手を加え始めた。赤池と目配せしてしまった。とうとう八嶋が別れを切り出したのに違いない、と。信楽にプログラミングはさせないというのが金科玉条の赤池も、見守るばかりであった。

 昨日は一日ここにいて、夕刻にかかってきた無言電話が着信で自宅からだとわかると飛び出して行き、仏頂面で戻ってきた。夜になると、お前らは帰れ、俺が最後の仕上げをやると言い張り、赤池と共に追い出された。

「ああ、おはよう。あれ、仕上ったぞ」

 振り向いた信楽は、社長という薄皮一枚で身を保っているだけに見えた。瞳はうるみ、髪は乱れ、無精ひげが生えている。その隙だらけの姿に胸をしめつけられ、ワイシャツの腕を両手で掴んでしまった。

「信楽さん、泣きたい時は泣いたらどうですか。その隅で信楽さんが号泣していたって私、気にしないで仕事しますから」

「なんで俺が号泣……」

 やんわりと久美子の手を拒み、この期に及んでとぼけようとする。

「知っています。八嶋さんのこと。赤池さんがアメリカで彼女の気持ち、聞いてしまったって……」

「気持ち?」

「信楽さんとは暮らしたくないって、おっしゃったそうです」

「そうか……」

「赤池さんはそれを信楽さんに言えなくて苦しんでいて」

 久美子も八嶋と話し、突き放した物言いに結末を予感した。

「そうか」

 はりつめていたものが切れてしまったというように、ずるずると窓の下に座り込むと頭を両手ではさんで丸くなった。

「青木、すまん。部屋の隅じゃなくて、ここでもいいか?」

「ええ」

 号泣するわけではなかった。背中を丸めて深い息をするだけだった。つい小山のような背中に右手をのせると、子を失い、さらに妻にも去られようとしている悲しみが鈍痛のように伝わってきて、抗いきれず頭を抱いて太い首に頬を乗せた。シャツの襟があごを押し返すのに逆らい、力をこめて抱きしめた。

「忘れないでください。社長のために一生懸命働いている社員のこと、信楽武司のファンのこと。みんな信楽さんのことを尊敬しています。大好きなんです」

 私も…… 言いたい気持ちと格闘した。こんなかなわぬ恋をしたらさらに婚期を逃してしまう。もし別れても彼は八嶋美紗緒を思い続ける。そんな確信がある。

 腕の中で彼の息遣いがゆっくりと柔らかくなっていった。

「ありがとう、青木。いつも世話になりっぱなしだ」

 顔を伏せたまま、ぼそりと言われ、久美子はとうとう自分の気持ちに降伏した。

「好きで世話を焼いているのですから、気にしないでください」

 抱擁と解くと、彼は静かに立ち上がった。

「今日の会議も、よろしく頼むよ」

「はい」

「家に帰って身奇麗にしてくる」

「ええ。そのままでは、どんな大変なゲームなんだってみんなが恐れおののきますね」

 信楽はむりやり笑顔を浮かべ、そのしぶとさに胸をつかれた。またこの変人に恋してしまった…… 背中を見送り、騒がしい鼓動を叱るようにこぶしで胸を叩いた。



 年に二、三度は東京の会議に参加するが、開発の会議は初めてである。レンは少なからず興奮していた。入室にあたって携帯電話を没収され、窓の無い殺風景な会議室に入ると、ラフな格好をした開発スタッフ達が立って会議の開始を待っていた。イスも机も無い。不思議な会議室である。参加者は約五十人。シガラキはまだ姿を見せない。すぐ横でミサオが日本の同僚たちを部外者のように眺めている。明るい色のスーツに身を包んでいるが、心を閉ざした無表情な様は昔のAIBそのものである。シガラキとよりが戻ったわけではない。たぶん逆だ。もしや彼女と新しい関係を築けるのではないか。同情しながら、期待してもいる。とにかく弱りきった彼女から目を離すまい。

 時計が会議の開始時間、午後一時をさした時である。ズッシンという巨大な扉の閉まる効果音が響き渡り、部屋の電気が消えた。高層ビルの中心に位置する窓の無い部屋ゆえ、パーティションの隙間がうっすらと浮かぶだけで、真の暗闇に近い。ミサオの姿も消えうせ、慌てていると、

『大丈夫。たぶん彼の演出よ』

彼女の声に気遣われた。

 不気味な効果音が次々に鳴り響いた。どうやら天井の四方に性能のいいスピーカーがすえつけてあるらしい。気づかなかったな…… などと余裕を気取るものの、何かの這いずる音、獣の遠吠え、断末魔の声、そして静寂の後の巨大な物体が通り過ぎていく轟音。ついびくっとしてしまう。まるでホラーハウスだ。まわりの人間が上げる悲鳴や息を呑む音にも脅かされずにはおれない。

 老人のしわがれた声が日本語で何か言い、参加者達が口々にブーイングした。近くの男が不用意に動いてレンにぶつかってきた。

『ミサオ!』

『レン。ここよ』

『今、何て言ったんだい?』

『永遠にここに閉じ込めてやるって』

「WHAT's!?」

 レンはミサオの肩と確信できるものを手で探りあて、下につたって手を握った。暗闇に閉じ込めるなんて、どういう会議だ。その時、後方で誰かが叫んだ。

『ドアが開かないって、言ったわ』

 ミサオが冷静に通訳した。

『ミサオ、大丈夫?』

『ええ。考えているの。彼が何を伝えようとしているのか。閉塞感。恐怖。疑念。混乱…… きっと次のゲームにつながるものだわ』

 まるで闇夜を導くセイレーンのようだった。彼女は今もシガラキを理解し助けるために全身全霊を傾け、暗闇ごときにはひるまない。半分感心し、半分いらだった。彼女はシガラキと別れたのではないのか。

『孤独と怒りも』

 すぐ後ろから低い小さな声がし、ミサオの手がびくりと震えて、レンも息を呑んだ。シガラキの声だった。いつのまにか彼が暗がりに潜んでいたのだ。レンの手から、むりやりミサオの手が引き剥がされた。

『ミサオ!』

 気配が消えた。ミサオが連れ去られたのだ。孤独と怒り。レンはまさにそれらを感じていた。



 壁際に引き寄せられ、信楽が覆い被さってきた。手の荒々しさと息遣いに、彼の怒りを感じる。レンに手を握らせていたからか。一昨晩の話のせいか。対する美紗緒は、あの晩から狂おしく憂いていた彼に力強く包まれ、嬉しさを覚えてしまっている。

 信楽が耳元に鼻をおしつけた。耳朶に当たる吐息のせいで、官能的な身震いがした。

「君が憎い」

 かすれた声が耳の中に落としこまれた。

「殺してしまいたい」

 ぞっと体がしびれた。殺すという言葉の恐ろしさよりも、そう言わしめる彼の追い詰められた心境におののいた。心から信じていた妻に裏切られた。憎しみは当然。彼の激しさは美紗緒への愛の裏返しだ。もう彼と愛し合えないなら、いっそという思いが美紗緒にもあった。

「殺して」

 彼の耳に届くよう背伸びをし、断固とした口調で言った。

「あなたになら、いいわ」

 彼の手から力が抜け、がたがたと震えた。目を見開けばうっすらと輪郭が見える。黒い闇のような顔が美紗緒を凝視している。

「どうして……」

 ぼう然とした声が闇から漏れた。そこで初めて愛の返答を口走ってしまったのだと気づき、息を呑んだ。

 部屋に微かな青い光が差し、一瞬、混乱した彼の顔が見えたが、周りのどよめきと共に踵を返し、群集の奥へ立ち去った。残された美紗緒は、中央の天井あたりに不思議なものが浮かんでいるのを見た。立体ホログラム。スモークにレーザー光線で映像を投影する技術で映し出された、サウザンドトゥームスの魔女、ジェイドだった。どよめきは驚きと感嘆の声だったのである。

「ここから出たい?」

 ジェイドは水色の瞳で皆を見回し、誘うように言った。本編の声優そのままで、すぐさま世界が蘇る。信楽の演出に抜かりはない。

「十三回足踏みをしてごらんなさい」

 だれかしらが足踏みを始め、他の皆もそれに従い、会議室にすさまじい足踏みの音と、十三回を数えるぶつぶつ声が充満した。するとジェイドはくすくすと笑い出し、笑いは次第に耳障りなしゃがれ声となり、その姿は醜い老魔法使いに変貌していった。物語の発端にジェイドが倒したグリエインの姿である。

「愚か者め。さなことでここから逃れられるとでも思ったか。わしの恨みがはれると思ったか。貴様は永遠にさまよい続けるのだ。この暗黒を。この迷宮を」

 高笑いを残して、グリエインは消えた。

 ぎゃあっ、あーあ、などと、くやしがる声が上がった。信楽に一杯くわされて、いい大人達が足踏みしてしまったのだ。続いて、次の作品はサウザンドトゥームスなのか、続編か?という興奮の声が部屋中を満たし始めた。暗闇も効果音もそっちのけで、みな隣にいる誰かをひっつかんで話しまくっている。

 数十分の暗闇を経て、会議室の扉が開いた。白い光が差し、平穏なオフィスの風景が現れる。まるで別世界への脱出口のようだ。そこに信楽が扉の番人のように仁王立ちしていた。

「これでプロローグは終わりだ。続きは地下一階の貸会議室に移動。各自ノートパソコンを持参すること。くれぐれも今の内容をくっちゃべりながら移動しないように。携帯電話を預けたものは出口で受け取るように。以上」

 厳格だがユーモアを交えた口調で言うと、通路へと消えた。

 美紗緒は壁にもたれ、出て行く社員たちを見送った。皆の顔が期待に輝いている。早く新作に取り掛かりたくてうずうずしている。信楽が人々を動かす力は健在だ。感動しながらも、自分の嘘にほころびを生じさせてしまった後悔が体を重くする。彼の傍で嘘をつきとおすのは難しい。早くアメリカに帰らなくては。

 会議室の外でレンがきょろきょろしていた。

『ああ、ミサオ』

『レン。ごめんなさい。話がわからなくて、困ったでしょう』

 ふたりはぞろぞろ歩く集団の後ろについた。

『複雑だよ。彼が君を連れ去った時にはすごくむっとした。でもあんなショーを用意する才能には感服する。やっぱり彼はアメージングだ。通訳がなくても、ショーの趣旨はわかった。次のゲームの進むべき方向、いや彼のイメージがあの暗闇と悪魔に変貌するヒロインに象徴されている。それになんてこった! サウザンドトゥームスの続編じゃないか』

 興奮してしゃべりまくっている。止める元気がなかったのもあるが、英語だから誰も聞きとがめまいと放っておいた。

 地下一階は殺風景な貸会議室のみのフロアである。最も広いCルームにとまほーく様、と張り紙があり、参加者が着席を始めていた。美紗緒もレンと座ろうとした時、背後に赤池が現れ、廊下に連れ出された。

「赤池さん、おひさしぶりです。新年会議では……」

「お世話になりました。お元気そうですね」

 赤池は穏やかな男である。けれど今は怒りを抑えるのに苦慮しているのがわかる。語気が強く眼鏡の奥の目に剣がある。

「私はさっきの裏方をしていたのです。信楽さんと一緒に。中の様子は暗視カメラで監視していました。暗闇で危険はないか。で、あなたとレンが手をつないでいるのが見えて」

「それは……」

「言っておきます。信楽さんと別れるつもりならそれでいい。早く別れてもらったほうが、さっぱりするくらいだ。だが同時にこの会社を辞めてほしい」

 息がとどこおった。赤池は取締役であり上司なのだ。これは会社からの通告に等しい。

 レンから一緒に転職しないかと言われたとき、信楽との完全な別れを想像し、慄然とした。たとえ妻の座を捨てることになっても、この職は捨てられない。信楽を見守るために、多少なりとも彼の役に立つために、とまほーくの社員でいたい。今更だがそれは経営陣を敵に回して働くということだ。彼らは信楽の旧友達である。さらに、社員全員が美紗緒に白い目を向けるかもしれない。みなが敬愛する社長を裏切った妻として。

 それでも。と美紗緒は自分を鞭打った。

「私は辞めません。どんな閑職に追いやられても。もし不当な理由で解雇されたら、私にも覚悟があります」

 赤池は自分で飼い犬をなぐったくせに、反撃にかみつかれたかのようにひるんだ。

「はじめるぞ」

 振り向くと信楽が前方のドアに手をかけて、こちらを見ていた。以前の彼なら何の話だと息せき切って割り込んで来ただろう。今は遠くから睨むだけだ。

 絶句している赤池を尻目に会議室に戻った。ほぼ同時に信楽も演壇に立ち、全参加者に顔を巡らせて、よろしくたのむぞ、という目配せをしていった。しかし美紗緒には視線を合わせない。胸がずきりとする。

「このゲームは突然始まる。オープニングムービーは無い。ゲームをスタートすると、プレイヤーはすでに迷宮の中にいる」

 彼の声が会議室に小気味よく響き渡った。美紗緒は慌てて通訳を始めた。

「暗い、気味が悪い、恐ろしい、さびしい、あるいはけたたましい。とにかく逃げ出したくなる場所だ。さらにタイマーがカウントダウンを始め、早く逃げろと脅迫する。立ちはだかるのは様々なトラップ、パズル、謎かけ、モンスター。出口はひとつ。頭脳と集中力と反射神経を必要とするアクション迷路ゲームだ」

 信楽が言葉を切ると会議室に美紗緒の小さな通訳の声だけが残った。

「出口を発見し脱出に成功した時、プレイヤーは、ほっとする。達成感だ。快感でもある。しかしまた挑んでみたくなる。コントローラーのボタンをひとつ押せば、もう次の迷宮だ。さっきとは違う風景。違う恐怖。違ういらだたしさ。経験は役に立つが、トラップは徐々に難しくなり、モンスターは強くなっていく」

 皆の期待に答えるように、口だけでにやりと笑った。

「例によってこのゲームにも物語がある。さっきその一端を見てもらったから気づいただろう。サウザンドトゥームスの続編だ」

 やはり、と頷くしぐさがさざなみのように皆の頭を揺らした。

「実際のゲームでは、迷宮を進んでいくなかで徐々に明かされる物語だが、今日は特別にお見せしよう」

 明かりが消え、信楽の背中にあったスクリーンに画像が投影された。ジェイドが生き返る場面。グリエインに身を焼かれ、千の骨になったジェイドが蘇る、前作のエンディングだ。画面はファンタジー風の絵巻物に変化し、主人公のナレーションが始まった。

 

――魔女ジェイドは生き返った。

 世界を駆け巡り、戦い、彼女の遺骨を集め、私が生き返らせた。私は新しい国で王として迎えられ、ジェイドを妻に娶った。

 幸せな日々が、永遠に続くかに思えた。

 しかし私は気づいた。ジェイドの変化に。彼女が人知れず悪の種を撒き始めていることに。

 ジェイドは元の彼女ではなかった。彼女の遺骨ひとつぶひとつぶにグリエインの悪意が忍び込んでいた。彼女の魔力を糧とし、彼女の体を借りてグリエインが生き返ろうとしていた。

「王よ。私の中にあやつが蘇ろうとしている」

 ジェイドは必死でおのれを保ち、警告した。

「その前に私を殺すがよい」

「できぬ! 愛する妻を手にかけることなど……」

「王よ。私は生き返ってなどいなかった。私の生身はグリエインに焼かれ滅びた。この身は幻。そなたの愛と執念がなしえた短い奇跡。そなたの妻として過ごした日々は黄泉への土産となった。もう心残りは無い。さあ、この身を骨に戻しなさい。さもなくば二度と滅ぼす事のできぬ悪意がこの世界を再び混乱と恐怖に陥れよう」

 ジェイドが剣を差し出し、受け取るのを躊躇したその刹那。グリエインに身を操られたジェイドが切りかかってきた。とっさに細い腕から剣をもぎとり、そして彼女の心の臓を刺し貫いた。

 ジェイドの……体は、こなごなに砕けた!

「あと少しだったのものを、よくも!」

 グリエインの呪詛の声があたりにこだまし、ジェイドともグリエインとも分からぬかけらが私を包む。

「おまえを連れて行く。苦しみと恐怖と後悔の迷宮へ。さまよえ。絶望せよ。二度と元の世界には戻さぬ」

 

 絵巻物は、主人公が渦巻くかけらの奥深くへ落ち込んで行く場面で終わった。会場中からため息がもれた。美紗緒は必死で翻訳しながら、せりあがる悲嘆と戦っていた。このゲームは信楽が経験した暗黒との長い戦いを形にしたものだ。決して生き返らない娘の骨を目にした時から始まった暗黒との……

 部屋の明かりが点いた時、美紗緒の震える手をレンが励ますように包んでいた。そしてそれを立ち上がった信楽が睨みつけるのがわかった。



 またふたりが触れ合っている。俺に見せ付けるためか。もう俺のものではないと誇示しているのか。ならなぜ俺になら殺されてもいいなどと言った。まるでこの物語を知っていたかのように。まるでジェイドのように。

 会議を続けねばならない、だが今すぐレンの手を払いのけ、美紗緒を問い詰めたい。そんな葛藤に信楽はしばらく硬直した。

「質問よろしいですか」

 開発のひとりが手を上げ、仕事に引き戻された。

「サウザンドトゥームスではジェイドの遺骨をマップから探すのが目的でした。今回は出口を探すのが目的ですね」

「そうだ」

「今回も百面作るのですか」

「いや、それ以上を考えている。できれば千作りたい」

「千面! 信楽さん、それはちょっと」

 信楽は待っていたとばかりに、会議室の中央に進み出た。

「RPGだったら、クリアするまでに何ターンの戦闘をするだろうか。難易度の高いアクションゲームだったら同じ場面を何度やり直す? テトリスのような落ちゲーで、何度リスタートをかける? 面白ければ千という数字は決して多すぎない。問題は作る方だ。時間の制約もある。身から出た錆だが二年以上僕の作品を出していない。開発期間は長くて二年。できればそれ以下に収めたい」

 各自にパソコンを点けさせ、イントラネット上にあるプログラム、赤池と青木が作り、信楽が今朝仕上げたそれを読み込ませた。

「僕のファンはコアな人々だけでも数万人はいるだろう。僕は彼らにオンラインゲームで迷路作りを競ってもらい、そこにグラフィクスと演出をつけてゲームに仕上げるという形で千の迷宮を作ろうと考えた。これはそのオンラインゲームの原型となるプログラムだ」

 そこからの操作説明は青木に任せ、信楽は早速ゲームに没頭し始めたスタッフたちの間を、教室をまわる教師のように巡回し始めた。反応は上々だった。作る楽しさと解く楽しさを兼ね備えたオンラインゲームで、世界中の英知をかき集める。それがコンセプトだ。

「このオンラインゲームは三ヶ月で立ち上げる。海外向けも同時に。コンソールは多言語に対応するが、迷路は万国共通。ひとつのサーバーで受ける」

『レン、どの言語が必要だと考える?』

 信楽はレンと美紗緒の横から英語で聞いた。レンはすぐさま立ち上がり、信楽を正面から見据えた。レンは信楽より少し背が高い。若者らしいすずやかな視線が小憎らしい。

『各言語圏の販売本数から考えれば、英語、フランス語、スペイン語でしょう。市場を拡大したいなら、ドイツ語とロシア語を加えればよろしいのではないでしょうか』

『わかった。とまほーくアメリカもすぐに忙しくなるぞ。覚悟しておいてくれ』

 ふたりに向かって言ったにも関わらず、美紗緒は目をそらしていた。義父の言葉が頭をよぎり、血の気が引いた。俺と別れて、仕事を辞めるつもりなのか。だから未来の仕事の話を聞こうとしないのか。

「八嶋…… 会議の後で社長室に来てくれ。今後のことを話し合いたい」

 こちらを見上げた顔は何かに怯え、一瞬目が合うと、はじかれたように視線をそらした。

「わかりました」

 彼らから遠ざかると、後ろでレンが美紗緒に顔を近づけ、こそこそと何かを話していた。嫉妬で歯ぎしりしそうだった。そして思い出した。レンを呼び出した陰の目的を。新作のひらめきは、ふたりに対する激しい嫉妬が発端だった。彼らを目の当たりにすれば、このゲームのイメージをさらに明白にできると思ったのだ。効果は絶大だった。今や信楽は復讐に燃えるグリエインに自分を重ねていた。



 おととい一日を過ごした社長室は、美紗緒が後にした時と寸分たがわぬ状態だった。会議の準備でほとんど青木のオフィスにいたせいだろう。これを整理していた時にはまだ望みを持っていて、彼の傍にいる幸せさえ感じていたのに。美紗緒は自分がそろえた書類にそっと手をかけた。

「触るな」

 今、遅れて入ってきた信楽が冷淡に言った。後ろ手にドアを閉め、会議セットのイスを片手で持ち上げ、ドアの前に押し付けた。

「誰にも邪魔されたくないのでね」

「それなら、家に帰ってお話しませんか」

 こんな誰が入ってくるかもわからない場所で離婚の話をするくらいなら、と思い、言った。しかし信楽は眉をしかめ、うつむいた。

「いや。あそこでは…… 結未が聞いている気がする」

 胸がきんと冷たくなった。

「次の仕事は決めているのか」

 腕組みをして問いかける彼は転職しようとしている社員に対する社長の態度そのものだった。やはり彼も美紗緒を辞めさせたいのだ。

「いいえ」

「これから探すのか。あてはあるのか?」

「私が辞めても…… 大丈夫?」

「ああ? どういうことだ。とまほーくアメリカのことを心配しているのか? そりゃあ君がいなくなったら当分は混乱するだろう。だが松本が行きたいと言っているそうだし、早晩うまく収まるよ」

「そうよね」

 別れを切り出しておいて、社員としては引き止めて欲しいと思っている自分をどうしようもないと思った。なりふりかまう余裕はなかった。会議机を回って信楽の前に進み出ると、膝まずき、両手を床につけた。土下座である。頭をたれると髪が床をこすりそうになった。

「社長。お願いします。別れた後も、これまでどおりとまほーくで働かせてください」

「どう……して」

 動揺した声と共に彼の大きな革靴がじりりと後じさった。

「あの仕事は私の生きがいだからです」

「レンがいるからか」

 どうしてレンと結びつけるの!? そう叫びたいのをがまんして、頭を下げ続けた。

「いいえ。私はもう、どんな男性とおつきあいする気もありません。万が一、レンと私が恋人らしいという噂を聞いたら、そのときこそ首を切ってくださって結構です」

 どすんと信楽が目の前に膝をついた。肩を掴まれ、無理やり顔を上げさせられた。

「それならなぜ離婚しなけりゃならない!? 君が欲しがる自由とは何なんだ。他の男と恋愛したいわけでもない、転職したいわけでもない、僕が日本に帰れと頼んだわけでもない」

 私の自由じゃない。あなたの自由なの。あなたが私から自由になって、他のだれかと家族を持つための自由なの。美紗緒は目をそらし彼への想いを悟られまいとした。



 美紗緒が信楽の前に土下座したのは、二度目である。一度目は結未の事故の後、事情もわからぬまま責めてしまった時だ。彼女に非は無かった。記憶を失うほどの衝撃を受けた被害者だった。それなのに彼女は病院の床に頭をつけて謝った。後でもだえるほど後悔した。もしやあれで愛が冷めたのだろうか。社長の妻ゆえ別れを切り出せず、黙々と働いて時期を伺うしかなかったのだろうか。

 だがこの沈黙は何だ。熱情など無い。冷え冷えとした心の空白だけがある。信楽の過去の愚行をあげつらうでもない。若くて有能なレンに恋をしてしまったと嘆くでもない。

「僕は離婚に同意できない」

 言い放って立ち上がった。一昨晩、あまりに打ちのめされたせいで、投げやりになっていた。しかし彼女の心が空白なら、それを埋めるのは俺だ。他の男じゃない。もう一度彼女を振り向かせればいい。そんな熱情がふつりと沸く。すると美紗緒もゆらりと立ち上がり、こちらを見上げた目に強い光を宿した。

「どうして私を妻にしておきたいの?」

 唐突に言われ、あぜんとした。

「君を愛しているから……」

「私を憎んでいるのでしょう。殺したいほど」

「あ、あれは暗闇にも冷静な君に腹が立って……」

「私にジェイドの気分を味わわせたかった? そうよね。あなたにとって私は今も頭の中にいるヒロインの象徴。特別な存在なのでしょう。創作のために必要なパーツだから、妻という形で私を縛り付けておきたいのよ」

 体が固まった。ひどい憤りに怒鳴り散らすのを抑えたためだ。妻への愛をこんな形で曲解されるなど、思ってもいなかった。

「ジェイドを思い浮かべてみて。彼女は私の姿をしているのじゃなくて?」

 それはそのとおりだった。眼前で目を吊り上げている彼女は、グリエインが巣食い、変貌したジェイドと重なっている。

 狂おしく愛しくてたまらない。

「創作と…… 結婚は別だ。不倫を書く小説家だって平凡な家庭を持っているだろう。妻を小説の中の女に投影させていても、妻への裏切りにはならないだろう。そんなこと、わかってくれていると思っていた」

 彼女は目を伏せ、うつむいた。

「私を…… かいかぶりすぎよ。それに私たち、平凡な家庭なんて持っていないじゃない」

「それは君が向こうにいたのだから仕方ない。ふたりでその選択をしたんじゃないのか」

 この結婚はこれほどありきたりで、ありきたりな結末を迎えるのか。怒りが絶望に変わろうとしている。

「とにかく、今、決断は下せない。君と別れたら、僕は……」

 壊れてしまう。男としてのプライドが弱音を止めた。すると美紗緒は何かが乗り移ったように猛然と顔を上げた。

「私に剣をかまえさせるのね」

「ん?」

「私があなたに切りかかる。そうして初めてあなたは私を消しさることができるのだわ」

「どういう意味だ」

 困惑して目を見張った。美紗緒は信楽の創作を責めながら、ジェイドの物語をなぞらえる。彼女はまさに変貌したジェイド。この創作と現実との混同を責められるなら、どう生きればいいのかわからない。

 彼女はドアの前に置いたイスを押しのけ、出て行こうとした。とっさに腕をつかむと、美しくも激しい瞳が信楽を睨んだ。衝動的に唇を奪った。んんん、と艶かしい声を上げて逃れようとするのを、頭を引き寄せむさぼった。ぐっと引き結ばれていた唇がほんの少し開き、なつかしく甘い彼女の味に頭がしびれる。君が何をしようとも、俺の中から君が消えることなどない。唇で示すと美紗緒の唇も応えるように動いた。そうだ、おとといの夜も美紗緒は俺の腕の中におさまった……

 しかし唇を離したとたん、美紗緒は信楽の頬を力なく平手打ちし、社長室を飛び出して行ってしまった。

 なぜだ。なぜそれほど俺と別れたいのだ。納得できるまでは決して離婚に応じまい。その決意にすがりつくしかなかった。


 翌日の夜のことである。新作会議の余波で滞っていた経営まわりの仕事を終え、しぶしぶ無人のマンションに戻った。そして書斎に行く途中で、ぼう然と立ち尽くした。

 子供部屋が、空き部屋に変わっていた。結未の遺品と信楽が買ったおもちゃや服が、忽然と姿を消していた。

 家中をかけずりまわって確かめると、残されていた美紗緒の服や身の回りの物が何一つ無く、おまけにキッチンからは子供用の椅子ばかりか、陰膳を盛るための食器も無い。

 足から力が抜け、膝をついた。

(パパ、ユミはママと一緒に行くね。だから、さよならね)

 部屋の隅に小さな声が聞こえた。

 それほどまでに。

 それほどまでに俺から逃れたいのか。

 とうとう涙がこぼれた。はばかるものものも何もない。信楽は怒りと喪失感に慟哭していた。

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