第4話 妻帰る

 地味な中年男のため息は、ムンクの絵のように陰気くさく、周りを灰色の渦に巻き込もうとする。青木久美子はとうとうぶち切れた。

「なんだって言うんですか、赤池さん、アメリカから帰ってきてから、そのダークマターみたいなオーラ。いい加減にしてください!」

 新作のためにふたりきりの打ち合わせが続いている。極秘だというので、通常の仕事を部下に任せ、自分でコードを組んでいる。本来なら赤池とのこういう作業は知的な刺激も受け、楽しめるはずなのに、憂鬱この上ない。

「ああ、申し訳ない。次は何だったかな」

「アメリカで何かあったのですか」

 聞いてあげますよという態度をした久美子に、赤池は謝るような顔で口を開いた。

「もうだめらしいのだ。信楽さん達」

「だめって、何がです? 先月、八嶋さんから信楽さんに電話があって、嬉々として話してらしたけど」

「どんな電話でした?」

「八嶋さんが帰国する話だと思います」

「ほんとうかっ」

「やだ。信楽さんと同じ叫び。でも、短期の帰国です。信楽さんは二月は忙しいから三月にしてくれと」

「それは…… 変だ。信楽さんが八嶋さんの帰国を先延ばしにさせるなんて」

「だって、今は地獄みたいに忙しいから……」

「夫婦なんですよ、あの二人は。妻が家に帰ると言うのに、忙しいから後にしろって、ありえないでしょう。忙しい時にこそ妻にいて欲しいと思うのが普通です。だいたい八嶋さんも観光みたいに帰国するくらいなら、帰ってこなきゃいい。彼とは暮らしたくないと断言しておきながら……」

「ええっ」

 今度は久美子が声を上げてしまった。赤池は制止を無視して帰国を打診した挙句、そんな身も蓋も無い答えを持ち帰ったのだ。なるほど暗くなるわけである。

「信楽さんはこの会社を大きくするために身を粉にして働いてきた。上場して安定して、社長としての生活を謳歌していい時期なのに、ぜんぜん幸せになっていない」

 クリスマスに見た信楽の背中が頭をよぎり、赤池のもどかしさが手に取るように解った。とはいえ、である。

「でも、何もできませんよ。私達には」

「そうだろうか」

「そうです、さ、仕事終わらせましょう。赤池さんは家に帰って食事するのでしょ」

 久美子は信楽が作った手書きのフローシートに目を落とし、その荒々しい文字がじりじりと胸を焦がそうとするのに、気づかぬふりをした。




 二月は東京にも雪がちらつき、寒い日々が続いていた。この日向かった鎌倉はさらに寒く、竹の生垣にそって車を止め、外に出た信楽はコートの襟をかき合わせた。生垣の向こうに重そうな瓦屋根をのせた日本家屋が覗いている。

「わざわざ取りに来ていただいて、ありがとうございます」

 髪をひっつめにした地味な初老の女性が、上等ながら古びた応接で、信楽に茶を出した。

「いえ。お忙しいところ、無理を言ったのはこちらですから。それで見せていただけますか。作品を」

「昔と変わらず、せっかちですこと。信楽社長は」

 藤野しずかは鷹揚に笑って、手元からスケッチブックを取り出した。彼女はベテランの挿絵画家で、十年前にサウザンドトゥームスを作り始める時、イメージイラストを描いてもらった過去がある。今回は複数のストーリーボードを依頼したのだ。

「十枚描きました」

 単色のパステル画がめくるごとに色を変え、物語を紡ぎ出していく。言葉を忘れ、一枚一枚に見入った。ぼんやりとしていた映像が、滑らかに動き出す。作品のイメージが急速に凝集していく衝撃に、快感のため息がもれた。

「いかがですか」

「はい。いいです。うん」

 不器用な言葉をつぶやきながら、右手を握りしめ、頭の中の創作物がどんどん先に走り出そうとするのを抑えるのに必死になる。

「悲しい続編ですのね。前のお話でハッピーエンドだと思っていたのに」

「光の物語の裏には、影の物語が存在するのです。賛成できませんか、これを世に出すことに」

「いいえ。信楽社長の作るものなら、何でも見てみたいという気はいたします。私、前のお仕事で初めてゲームという分野に触れさせていただいて、そのあと、本職の妨げになるくらい、はまった時期がありましたのよ」

「はは。それは申し訳ないことをしたのかな」

「最後はどうなるのかしら? 魔女はまた生き返るの?」

「おお、デジャヴみたいだ。昔ゲームをやらない副社長から同じように聞かれたことがある。実はまだエンディングを決めていないのです。いろいろ迷うところがありまして」

 頭をかきながら白状すると、藤野は信楽をまぶしそうに見て、がんばってくださいね。と口の中で言った。

 藤野の絵を受け取ってから、すぐにシナリオを仕上げ、スタジオに依頼して音声をつけた。すべては社内発表のための準備である。普通のゲーム会社なら、もっと未熟な段階で会議にかけ社内の判断を仰ぐだろう。しかし信楽以上の判断を下せる人間はこの世界にいない。その信念が信楽の、ひいては、とまほーく社の存在意義だと信じている。

 だから重要なのは自分の構想を確実にスタッフに伝えることである。苦しく時には恐ろしく、だが最高にエキサイティングな作業だ。こんな創造の興奮と集中がふたたび自分に舞い降りたことは歓喜に値した。一時はもう作れないのではないかという危機感を抱いた。決して認めたくはなかったが。

 後藤がサウザンドトゥームス2を作るなら、既に十年前の作品になった前作のリメイクを先に出すべきだと押しかけてきたのに、今は無理だと押し返し、赤池が美紗緒を帰国させるために、こちらでポストを用意すべきです、後任には松本を考えていますからと切羽詰った顔で言いに来たのにも、後で考える、とお茶を濁した。依然として一日の大半は経営業務に費やされ、そのフラストレーションを小林への愚痴と仕事の押し売りではらした。

 本当は何もかもをシャットアウトして新作に打ち込みたかった。この没頭を理解してくれているのは美紗緒だけだ。彼女は今まで以上に米国の雑事を手際よく片付け、通信は必要最小限にしてくれている。独断と相談と報告の線引きが絶妙で、そこに愛を感じると言えば、赤池など理解しがたいと鼻を鳴らすだろう。三月に会ったら今度こそ抱きしめ、せめて礼を言いたい。夫としてはあまりにささやかな望みを、かなわぬ夢のように胸に抱いた。

 二月中旬、義母から電話があり、土曜の夕食に誘われた。美紗緒はよく娘を連れて里帰りしていたが、小さな絆が失われてからは顔を出していない。断りきれず足を運んだ。

 翌日の日曜、子ども部屋で目を覚ました。美紗緒が育った部屋だ。酔いつぶれて帰りそこなったらしい。窮屈に寝返りをうつなり部屋の様子が目に入る。ベッドと本棚、勉強机が整然と配置され、色あせた絨毯はきれいに掃除されている。彼女が隠れてゲームをしていたというウォークインクローゼットも風通しよく部屋の角で口を開けている。成人させ送り出してさえ、こうして子ども部屋を残しておく、未練がましい親心に共振し、胸苦しさを覚えると同時に、昨晩の苦い話を思い出した。

「君のところの株価、だいぶ落ちているね」

 証券会社の重役である義父、紀雄のりおは、そんな耳の痛い話から始めた。

「ああ、そうですね。気にしていませんが」

「ははは。本当に君は天然だなあ。いや、いい意味でだよ。業績はいい。だが株価が低迷しているのは新作が出ないからだ。君の会社は短期間でくりだされる信楽作品あったればこそというのがアナリストの意見らしい」

 天然にいい意味があるのか疑問だったが、それより新作のことを勇んで話しそうになり、紀雄に目で制された。

「何かあるとしても話さんでくれよ。私の顔色を読むディーラーもいるからね」

 新作の情報は三月末の株主総会で発表するまで、極秘扱いである。紀雄にしてみれば不正取引になりかねないから慎重なのだ。

「だからあえて言うのだが」

 声を落とし、信楽を見据えた。

「美紗緒はもう君のところに戻る気が無いとは思わないか」

 言葉で切りつけられた気がした。否定の言葉が切り口からこぼれ落ちる。

「わかっている。君は悪くない。美紗緒が弱いのだ。甘やかしてきた私達が悪い。だが日本にいてはアレの死を乗り越えられない。アメリカでなら、新しい人生を切り開ける。そんな娘の気持ちがわからないでもない、と、さらに甘いことを考えてしまうのだ。私達は」

「新しい人生とはどういう」

 憤りかけて、身をのりだした。

「君にとってもだ、武司君。いつまでも帰らない妻を待って人生を無駄にさせるのは忍びない。だからとまほーく社の株価が低迷している今がいい潮時だと考えたのだ」

「申し訳ありません、話が見えませんが」

「君はそれだけの資産を持ちながら、離婚に伴う財産分与について考えた事は無いのか」

 紀雄はいらだたしげに言った。信楽は離婚という直接的な言葉に喉をつまらせてしまい、目を見開くしかできなかった。

「たとえ私が美紗緒の行動で、君に申し訳ない気持ちを持っているとしても、もし別れるとなった時には、無一文で娘を放り出すようなことには同意しかねる。君はとまほーくを上場させたことで、現在でも数十億円相当の株の保有者となった。それを成し遂げたのは、美紗緒と結婚してからだ。法律的には、結婚している間に得た財産は離婚において半分を分与する責任がある」

「そんなことは、考えた事もありません。そんなことというのは、つまり彼女と別れるということです」

「なら考えてみてくれ。株価が高い時にそんな事態になったら、どんな諍いが起き、どんな禍根が残るか。今ならある程度の現金の分与で美紗緒も納得し、次の仕事を見つけるまでの生活資金には困らないだろう」

「次の仕事?」

「そういうことになれば、美紗緒が君の会社に勤め続けるわけにはいかない」

 離婚して美紗緒がとまほーくを辞める。あまりに悲壮なシナリオを、頭が考えることさえ拒否した。

「本当に彼女と別れるなんて気は毛頭……」

「三年も別居して、美紗緒のあの頑なな態度を目の当たりにしても、か」

 いったい義父母はどこまでふたりの状態を知っているというのか。腹立たしくもあり、恐ろしくもあった。信楽は、美紗緒をいかに愛しているかを、彼女は離れていても自分を気遣ってくれているというようなことを、とうとうと話し、紀雄もだんだん酔ってきて、そのうち、そこまで娘を思ってくれてありがとうと、礼を言った。だが記憶はそこまでで、今、紀雄のらしい寸足らずのパジャマを着て、美紗緒のベッドで寝ているに至った経緯は覚えていない。

「武司君、起きた?」

 ノックと共に義母、加寿子かずこが入ってきた。慌てて上半身を起こし、髪をなでつける。

「あ、おはようございます。申し訳ありません、昨日は……」

「こちらこそ、お父さんが変なことを言い出してごめんなさい」

 いつも控えめな加寿子は、優しいまなざしを悲しげに伏せた。

「私達、あなたがたを離婚させたいなんて、少しも思っていないのよ。お父さんも、ことあるごとに電話で美紗緒を叱ってね。妻として武司君を支えるべきだ、家族というものをどう考えているのかって」

 待つだけの自分と違い、紀雄は説得に腐心していたのだ。申し訳ないような、うとましいような複雑な心持になった。

「でも最後は美紗緒が泣き叫んで、とにかく帰りたくないの一点張りで、おしまい。その繰り返しで、お父さんもだんだん絶望的になって。それで、もし二人の別れが差し迫っていて、その…… 財産がどうとかという話が出るのなら、俺が定年する前にって。美紗緒との離婚で、武司君の会社に迷惑をかけるようなことにはしたくないからって」

「そんなことを……」

 年寄りの気の回しすぎだと断じたが、親として、また信楽に上場を指南した義父として、避けようのない発想なのだろう。それよりも美紗緒が帰りたくないと泣き叫ぶという話のほうに衝撃を受けた。彼女は信楽に感情を隠している。今もふたりの間に断層がある。顔が強張るのを感じた。だが義母にこの不安を露呈するわけにはいかなかった。

「定年…… お義父さん、もう定年ですか」

「ええ、この三月で」

「そうか、彼女はそのねぎらいのために、帰国するのかな」

「えっ、美紗緒、帰国するのですか?」

「はい。三月に。連絡…… 無いですか」

結未ゆみの三回忌以来、会っていないのよ。いつ日本に帰ってきているかも知らないし、こちらから電話しない限り、電話してこないの」

 三回忌と言えば、一年以上前である。信楽にも、実の両親にも距離を置き、彼女はどれほど孤独を囲っているというのか。

「申し訳ありません。夫として、気が回らず」

「そんな。謝らないで。とにかく帰国したらうちにも寄るように、話してみてくれる?」

「はい。もちろん。都合がつけば一緒にお邪魔します」

「そうね。そうね。それがいいわね」

 加寿子はふたりの仲が傍で見るほど壊滅的ではないらしいと感じたのか、はずんだ声を出し胸の前に手を合わせた。ふたりで義父母と対峙すれば、美紗緒は信楽の前で本音を吐くだろうか。その瞬間を想像すると、明白な解は無いのに頭がしんと冷えた。


 二月後半、仕事は脱いだ服が足元で折り重なるように滞り、監査に出す決算資料を小林と徹夜覚悟で最終チェックするはめになった。

史也ふみや君は大丈夫か? ここに連れて来たらどうだ?」

「大丈夫よ。夫がいるから。ふたりだけだと私が昔買ったプレステ、引っ張り出しているみたい」

「プレステ! 今更!」

 呆れた声を出すと、小林はにこりと笑った。

「ようやく我が家でも虹の鍵をクリアする日が来たかも」

「ありがたいけど、複雑な気持ちだ」

 複雑さの中に、小林の夫への羨ましさがあった。そしてうっすら思い出した。あの晩、酔った紀雄から、定年したら信楽君のゲームを孫と楽しむのが夢だったのだ、と言われ、酔いつぶれたのだということを。

 二月も末、新作の社内発表の日程を決め、出席者リストを作った。昔はこのような会議なら全社員が参加したものである。しかし社員数が二百を超えると、自ずと参加者を絞らねばならない。会社一丸でこれを作るぞ、という気勢を上げた雰囲気が失われたのは残念である。

 リストに美紗緒とレンの名を入れ、メールで流すと、後藤がいちはやく見つけて社長室に飛んできた。開口一番、

「会議を英語でやる気かね」

と聞くから、そんなことかと脱力した。

「八嶋に通訳させます」

「わしとしては、レンの意見を取り入れるのは大賛成だが、心配なのは……」

「なんです?」

 後藤はなにやら言い淀んだ後、まるで盗聴器に警戒でもするかのように机をまわり、傍らから小声で言った。

「新年会議の出張で知ったのだが、レンはどうやら八嶋さんに気があるらしい。そこのところを目の当たりにして、あの有能な若者の首を切るようなことはせんでくれよ」

 やはり、と半ば合点しながらも、誰の目にも明らかなのだと歯噛みした。もちろんレンの招へいは、美紗緒のことで釘をさすためである。信楽とて、あの学者肌でオタクで、それでいて明るい若者が好きだ。彼の能力を考えると、信楽のゲームを慕っているというだけでこの会社にいるのが申し訳ないほどだ。しかし美紗緒に近づくのは許さない。

「わかりました。肝に銘じておきます」

 余裕綽々を装って、にやりと笑うと、後藤は、嬢さんが浮気するとは思えないが、まだ向こうが長くなりそうな話だったからね、とぼやきながら出て行った。


 三月初頭、社内発表の三日前である。出勤するなりオンラインスケジューラで美紗緒の予定を確認するのが日課である。すると昨日までは会議前日から日本出張というスケジュールが入っていたのに、突然、今日からの予定に変えられていた。つまりもうポートランドを飛び立ち、今は機上の人であり、夜までに到着するということである。

 その情報は一日信楽を悩ませた。どの飛行機に乗ったのか、どのホテルを予約してあるのか、いつ着くのか、無事着いたのか、調べ尽くしたいのである。しかし分刻みのスケジュールに隙が無い。まんがいち無理をして調べたとしても、結局はすれちがいで、会議までは会えないかもしれない。今までがそうだった。ならば調べないほうがましである。しかし気になる。

「信楽さん、お疲れならもうやめましょうよ」

 夜、赤池と青木との定例になった打ち合わせで、青木がノートパソコンのキーボードをばんと叩き、吐き捨てた。彼らに作らせているソフトは、思い通りに出来ぬ部分が多く、雑な言葉で指示を飛ばしていたから反撃をくらったのである。時計は午後八時を回った。

「食事に行きましょうか」

 赤池が場をとりなす。

「いや、続きは明日にしよう。あと二日ある」

 美紗緒がよく泊まる品川プリンスにぶらりと行ってみようと思った。それで会えなければ、あきらめがつくような気がした。

 しかして予約も無ければ、影も形も無く、結局は向かいの品川パシフィックホテルにも寄り、それでも予約は無くて、レストランで夕食を取り、成田からのリムジンバスが到着するロビーをうろうろしてから、冷え切った胸を抱えて家路についた。

「ただいま」

 いつものように大声で言いながら、ドアを開けると、廊下に灯があった。朝、消し忘れて出たかと思ったが、

「おかえりなさい」

奥から軽やかなスリッパの音と共に、濡れた黒髪を片胸に垂らし、見覚えのあるパジャマにガウンを羽織った美紗緒が現れた。足元に影がある。実体だ。目線を上げ、熱を帯びた瞳と目が合った時、思わず後じさって、ドアから外に出てしまった。

 涙が急速に盛り上がり、こぼれた。まずい。妻が家にいる、それだけで泣いてしまうとは。涙をぬぐって深呼吸し、四十過ぎの男が十も年下の妻に涙を見せるわけにはいかんぞ。と自分に言い聞かせ、ドアを開けた。

 はたして彼女は玄関で信楽を見上げ、どうしたの、と目をしばたいた。

「おかえり。驚いて、つい、ドアを間違えたかと思ったよ。表札を確認してきた」

「突然帰ってきてごめんなさいね」

 彼女が手を差し出すので、握手か? と混乱しながらも握りかけた。

「かばんを……」

「あ、ああ」

 ビジネスバックを受け取って廊下を戻っていく。とぼけて手を取り抱き寄せるべきだった。髪を前に流しているせいで、細いうなじが白熱灯のもとに輝き、その艶めかしさに、美しい絵を見るように感動した。

 リビングで立ち尽くしていると、書斎から彼女が戻ってきて、三歩向こうに立ち止まった。

 見つめ合い、互いの反応を探り合った。

 どうして日本に帰ってきたのか。どうしてこのマンションに帰ってきたのか。どうして日程が早まったのか。聞きたいことはたくさんあったが、問い詰めたくはなかった。それに本当に聞きたいこと、例えばあの晩、なぜ信楽の手を拒んだのか、なぜアメリカへ行くことを選んだのか、なぜ二年半も帰らないのか、それらの疑問は、今更聞くには機を逸しており、待つと決めた信楽には、彼女が自ら話すまで聞けぬ疑問だった。

 なにより美紗緒が目の前にいる。一歩踏み出せば手の届くところに。その喜びだけをかみしめることにした。微笑むと、彼女も溶けたように微笑んだ。抱きしめてもいいかと、聞く寸前、

「お食事は?」

と聞かれてしまった。

「うん。食べてきた。君は?」

「機内食をつめこんだから、あまり食欲が無いの。今日は家のお風呂に入れただけで満足よ。あ……あなたも、お風呂に入ったら?」

「そうか。今日は長い一日だったろうね。あさ食って、ひる食って、機内で三食食って、日本についてまた食うはめになるからね」

「あなたなら食べるでしょうけど」

 美紗緒がいたずらっぽく笑うと、胸に湯を注がれたように熱くなった。

「確かに。君も抜くのは良くないよ。風呂から出たら、そばでもゆでてあげよう。夜食にどう?」

「え、ええ。おそば、日本に帰ると食べたくなるのよね」

 それで信楽は、彼女が使った湯気の残る風呂に入り、彼女が濡らした石鹸を使い、彼女の足跡のついたバスマットに足をつけて、また鼻の奥がつんとしている自分に愛想をつかしそうになった。風呂から上がると、美紗緒はキッチンに立っていた。

「お湯だけ沸かしておいたの」

「食べる気まんまんだね」

 からかいながら、パジャマの腕をまくった。棚から乾そばを出してなべに放り込み、さいばしでかき混ぜた。別の鍋に汁を作る。茹で上がったそばを水で洗ってから、ポットの湯でもう一度温め、湯を切って、どんぶりに入れて汁をかける。買い置きの乾燥ねぎと乾燥麩と、とろろこぶをほおりこむ。外食が多いから腐らない食材だけ買うことにしている。乾物のオンパレードだ。

「昔からこんなに手際が良かったかしら?」

 美紗緒が目をまるくした。

「君がいたときは甘えていたから、料理なんかしなかった」

 小さな花柄の茶碗にも一杯作って、全部で三杯、ダイニングテーブルに運んだ。信楽が料理を作るようになって始めた、遠くへ行ってしまった娘のための陰膳である。今も残されている子供用椅子の前にそれを置き、隣に美紗緒のを、向かいに自分のを置いた。

 美紗緒は小さな碗を凝視し、目をそらして座った。いただきます、と唱える声が震えていた。この二年半、ひとりで戦っている間は忘れていた、同じ喪失を負った妻への気遣いというものが迫ってきた。自分にとっては、陰膳をすえ、子供部屋におもちゃや服を買い、だれもいない部屋に声をかける、そうした亡くした子に向き合い続ける行為が、喪失を癒す手段だった。空想癖のある信楽は、今もこの家の異次元の層に娘が生きていて、例えば今日は、(ママ、お帰りなさい!)と喜んでいる姿が想像できるし、そうしたからといって悲しみが増すわけではなく、むしろ落ち着くのである。

 しかしそんな信楽を見て、美紗緒の悲しみはぶり返すかもしれない。帰らぬ理由の一つかもしれない。結未のなごりを全て消して、忘れたふりをすれば、美紗緒が帰ってくるとしたらどうか。残念だが、そんなことはできない、と断言できるだけの強い思いがある。

「おいしいわ」

 美紗緒が静かにそばをすすって、微笑んだ。気の回しすぎだろうか。

「新作のほうは、いかが?」

「うん。発表できるだけの下地はそろったよ」

「忙しいでしょう?」

「滅茶苦茶だ。でも充実している。社長業のほうが重荷でね」

「それはそうだわ。普通なら社長業だけで精一杯のはずよ。それなのに、ゲームのディレクターも兼ねるなんて……」

「もしかして、心配して、帰ってきてくれたのか」

 とうとう口から出た、質問だ。

「ええ。実はそうなの。新年会議の時、赤池さんから新作のことを聞いて、いてもたってもいられなくて、つい電話してしまったの」

 感情が渦を巻き、箸が止まった。まず嬉しかった。彼女は自分を想っているという確信が裏付けられたこと。それから自責。二月は忙しいから三月に帰国しろと言ったことに。そしてもどかしさ。彼女は一週間で再び旅立つ。心配なら、なぜいてくれないのか。そう聞けない自分へのいらだち。

 言え、言ってしまえ、透明な娘と君を待つ生活は寂しい。ずっとここにいてくれ、毎日君の顔が見たい、君の声が聞きたい、君に触れたい。心の声がわめきたてる。

 だが言えなかった。彼女は帰りたくないと泣き叫んだ。信楽の知らないところで。決断を迫ったら、義父が懸念する結末もありえるのではないか。恐れが言葉を留めさせる。たとえ離れていても彼女とつながっていればいい。結婚というのは、あまりにも大きく手放しがたい絆であった。

「ごちそうさまでした」

 美紗緒はちらりと小さな茶碗を見た。信楽はいつもやるように、その一口を自分のどんぶりに移して、さっと食べた。

「ごちそうさま」

 心の中では、結未に言っている。

 キッチンを片付けると、十二時近かった。

「眠いわ」

 美紗緒は少し疲れた顔であくびした。そんなしぐさは今もかわいらしい。

「飛行機で寝られなかったのか。何時間寝てない?」

「ええ、機内上映が面白くて。昨日の朝からだから、一日半かしら」

「ああ、ごめん、ならすぐ寝かせてやればよかった」

「ううん。いいの。あなたの顔、ゆっくり見たかったから」

 抱きしめたくて、手をのばし、ふと止めた。彼女がぎょっとした顔で、信楽の手を見つめたからだ。

「さ、ベッドに行って」

「あなた……」

 意を決した顔で、つぶやき、一歩近づいた。

「私に触れて」

 信楽はひそかに深呼吸して、手をのばした。

 遠い昔、同じように彼女に触れようとしたことがあった。指一本触れないと約束したゲーム、けれど勝負を放棄して、彼女の鼻梁をなぞった。そしてキスせずにいられなくなった。今彼女に触れたら、キスだけでは済まないだろう。何年も置き去りにされ、待たされて、その間に彼女は匂い立つような色気をまとい、舞い戻ってきた。その引力は数万ボルトの電磁石がクリップを吸い寄せる位、強く抗いがたかった。

「何を試そうとしてる?」

 けれど、信楽とて、無為に年だけとったわけではない。いくつもの障壁をぶちやぶり、精神の危機から這い上がった。今度こそ負けるわけにはいかない。たぶんこれは結婚を賭けたゲームだ。

「君が僕に触れて確かめればいい。僕は拒まないよ」

 優しく笑いかけると、美紗緒は泣きそうな顔をした。その瞳には信楽を求め、けれどそれを自分に許せない、葛藤のようなものが揺らめいていた。キスしたかった。その瞳を閉じさせて、暗黒に落ち込んでいくようなキスで彼女を前後不覚にしてやりたかった。だがそんな強引では、彼女の心を開けないとわかっていた。

「じゃあ、続きは明日だ。今日は寝よう」

 信楽は衝動を押さえ込み、忠実な執事のように彼女を寝室に導き、かつての場所に横たわるよう促した。キングサイズベッドの体一つ分離れた場所に、自分も横たわった。

 美紗緒は何かを耐えるように、信楽に背中を向け、体を丸めた。長い髪がまくらに広がり、シャンプーの香りがほんのりと漂う。その香りを何十分楽しみ続けただろう。ふと寝息が聞こえた気がして、小さな声で聞いてみた。

「美紗緒ちゃん、寝たのか?」

 応えは無かった。

 そっと手をのばし、彼女の髪の一束に触れた。滑らかで弾力のある黒髪だ。ひとさし指に巻いてみる。細くて冷たい、だが確かなつながりが、信楽を安心させた。

 眠りはそれからすぐにやってきた。

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