第5話 迷宮

 灯りの落ちたオフィスは深閑として、主がもう戻らぬことを暗示しているかのようである。レンはミサオが去った空間を見回し、私物が全く置かれていないのは、日本に帰らねばならない、けれど帰れない、そんな葛藤を常に抱えていたからなのだろうと胸が痛んだ。

 昨日、ミサオは日本に発った。予定より二日早い突然の出立だった。

 スーパーマーケットの駐車場で助けを求められてから一ヵ月半、徐々に聞き出し、つなぎ合わせた過去はこうだ。三年半前、徒歩で買い物に行く途中で事故にあった。交差点で起きた車同士の事故に、横断中のミサオが押していたベビーカーだけが巻き込まれた。ただそれは警察の説明であり、記憶は衝撃のせいで失われ、事故前後のことは何も覚えていない。亡骸の確認はシガラキひとりで行い、その過酷な作業のあと、彼の心が崩れた瓦礫のようになってしまった。彼女に落ち度は無いのに、ベビーとふたりでいる時の事故だったこと。記憶が無く、何の説明もできないこと。シガラキに溺愛していた娘の悲惨な姿を見せてしまったこと。それらが彼女に負い目を抱かせている。心を閉ざし、仕事という形でしか愛を示せなくなっている。

 彼女は本来、勝気で明るい女性だったはずだ。対話を通して少しずつ元の人間性が戻ってくるのがわかった。同時に彼女が人妻だという事実が日増しに辛くなっていく。彼女はいつか葛藤を癒しシガラキの元に戻る。とすれば自分はただのカウンセラーではないか。

 ミサオが神妙な面持ちでレンのオフィスにやってきたのは、新作会議の案内がシガラキから送られてきてすぐのことである。

『レン? 会議の出席者リストにあなたが入っていたけど』

『うん。海外での販売を見据えた開発のために、意見を聞きたいからだとメールがあった』

『そう。ならいいのだけど』

 少し考えて、ためらいがちに言った。

『彼に私のことで何か言われても、気にしないでね』

『シガラキさんに? 確かに唐突だよ。でももしミサオのことで僕を日本に呼び出すくらいなら、君を帰らせればいいじゃないか』

『前にも言ったでしょう。アメリカ勤務を望んでいるのは私なの』

『ミサオの心ひとつというわけか』

『そのとおりね』

 淡々と答えられ、ぎくりとした。

『君がシガラキさんの元に戻ったら、とまほーくを辞めようかな。誘ってくれている会社は掃いて捨てるほどあるんだ』

 駄々っ子のような言い分なのに、彼女はひどく悲しげな顔で、だめよ、と首を振った。社長婦人として? 同僚として? 友人として? それとも…… 望みは無いとわかっているのに、可能性を探ってしまう。

『ミサオ、悲惨を経た結婚生活を立て直すより、アメリカで新たな人生を始めるほうが簡単だよ。君なら日本関連の事業をしている会社にいくらでも職は見つかる。僕と一緒に転職したらどうだい?』

 冗談めかして言ったつもりだった。一笑に付されるか、怒られるかと思っていたのに、彼女は深く考えこみ、

『ひとつのアイデアね』

気丈に言い放つと、寂しげな背中で去っていった。極論は時に思考を促す。帰国を早めたのは、ついにシガラキとよりを戻す決心をしたからではないのか。

 日本は今、真夜中だ。ミサオはシガラキと同じベッドで寝ているのかもしれない。彼女が素直に彼の胸で泣くことができれば、問題は解決するのだ。

 レンも明日、日本に発つ。ミサオは晴れやかな顔でシガラキの横に立っているのか、暗い顔でレンにしがみつくのか。後者ならいいと望んでいる自分を、おのれ自身が軽蔑した。

 




 寝室は朝六時を過ぎるとほの白い光で満ちた。朝日が入らないといつまでも寝ちまうと言って、信楽が遮光性の悪いカーテンを選んだからだ。美紗緒は目を覚ますなり背につれる感覚をおぼえた。出処をたどれば信楽が髪をつかんでいる。髪を引かぬよう半回転すると、寝息がかかるほど近く向き合った。

 安らかな寝顔。ほおずりしそうになる。

 よかった。ぐっすり眠れるようになったのね、もう夜中に飛び起きて結未はどこだと家中探し回る事も無いし、何かを壊して、これを元通りに直せば時間が遡るのじゃないか、と背中を丸めて破片をたぐりよせることもない。僕が聞いた最後の言葉は、パパ、だった。君が最後に聞いた結未の言葉はなんだったんだ、と失われた記憶を何時間も問い詰めることもない。昨日わかった。夫は本当に立ち直ったのだ。それも、無理やり忘れるとか、隠れて嘆き続けるとかではない。娘の死を正面から受け入れ、生の一部にするという潔いやり方で消化したのだ。彼が陰膳をすえ、涼しい顔でそれを平らげるのを見てわかった。

 繊細なのに強い人。信楽武司の、信楽武司たるゆえんを、あらためて確認する。夫への賞賛と愛しさが体を満たし、ひとつの布団を分け合う不思議なほどの幸せで夢心地になる。信楽は深い眠りに入っているらしい。触れたかった。頬を両手ではさんで優しいくちづけで目覚めさせたかった。けれどその先の先にあるものが脳裏をよぎる。

 昨日信楽がこちらに手をのばしただけで、一瞬息ができなくなった。精神が壊れた男の、ケモノのような叫び。泣き声。それらが今は安穏とした彼の後ろから聞こえた気がして、夫の顔を凝視してしまった。意を決し触れてと頼んだが、何かを感じ取った信楽に拒まれた。確かに試そうとしていた。彼に抱かれれば、あの感情を乗り越えられるかもしれないという最後の望みを。

 安らかに眠る彼が愛しい。それなのに数センチの距離が埋められない。夫がもう一度私を満たせば、小さな芽がめばえ、あのどうしようもなく、かけがえのないものがこの世に誕生する。涙がこぼれ耳の中に伝った。

 押し殺した息遣いが逆に音となったのだろうか。信楽が目を開けた。目の前にある美紗緒の顔にゆっくり焦点を合わせ、まばたきした。涙に驚かない。三年ぶりに帰った妻がベッドで夫の寝顔を見て泣くのはあたりまえだ。そんな訳知り顔で、指に巻きついた美紗緒の髪を手の中でなでた。

「今日はずっと一緒にいてくれないか」

 静かな愛をささやく口調に、ぼうっとした。目をしばたき、涙を落としてゆっくり答える。

「お仕事の間も? 邪魔にならない?」

「君ができると思える範囲で補佐してくれればいい。アメリカでの仕事の延長だよ。できるだろう」

 小さく頷くと、愛しげに目を細めた。キスされるかと思ったのに、身じろぎひとつで触れられる美紗緒の唇を一瞥しただけで、淡々とベッドを出て、朝の支度を始めた。バスルームから電気シェーバーの唸る音が聞こえ始める。がっかりしている自分をばか、とののしった。


 コーヒーショップで朝食をとり、共に出社すると、エレベーターホールで数人の社員と合流した。今も彼らの信楽を見る目は憧れで輝いている。今日のうちには、社長が何年かぶりで妻と出社したという噂が社内をかけめぐるだろう。

 社長室は乱雑だった。事務机を5つ足したほどの大きな社長机には、書類の山がいくつもできている。社長机に向き合う六人掛けの会議テーブルにバックを置いた。

「私はここでいい?」

「いや、そこは始終だれかがやってくるから」

 言いながら社長机の端を空けようともがいている。

「私がやるわ。あなたは仕事をしていらして。わからない資料についてはお聞きします」

 すでに資料を頭の中で仕分けながらきびきび言うと、信楽はまんざらでもない顔で頷き、パソコンに灯をつけた。

「これが今日のスケジュールだ」

 今打ち出したスケジューラの一ページを手渡され、目を通してくらりとした。十五分刻みの打ち合わせと、外部からの客人との面談。作るべき資料。どうしたらこれだけのスケジュールをこなせるのかという内容である。しかしそれに意見する資格は無い。黙って頭に入れ、何を補佐できるかを吟味した。

 一日は瞬く間に過ぎた。信楽は限られた時間の中で、常人の二倍か三倍の仕事をこなしている。それを少しでも軽減させたいと奮闘した美紗緒はくたくたになった。

「最後の打ち合わせは青木の部屋でやるんだ。申し訳ないがこればかりはオフリミットだ」

 一日、経営のきわどい打ち合わせまで聞かせておいて今更、と言いたくなったが頷いた。

「新作の内容は教えてくださらないのね」

「あさってのお楽しみだ」

 楽しげにウィンクした。

「ここで待つかい? 家に帰っていてくれてもいい。一時間で終わらせる。そうしたら一緒に夕食に行こう」

「まだ整理できる書類があるから、ここにいるわ」

 信楽はなごり惜しげに、しかし足早に社長室を出て行った。複雑な思いにため息をつく。仕事とはいえ、彼の傍にいるのは幸せだった。雄々しく超人的な仕事振りを見るほど胸が熱くなった。けれどこんな時間はもう最後かもしれないと思えば、胸をかきむしりたくなるほど悲しかった。

 机の上は格段に整頓された。けれど新作が本格的に動き出せば、すぐにジャングルが繁茂し、今日、美紗緒が触れた名残はみじんも残らないに違いない。しんみりと書類を繰っていると、ノックと共に若い女性が入ってきた。信楽が出てからちょうど一時間が経過していた。

「八嶋さん、おひさしぶり」

「青木さん! おひさしぶりです」

 仕事でメールのやりとりはあるが、顔を合わせるのは数年ぶりである。彼女は昔の貪欲さを消し去り、余裕のある女性管理職に変貌していた。身奇麗なのはプログラマーの頃から変わらない。年は四つ上のはずだ。

「会議が長引いていて。社長が八嶋さんを待たせているから知らせてきてくれって」

「すみません。わざわざ。内線でよろしかったのに」

「実を言うと、私が抜けたかったの。あのふたりの議論にはもううんざり」

 肩をすくめ、愛嬌のあるしかめ面をした。

「赤池さんと、信楽さん……ですか」

「そう。いつまで経っても仲良しよ。あの二人は。ま、それはいいとして、八嶋さんたら、まだ社長のこと、信楽さんって呼ぶのね」

「ええ……まあ」

「ずっと八嶋って名乗っているし」

「それは、社内でまぎらわしいのと…… 私にとって信楽という名は特別なので。自分がそう呼ばれるのは、特にこの会社では、抵抗があるのです」

「でもダンナなんだから、ファンじゃいられないでしょう」

「お恥ずかしいのですけど、今も私、信楽武司のファンなんです。青木さんが羨ましいわ。彼と一緒にゲームが作れて」

「うーん。奥様にそう言われると、困るなあ。はっきり言って、オタクのダンナ、開発中は最悪。オニよ、オニ」

 わかるわ、と苦笑いした。

「だからというわけでもないのだけど、早めに帰国してよ。八嶋さんがいれば、奴のトゲトゲも少しは収まって、私たちが助かるわ」

 うつむき加減で声を落とすその態度に、心がざわめいた。彼女は私の帰国を願っていない。信楽を男として見ているのかもしれない。だまりこんだ美紗緒の顔色を見て、青木は眉をひそめた。

「あと何年むこうにいるつもり?」

 あいまいに首をかしげ、ごまかした。

「信楽さんは、五年でも十年でも、八嶋さんの帰りを待つと言ったわ。でも彼、もうオッサンなのよ。待った挙句に捨てられたら、やり直しがきかないのよ」

 私が彼を捨てたら、あなたが拾ってくれればいいわ。皮肉混じりにそう言ってしまいそうになり、微笑した。

「大丈夫です。彼には地位も名声もあるし、見た目もまだイケてると思います。身内びいきかしら。それに私、五年も十年もこのままにする気はありません」

 青木は目を見開き、聞いてはいけないことを聞いてしまったという顔をした。

「ごめんなさい。会議に戻るわ。さらに遅くなりそうなら、内線を入れるわね」

 出て行こうとドアを開けた青木の目の前に、壁のようなものが立ちふさがった。

「青木、逃げやがって」

「あら、社長。もう終わったのですか?」

「ああ。だがな。おまえと赤池は今日のうちにできるところまでやっておけよ。でないと明日は帰さんからな」

「ふうん。それで、今晩ご自分は奥様といちゃいちゃしたいと」

「いちゃいちゃって……死語だろ、それ」

「はいはい、年寄りくさくて悪うございました。では、ごゆっくり」

 青木は慇懃に頭を下げて出て行った。信楽がこちらを向き、はっと目を見開いた。悲しげな顔をしていたかもしれない。

「何か言われたのか?」

「いいえ。ただのガールズトークです」

「ふうん。興味深いな」

「あら。あなたが後の無いオッサンかどうかって話よ」

「ううむ。ますますもって」

 くすりと笑うと、信楽は格好をくずした。

 ふたりは信楽の運転で鮨屋に行き、九時ごろマンションに戻った。自分を取り戻した信楽との外食には新婚時代のようなときめきがあった。彼の美紗緒を見る目も熱っぽい。だが二人の間に一定の距離を保つのを忘れない。

 風呂を使い、昨晩と同じようにベッドに横たわると、どちらともなく見つめ合った。

「昨日の続きをやるか」

 肩肘をついて、にやりと笑う。一日彼と過ごしたことで抵抗感が薄れ、もしかしたらという希望が芽生えていた。ゆっくり手をのばし、頬に触れようとした。けれど寸前ではじかれたように手を引いてしまった。目で追った信楽は悲しげに微笑んだ。

「無理しなくていい」

 なぜ、どうしてと聞かないのだろう。なぜ触れられない理由を知ろうとしないのだろう。レンならすぐさま聞くだろう。そして話せば楽になるよ、と美紗緒を励ますだろう。

 彼とレンを比べるなんて。自分の冷酷さにいらだち、シーツの上に置かれた彼の左手に、勢いよく右手を重ねた。感電したように体がしびれる。三年ぶりだ。彼に触れたのは。手の甲の薄い肌の下に、太い骨ともりあがった血管が感じられる。手のひらのほうに指先を回すと、ざらりとした感触にどきどきした。が、恐れはやってこなかった。

「大丈夫。かみつかないから」

 信楽はひょうきんに言い、心ほぐされて肩の力を抜いた。

「いつも感じていた。君がアメリカで僕のことを想って仕事してくれているのを。君がくれる業務ばかりのメールの裏に僕への気遣いが隠れているのを。今日君が僕のためにきりきりまいしているのを目の前で見て、勘違いではないことがわかった。君の仕事には僕への愛情がこもっている」

 嬉しかった。美紗緒の思いは確実に伝わっていたのだ。夫のためにできることは仕事だけなのだと、悲壮で孤独な努力をしていた三年間、無駄ではなかった。思わず彼の手を力強く握った。それを合図と取ったかのようにぐいと胸元に引き込まれ、抱きしめられた。

「いつもありがとう」

 背と腰に力強い腕が巻きつき、体が持ち上げられた。頭が真っ白になり体中の血が熱くなった。軽く触れ合った唇がもたらす衝撃は息が止まるほどだった。

 このまま抱かれてしまおう。

 私は妻なのだもの。

 私たちは夫婦なのだもの。

 何も聞かず、何も告白せず、こうして日常を過ごし、欲望を満たし、年を経ていく。それでいいじゃない。

 そんな自分への言い訳に納得しようとしていた美紗緒に、問いかけたのは信楽である。

「大丈夫か?」

 閉じていた目を開けると、心配げな瞳が見下ろした。信楽にはまだ冷静さが残っていた。うやむやに体を交わせば、それで解決するとは信じていない。三年という別離の長さ、その間の葛藤と美紗緒を気遣う優しさ、いや愛が、彼にそれを許してはいない。

「私……」

 その時、雷鳴のような気づきに息を呑んだ。

 信楽は美紗緒の言うことをすべて許すだろう。もしもう二度と子を産みたくないと言えば、それでいいと言うだろう。美紗緒が戻ってくるなら、それでいいいと。

 だめ。それでいいわけがない。

 絶望的なことに、思考は三年前と同じところを巡り、迷宮のもとの場所に戻ってきてしまっていた。発端は子を産みたくないという感情だった。震えを伴う恐怖だった。けれどベッドから逃げ出したのは、それを彼に告げられなかったからだ。あれほど娘を愛していた男に、美紗緒を愛している男に、もう子を産みたくないと告げるなんてできない、と。

 アメリカに逃げてからは、その感情が薄れるまで離れていればいいと思っていた。だが薄まらない感情に、これ以上状況を放置してはならないと帰国を決めた。そして信楽に体を許すことができるという歓喜のあとに、再び対峙しているのは、やはり子を産みたくないと告げることができないという堂々巡りの現実なのだった。最後の望みがあると思っていたのは間違いだった。彼と別れたくない心が見せた幻だった。最初から望みなどなかったのだ。

 美紗緒は信楽の胸をおしやって、あごを持ち上げた。

「やっぱりだめ。あなたに触れられても、日本に帰る気にならないわ」

 ひとつの結論へ導くための一手。それを受け止めた信楽は、美紗緒を穴の開くほど見つめ、信じがたいという口調で言った。

「そんな確認をしなければならないほど、僕に幻滅しているということか」

 違う。そんなわけない。否定の言葉を懸命にのみこんで、美紗緒はだまりこくった。

「確かに結未が逝ってからの僕は滅茶苦茶だった。君を気遣う余裕もなくて、君をたくさん傷つけてしまったのだと思う。僕の人間性を疑うのも当然だろうね」

 違うの。あまりに大事なあなたが嘆き苦しむのを見るのはもう耐えられない。私と私の産む子がその種になると思うと、私という存在すら消してしまいたいくらいなの。

 泣けたらどんなに楽だろう。泣いて抱かれて解決すれば。だまって彼を見つめると、信楽は眉をしかめて口元をひきしめた。

「それに、アメリカで僕よりも素晴らしい男に出会った」

「レンは関係ないわ!」

 すかさずレンの名が出たことは彼への仕打ちとなった。手のひらの下で胸が大きく波打ち、荒々しく起き上がったかと思うと寝室から出て行ってしまった。

 ベッドに取り残されるショックを初めて知った。あの時、美紗緒は同じことをしたのだ。ほてった体に冷水を浴びたようだった。湯を入れていたコップを急に冷やしたら割れてしまう。そんな痛み。けれど迷宮から脱出しようとするならば、これは苦痛の始まりでしかない。自分に鞭打ち、ベッドからよろけ出た。

 信楽はリビングのソファーにがっくりと腰をおろし、頭を抱えていた。荒い息で肩がゆれている。その苦悩の姿に嘆きのころの彼が重なり、ぞくりとした。


 ああ、私は彼を救えない。嘆かせるだけ。


 別れを告げるのはつらい。彼が再び悲しみの淵に叩き落されるなんて酷すぎる。でも、そうしなければふたりは迷宮を彷徨い続けることになる。彼は立ち直れる。彼は信楽武司だ。私じゃない誰かと、温かい家庭を持って、小さくて素敵な存在を再び持つことができる。この子が熱中するゲームを作りたい。それでゲームばかりするなって小言を言って、パパのゲームでしょって反撃されるんだ、なんてたわごとをもう一度とろけそうな顔でつぶやくことができる。

「三年間、無我夢中で仕事してきたわ。あなたへの愛情とか、そういうことじゃなく、生きるために」

 口実は頭が痛くなるほど考えた。結局は赤池についた嘘をつきとおそうと思った。その嘘の裏に、誰の心にでもある二面性が隠れているから。嘘だけれども、本心でもあるから。

「私、憧れていたあなたにヒロイン扱いされて、浮かれた気分のまま結婚してしまった。あなたの望むまま、すぐに妊娠して、仕事を離れてしまった。復帰した時は辛かったわ。何もできないくせに社長の妻で、娘を悲惨な事故で亡くしている。どう扱えばいいんだって、上司の赤池さんでさえ呆然としているのがわかったもの」

「僕は何の助けにもならず、君をアメリカに送り出すだけだった」

 頭を抱えたまま、悔やむように言った。

「それには感謝しているわ。妻の役目を放棄して、まだ傷の癒えないあなたから遠ざかる私を許してくれた。おかげで私は誰にも甘えずに仕事することができた。アメリカというビジネス社会で生きる自信がついた」

「その間、僕は幻想の中に生きていた。君との間には常ならざる絆があって、離れていても僕たちは変わらぬ夫婦だという幻想の」

 彼の苦悩が苦しかった。あまりにも苦しくて、それは幻想ではないわ、と叫んでしまいそうだった。けれど後戻りはできない。

「あなたのそんな夢見がちなところが好きだった。信楽武司の妻であることが誇らしかった。でもあの事故で、私の浮ついた思いは何の役にも立たなくて、蜃気楼のように消えうせたの。私は変わってしまった。潮時だわ。これ以上待ってほしくない」

 彼が顔を上げ絶望的な目でこちら見た。懸命に目をそらさず目を合わせ続けた。

「お願い。私は特別な女だというあなたの思い込みから。別居している妻という負い目から、解放してください。私を自由にして」

「潮時……か」

 ゆらりと立ち上がった。

「最近、お義父さんと話したかい?」 

「え? いいえ?」

 突然の話題の転換にたじろぐと、意外そうに言葉を呑んで、なげやりな口調になった。

「そうか? 明日にでも話してくるといい。今月で定年だそうだ。ねぎらってあげてくれ。それに、いいアドバイスをくれるだろう」

 ウォークインクローゼットに入り、ジーパン姿にコートを羽織って出てきた。

「あさっての会議で会おう」

 車のキーをちらりと見せて、そこで寝ると言わんばかりに玄関へ向かう。ドアが閉まり、広い部屋にひとり取り残された。

 うっく、と変な声がのどから持ち上がり、それからはもう堰を切ったように嗚咽がとまらなくなった。彼に投げつけた酷い言葉が、罪悪感の津波となってとめどなく頭の中に押し寄せてくる。別れという高い崖から飛び降り、落ちていく感覚が永遠に続く。ソファーにつっぷし、何時間も泣き続けた。夜が明け、ようやくふらふらとベッドにたどり着き、明るい寝室でもだえるように眠った。

 昼ごろ目覚め、信楽の言葉を思い出して数年ぶりに実家に電話した。アメリカへは父から何度も電話があったが、いつも、また子を作れという話で泣き崩れてしまい、両親と話すのをうとんじるようになっていたのだ。

「まあ、美紗緒! 日本にいるの?」

 母親の明るく優しい声に涙がぶりかえしそうになり、息をつめた。

「ええ。おととい着いたの。今、自宅にいるわ。武司さんは仕事。私は来週の水曜までこちらにいるから」

「武司君はこの前、一緒にこちらに来られるかもって言っていたけど、どう? 土日にでも顔を出してよ。お父さんも喜ぶわ」

「この前って、いつ? 何の話をしたの?」

 それで、父が信楽にした財産分与の話を聞き、絶句した。

「ひどいわ。私、お金なんかもらうつもりはないのに」

「えっ、何? 離婚するつもりなの!?」

「ええ。それを相談しに帰国したの。私、ずっとアメリカに住むつもりなの。彼を待たせておくのは、申し訳ないでしょう」

 今度は電話の向こうで母が絶句しているのがわかった。

「とにかく、私のわがままで別れるのだから、彼からは何も貰わない。ちゃんと働いているから大丈夫。お父さんには口出ししないよう言っておいて。数ヶ月後になるとは思うけど、落ち着いたら一人でそちらに帰ります」

「ねえ、美紗緒?!」

 叫びを無視して電話を切った。

 財産分与のことなど考えたことも無かった。それどころか離婚という二文字を使うことさえできていなかった。さらに昨晩の話だけで信楽が離婚を承知したのだという実感もまだ沸いてこない。しかし父の話を出したのは、その気になったからだ。さらに美紗緒が父の助言を受けて、財産をあてにしていると思ったに違いない。そうわかると、本当に愚かしいことだが、また涙が溢れてきた。

 まるで体中の潤滑油を抜かれたロボットのようにぎこちなく、午後を離婚手続きについて調べたり、運び出す荷物がどれだけあるか確認したり、今晩のホテルを予約したりして過ごした。あまりに泣いたせいで見苦しく目が腫れていたから、外には出たくなかった。

 夕刻、荷物をまとめて家を出る段になって、にわかに信楽のことが心配になった。今も普通に仕事しているのか。明日の会議で会おうと言ったのだから、ここには戻らない気だわ。でもラフな格好で出て行った。そうか、オフィスにスーツを置いているのかも。結婚前は車に住んでいるような生活をしていたのだもの。二、三日家に帰らなくても大丈夫。でも…… まとまらぬ考えにうろうろし、とうとう青木のオフィスに電話してしまった。

「はい、どちらさま?」

 迷惑そうな小声だった。遠くから凄まじい速さでキーボードを叩く音が聞こえている。信楽が打つ音だとすぐわかった。申し訳ないと思いながら、電話を切った。大丈夫。彼には仕事がある。仲間もいる。もしかしたら彼のことを想っている女性も…

 その晩はホテルに泊まり、次の朝、電話の音で起こされた。モーニングコールは頼んでいなかったはず、と受話器を取ると、軽やかな英語が聞こえてきた。

『おはよう、ミサオ。よく眠れたかい?』

『レン! どうしてここがわかったの?』

『うん。後で話すよ。ロビーにいるから一緒に朝食を食べよう』

 レンは昨日日本に着いていたのだ。すっかり忘れていた。昨日のうちに連絡を取って、予定の確認をしなければならなかった。それを完全にすっぽかしたのだから追い返せない。大急ぎでシャワーを浴びロビーに向かった。

 美紗緒の姿を見つけたレンは、同情と賞賛がこもった顔で、元気そうでよかったと言った。ホテルの朝食を取りながら、昨日美紗緒の居所がわからず信楽に電話すると、彼もわからないと言い、泊まっていそうなホテルのリストをメールしてきたのだと聞いた。リストの三つ目でビンゴだったよと。

 マンションを出る時、ホテルに泊まりますという書き置きをしてきた。それを見たということは、彼は一度家に帰ったのだ。そしてレンに所在を探させた。信楽は既に思い切ろうとしている。そう感じてまた悲しくなった。

『彼と何があったんだい?』

『アメリカに帰って、落ち着いたら話すわ』

『帰ってくるんだね』

『もちろんよ。私のホームグランドはあそこだもの』

『ウェルカム』

 優しい微笑みに慰められてしまい、後ろめたさに眉をひそめた。

 たとえ離婚しても私はずっとあなたを愛し続ける。それだけは変わらないわ。決して伝えることはできない言葉を、胸の中でつぶやいた。

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