第3話 帰らぬ理由

 みぞれまじりの雲を突き抜けて、経由地サンフランシスコから飛んだ中型旅客機は、ポートランド国際空港にランディングした。水滴の残る窓の向こうに、どんよりとした空を認め、赤池はぼそぼそと愚痴を吐いた。

「ポートランドは十度目なのに、晴れに当たったためしがない」

「そりゃ酷い確率だな。夏に来りゃいいのに」

 隣に座る副社長の後藤が、無責任に言う。

「なぜか仕事が冬ばかりなのです」

「ここ、冬は雨季ですからね。赤池さんの運が悪いわけじゃないってことです」

 後ろの座席から三人目の同行者、松本雄二が、生意気になぐさめてきた。

 時刻は昼である。ゲートで八嶋が出迎えてくれるはずだったが、立っていたのはマーケティングマネージャーのレン・ウォレスである。三人を認めると日本流に一礼し、目印とも言える茶色い巻き毛を豪快に揺らした。

『ミサオは昨日から風邪で休んでいます。来週の会議には出席するので心配しないで下さいとのことでした』

『つまり今週は彼女に会えないのか。それは残念。おっと、はじめまして。松本雄二です』

 松本は赤池の思考をいちはやく口に出しながら、初対面のレンと如才なく自己紹介しあった。そのあと空港駐車場へ向かう途中で、

『俺、レンタカーを借りて行きます。とまほーくアメリカへ直行でいいですね』

言うなり、レンタカーのサインへ突進してしまった。後藤と頷き合う。海外旅行が趣味だという松本の英語は流暢で、なにより日本を出てから生き生きしている。

『マツモトさんは今回なぜ会議に?』

 レンがいぶかしげに聞いた。

『彼はプログラマーから転進したがっていてね。研修みたいなものだよ』

『ミサオの後任ということはないですよね』

『そういうことじゃない』

 後藤がとぼけ、レンは探るように後藤と赤池をねめつけた。

『ミサオはとまほーくアメリカに、必要不可欠な人です』

『わかっとるよ』

 後藤は笑顔で答え、赤池はポーカーフェイスを決め込んだ。

 とまほーくアメリカのオフィスまではハイウェイを使って約三十分である。小ぶりな工業地域で、樹木が囲む二階建てのビルが十ほど集まり、その間を緩いカーブの道路が縫うようにつなぐ。広々として美しい、うらやましいほどの環境である。

 正面玄関から入ると、思いがけず八嶋美紗緒が廊下の角から飛び出してきた。

「みなさん、お疲れ様です」

『ミサオ! 今日は休めと言ったのに』

『黙ってて。仕事をしたほうが良くなるの』

 駆け寄ったレンを押しのけた。

「おう、お嬢さん。お元気そうだ」

「風邪と聞きしましたが、大丈夫ですか」

「レンが大げさなんです。さ、会議室へどうぞ。コーヒーをご用意します」

 彼女は思っていたよりずっと元気で、そして逞しくなっていた。レンを見上げ、あやまるように微笑する。

『レン、空港に行ってくださってありがとう。もう大丈夫だから。自分の仕事に戻って』

 レンは降参して手を上げ、その場を離れた。

「なんだあいつ、八嶋さんの愛人か?」

 赤池の密かな思考を、またもやずけずけと口にしながら割り込んできたのは松本である。八嶋は振り向いて目を丸くした。

「松本さん! どうしてお二人と一緒じゃなかったの?」

「レンタカーを借りて来たんだ」

「あら。さすがね。最初からそう連絡くだされば出迎えなくてよかったのに」

「八嶋さん、三十路を過ぎたら妖艶さが増したね。悪い虫を追い払うのが大変でしょう」

「相変わらずよく口が回る人ね。レンは私の崇拝者なの。あなたと同じにね」

 二人は旧友を温め、微笑み合った。彼らは七年前、恋愛ゲームのシナリオを共に作った仲である。その点で赤池も同類なのだが、ここ数年、気軽な会話ができなくなっている。

 会議室には、来週の会議の案件を詳しく解説し、データで補強した書類が用意されていた。さらに各部署の説明を聞くに至って、彼女は必要不可欠だと言ったレンの言葉に重みがでてきた。彼女は会社のすみずみにネットワークをはり、あらゆる情報を集約して東京に報告している。優秀な仕事、レンとの親しげなやりとり、彼女の生き生きとした所作を見るほどに、不安が広がっていく。彼女は本当に日本に帰る気が無いのだろうかと。

「八嶋さん、週末に夕食をご一緒願いたいのですが」

「うわ、赤池さん、何ぬけがけしてんすか。もちろん俺たちも一緒ですよね」

「松本、おまえはわしを観光に連れてってくれよ。赤池君は八嶋さんのダンナの友人として話があるんじゃから」

 社内を回った後、こっそり話しかけたのに、松本に鬱陶しく聞きとがめられ、すかさず後藤が助け舟を出してくれた。

「あ、ああ…… そうなんですか」

「では日曜の夜はいかがですか? ホテルにお迎えにあがります」

 松本は渋い顔をして引き下がり、八嶋は事務的な口調で言った。


 週末、呆れたことに松本は後藤を連れて二百キロ以上離れたシアトルまで観光に行ってしまった。一泊して日曜の夜、戻るという。

 それで日曜の夕刻、到着客で賑わうロビーでひとり八嶋を待ちながら、携帯電話の画像を眺めている。娘が一歳の息子をむりやり抱いて自慢げにしている写真だ。娘のすずなは今年から小学生。小林の息子も同じ学年だ。信楽の娘が存命なら、来年小学校にあがるはずだった。社内の旧友たちに同年齢の子が出来、そのうちのひとりにだけ悲劇が訪れたことを、考えるたび、やりきれなくなる。

「赤池さん、お待たせしました」

 柔らかい黒いスーツを着た八嶋が優雅に現れた。小ぶりな日本車で連れて行かれたのはダウンタウンのレストランだ。きちんと予約されていて、窓際の静かな席に通された。

「おすすめコースでよろしいかしら?」

 ウェイターに手際よく注文するさまは馴れたものである。

「ここにはよく来るのですか」

「いいえ。ひとりでは外食しにくくって」

「レンとは?」

「いいえ…… まさか信楽に頼まれたのですか? 私とレンの関係を調べろと……」

 つい噴き出して、八嶋に首をかしげられた。

「いや。おかしくて。おふたりとも私をスパイ呼ばわりするものですから」

「あら、そんなことが?」

 ワインが注がれ、オードブルが運ばれてきた。八嶋は車だからとライム入りのソーダを飲んでいる。彼女は今も信楽を愛しているはず。帰れという言葉を待っているはずだ。迷わず直球を投げることにした。

「信楽さんのことが気になるのでしょう。帰りませんか。日本に」

 彼女はオードブルを一口食べてから背筋を伸ばし、きっぱりと答えた。

「会社命令なら仕方ありませんが、私の希望としては、まだ帰国したくありません」

「なぜです」

「ここでの仕事に生きがいを感じています」

 夫を置き去りにして楽しげに働いて、生きがいとは良く言えたものだ。ぼんやり抱いていた不安が形になるなり、怒りに変わった。

「信楽さんはあなたを待っているのですよ」

「私…… とまほーくに転職したのは、信楽と結婚するためじゃありません」

 皮肉交じりな口調で目をそらした。

「とまほーくで働きたかった。ゲームの仕事がしたかったのです。でも娘が生まれてキャリアもへったくれもなく仕事から離れてしまいました。育児休暇も取りたくなかったのに、信楽に押し切られて取りました。だから、どんな経緯であれ、仕事に戻れて嬉しいのです。こちらにきて最初は大変でしたが、ようやく自分の仕事に自信が持てるようになってきたところです」

 唖然としすぎて、フォークに刺したオードブルのサーモンがぺたんと皿に落ちた。嬉しいなどという言葉がよもや彼女の口から出ようとは。こんな仕事の理由で別居しているのだとは思いも寄らなかった。

「元々私はプログラマーとして入社したのに、信楽の意向でゲームデザインやシナリオ書きや、モデルをやることになって。振り返れば日本では何の実績も残していません」

「そんなことはないでしょう。妖精たちの配列では中心的存在だった。結果としてあの類のゲームとしては異様に売れました。短期間で上場できたのもあのゲームで社会的知名度が高まっていたおかげです」

「もし日本に帰っても、何の実績も実力も無い私には、しかるべき仕事もポストも無いでしょうと言いたいのです」

 仕事なんかより夫と暮らすことを優先すべきじゃないのか。反論の切っ先を、わずかに残った冷静さが制した。この数年、彼女を信楽の妻としてだけ見て、部下としては見ていない。実際、日本に仕事を用意していない。赤池が彼女の直属の上司であることを考えれば、あまりにもひどい手抜かりだ。

 無言のテーブルにメインディッシュが届き、ウェイターがエンジョイとささやいた。エンジョイできようか。肉にナイフを入れながら、己自身も切り分けたくなった。もし上司の立場に立てば、あと数年アメリカでキャリアを積み、海外に精通した管理職として帰ればいいと言うべきなのだろう。だが信楽の友としては、今すぐ日本に帰って、もう一度信楽に子を抱かせてやってくれと懇願したい。二年半で築いた仕事を投げ出してでも。

「すみません。私はこれまで、部下であるあなたの仕事にあまりにも無頓着だった」

 赤池は生来の優しさ、律儀さを抑えられずに、目を伏せた。

「謝らないで下さい。でも、もうお話は終わり。料理を楽しみませんか」

 八嶋はほっとした顔で、料理にナイフを入れ始めた。おいしいわとつぶやき、上品にたいらげていく。もしここにいるのが信楽なら、極上の幸せを感じるだろう。目の前に彼女がいるだけで一日の疲れは溶け、生きている意味を見出すだろう。空が曇ろうが雨が降ろうが冷たい風が吹こうが、世界はロマンチックに見えるだろう。

 けれど彼はここにいない。今ごろ書類の山に埋もれ、決算資料だの、来期の予算だの、株主との会合だのに忙殺され、夜になればひとりのマンションに帰るだけだ。

 赤池は顔を上げ、息を吸い込んだ。

「あなたは信楽さんがどういう暮らしをしているのか、ご存知なのですか」

「どういう暮らし?」

「年末に、お宅のマンションにお邪魔しました。どこもかしこも綺麗に掃除してあって、まるで生活感が無かった。彼はあそこで暮らしているんじゃない。あなたを待ってあそこを守っているだけだ」

 八嶋は意表をつかれた顔で眉をひそめた。

「それなのに一箇所だけ、息づいている場所があった。リビングの奥の子ども部屋です。おもちゃや、新しい服が飾ってありました。まるで娘さんが今も生きているように」

 トイレに行く途中でそれを見て、涙が止まらなくなった顛末を思い出し、赤池は唇をひき結んだ。八嶋もその光景を想像したのだろう。瞳に涙が浮かんだかと思うと、ハンカチですばやくぬぐった。上げた瞳は乾いていたが、頬は青ざめ声は震えていた。

「私が帰れば、彼が娘のことを忘れられると思いますか? 娘は私に似ていました。私を見るたびに彼は娘を思い出すでしょう」

「だから近くにいないほうがいいと?」

「いいえ。彼が立ち直る助けにはならない。それだけです」

「彼は十分立ち直っていますよ。あとはあなたが傍にいらっしゃれば、前に進める」

「嫌です。とにかく彼と暮らしたくないの」

 八嶋はあまりにもきっぱりと言い、赤池は絶望に襲われた。




 支離滅裂だった。美紗緒は今日の話を予想し、赤池をやりこめるための説明を隙無く作り上げ、もう少しで成功しかけていたのに、子ども部屋の話に打ちのめされ、論理が破綻してしまった。

「人事異動するのは赤池さんの自由です。でも私が信楽の元に帰るかは別の話です」

「そ、そんな…… 信楽さんは…… あなたの心がそこまで離れているということを、まったく知らないのです。ただあなたが娘さんの死で傷ついて、その傷を癒すためにここにいるのだと。傷が癒えれば、彼の元に帰ってくると、信じているのです。それなのに…… あなたの話を彼にどう伝えれば……」

 わなわなと頬が震えた。隠していた重罪をあばかれたかのような窮地に陥った。

「もうやめて。もう彼の話をしないで下さい。彼には好きに伝えればいいわ」

 話を打ち切らなければ泣いて真実を吐露してしまいそうだった。それを信楽に伝えられるのは耐えられない。赤池は自分が恋人に振られたかのように傷ついた顔をして、額をもみ、眼鏡を直しながら小さな声で言った。

「今日の話は個人的な相談です。意向を無視して人事を発動するようなことはしません」

 すっかり無表情に戻った赤池と、料理の味もわからぬほど動揺しきった美紗緒は、通夜のように陰鬱なディナーを終え、車に戻った。広い街路を機械的に運転してホテルに着き、エントランスで赤池を降ろそうとした時、ロビーから影が駆けてきた。後藤と松本である。

「やあ、お二人さん。食事はどうだったね」

 助手席から降りた赤池が首を振って不首尾を伝え、後藤は落胆した顔でため息をついた。

「そうか。お嬢さんはまだ帰らないってか。ま、それでもいい。八嶋さん、ちょっと降りてわしの話を聞いてくれないか」

 正直アクション映画のように彼らをふりきって走り去りたかった。が、そうもいかない。車を止めて促されるままロビーに入った。夕刻と違い広いロビーは閑散としている。

「今回松本に出張させたのは、こっちに駐在する気があるか打診するためだった」

 ティーテーブルを挟んだソファーに陣取り、後藤が始めた話にはっとした。後藤と赤池は、真剣に美紗緒の帰国を企てている。

「この土日、シアトルに行ってきた。そんな遠いところまで観光に連れてってくれんでもと思ったんだが、実は観光じゃなかった」

 斜め前に座る松本が得意げにこちらを見た。

「シアトルには任天堂アメリカとマイクロソフトがある。彼は日本のつてを使って関係者にアポを取っていてね。この二日で五人と会食をしてきた。欧米市場について多いに実りのある話が聞けたよ」

 お愛想に素晴らしいわとも言えず、ただ頷いた。

「どうだ八嶋さん。こういう機動力のある男を部下につけてみないかね」

「部下……ですか?」

「北米での販売は増加しているが、市場規模が日本の二倍と考えればまだまだだ。小回りのきく日本人スタッフがいれば、新たな戦術も可能となるんじゃないかね」

 鈍った頭でも、米国人スタッフだけではもどかしかった仕事が松本ならカバーできることを認めざるをえず、頷いた。

「そうか。じゃあ、前向きに進めるとしよう。にしても松本には正直驚かされたよ」

「この出張が決まった時、だいたいお二方の意図はわかりましたからね。それならうまいこと乗っかろうと思ったわけですよ。海外勤務は楽しそうですからね」

 松本のさわやかな言葉は、逆に重圧となって美紗緒に襲いかかった。部下と言えば聞こえはいいが、後任候補に違いはない。外堀を固められているのだ。いつか辞令ひとつで日本に帰ることになるかもしれない。

 信楽のもとに。

 そのとき隣から息を呑む音がして、赤池が、何かを思い出したように頭を抱えた。

「しまった。松本、おまえサウザンドトゥームスのプログラム、やっていたよな」

「ええ」

「残っているのはおまえだけだ」

「ですね。秦さんもさんごも辞めちまったし」

「後藤さん、日本を発つ直前に信楽さんから言われたのです。次の新作はサウザンドトゥームス2だと。とすると松本はそっちに……」

「なんじゃと! またあん男は副社長すっとばしてそんな重大な事を!」

「ツーって、続編ですか。そりゃすごい。にしても俺、もう抜ける気でいたのに」

 後藤と松本が口々に驚きをあらわにするのを尻目に、美紗緒は凄まじい勢いで立ち上がった。三人がぎょっとして見上げる。

「では、私はこれで。松本さん、一緒に働ける日を楽しみにしています」

「ああ、そうなるといいんだけど」

 もの問いたげな三人を残して、足早にロビーを抜けた。愛車の運転席に座り、一息ついたが、車を走らせ始めると手が震えているのがわかった。雨が降り出していた。アパートへは、森を抜ける真っ暗で曲がりくねった道を通らねばならない。もし私が交通事故で死んだら、彼はどんな絶望に陥るだろう。考えただけで身震いがした。

 目の前に迫った明るい大型スーパーに入った。サッカー場ほどもある駐車場には日曜の夜とあってまだ多くの車がいる。ためらいの後に携帯電話を取り出し、レンにかけた。

『ミサオ?』

『ごめんなさい、レン。今、時間ある?』

『もちろん。どうかした?』

『今、セイフウェイの駐車場にいるの。いろいろなことがあって……運転に自信がないの。家に帰れない』

『わかった。迎えに行く。何があったかは、その時に聞くから』

 不思議だった。つい最近まで自分を、仲間から離れ孤独に働いている駐在員なのだと認識していた。今は赤池たちとより、レンと話すほうに安らいでいる。

 レンの家は近い。ほどなく彼ご自慢のBMWが入ってきた。車から出て手を振ると、慎重な運転で隣に駐車した。何か言いたそうな口を必死につぐんで、雨に濡れた美紗緒の肩を抱き、彼の助手席に導いてくれる。暖房は最強で、すぐさま体が温まった。無言の美紗緒を辛抱強く見守るレンに、説明しなければならなかった。けれど口が動かない。体は温かいのに、手だけでなく唇まで震えていた。

『僕のうちに来ない? ひとりじゃないんだ。シェアハウスでさ。変だけど面白い場所だよ』

 美紗緒は頷いた。ここに車を置いて帰ったら、明日もレンに甘えることになる。

 芝生を前庭にした木造住宅が規則正しく並ぶひとつに車が着いた。電動シャッターを開けてガレージに入る。もう一台、韓国製の小型車が止まっている。

『野郎ども、お客さんだ。行儀よく頼む』

 ガレージから家の中に入ると、広いリビングで二人の男くつろいでいた。若い白人青年は大型のシンセサイザーの前で。年齢不詳のアジア人がソファーに寝転がって本を読んでいる。リビングは物で溢れかえっており、端的に言えば、オタクの巣窟みたいな場所だった。

『汚くてごめんよ』

『確かに変な場所だけど、嫌いじゃないわ』

『だと思った。落ち着いたら、セイフウェイまで送っていく。それでいいかな』

『ええ。本当にありがとう。レン』

 ソファーにいたのは韓国人らしかった。ソファーを整えて、美紗緒に差し出してくれた。

『もしかして、AIBかい』

 シンセサイザーの男が聞き、レンはしっ、と制した。

『君のゲーム仲間に曲を贈ってもいいかな』

 レンが肩をすくめると、男はシンセサイザーからヘッドホンのプラグを抜いた。流れ出した曲に、美紗緒はくすりと笑ってしまった。スーパーマリオのテーマ曲だ。

『ウォレス様御用達メドレーだぜ』

 明るいゲームミュージックが次々に奏でられ、あまりにも効果的に美紗緒の気分を軽くしていったから、レンの企みかと疑ったほどだ。そんな時間はなかったはずなのに。

 彼はキッチンから、サイケな柄のマグカップに入れたココア持ってきて、隣に座った。

『ミサオ、何も話せないというのは、それだけ心の傷が深いということなんだ。無理しなくていい。でもひとつずつでも話せれば、だんだん癒えていくものなんだよ』

『心理学で習ったの?』

『そうさ』

 そういうカウンセリングみたいなものを全く信じていなかった。それなのに、突然頭を抱えて叫び出しそうになり、レンの言葉にすがるしかなくなった。

『レン…… ひとつ話すわ』

 サウザンドトゥームスのエンディング曲が奏でられていた。

『日本では死体を火葬にするの。知っている?』

『うん』

『信楽はね。娘を火葬にした後に残った、ほんの少しの骨を見て言ったの。どんなにこれを集めても、結未は生き返らないって』

 信楽にとって美紗緒は特別な女だった。娘の結未ゆみはそれ以上に特別な存在になった。彼の想像の世界で小さな娘が、どのように活躍を始めようとしていたのか。今となっては知ることはできない。ただ、信楽は現実と想像の世界、両方で娘の死を受け止めた。ことさら魔女の遺骨を千個集めて生き返らせるサウザンドトゥームスの物語は、ひどく信楽を傷つけ、その後の彼の奇行は数ヶ月も続いた。

 レンは身動きせず、息を止めた。数秒して吐く息と一緒に静かに言った。

『君は夫としての彼を愛し、クリエイターとしての彼をリスペクトしていた。そんな彼の尋常でない嘆きに立ち会うのは、さぞや辛かったろうね』

 答えるかわりに、涙がどっと流れた。信楽の気が触れたような嘆きと美紗緒の苦しみを、レンほど的確に理解しえる人はいないかもしれない。たとえ錯覚でも、彼が今、受け止めてくれていると感じるだけで涙が出る。レンの肩がほんの少し近寄り、もたれかかるよう促した。美紗緒はハンカチに顔を埋め、彼によりかかるまいと必死で上体を支えた。

 シンセサイザーは静かな聞き覚えのない曲を流し始めていた。長い曲だったのか、彼の即興だったのかはわからないが、涙が止まるまで半時間ほども流れ続けた。

『もう少し話してみないかい?』

 レンは、話し、号泣したことでひとつの山を越えた感覚に驚いているのを、見透かしたようにささやいた。

『シガラキさんとミサオの悲しみ方には差があった。彼のほうが深く悲しんだ。そう思っている?』

 頷いた。

『君は事故のことで、自分を責めたことがあるかい?』

 頷いた。

『彼は君を責めた?』

『最初の一度だけ。それ以降は、彼は自分を責めたわ』

『そのことさえ、君は自分のせいだと自分を責めるようになった』

 顔を上げ、レンを見た。真剣で慈愛に満ちた瞳で見つめ返された。けれどそれにすがるわけにはいかないと思った。

『私を分析しないで』

 必死で睨みつけたが、レンは全くひるまなかった。

『もし僕がカウンセラーだったら、君とシガラキさんが元通りに暮らせるよう努力するだろう。でも、僕はカウンセラーじゃない。君に幸せになって欲しいだけだ。シガラキさんは子を失った悲しみから逃れるために、君を遠ざけ、君は彼の悲しみから逃れるために彼から遠ざかった』

 違う、そのとおりじゃない。けれど否定できなかった。

『時間を置いて、また一緒に暮らせば、ふたりとも幸せになれると思うかい?』

『わからないわ』

『どのくらい時間を置けばいいと思う?』

『わからない』

 言ってしまうと、なんと自分があやふやな決意のままに状況を放置しているのか、ということが身に迫ってきた。信楽は待っている。そしてあの物語に再び挑もうとしている。

『私、帰らなければ……』

 日本に。信楽のもとに。

『もう大丈夫? 運転できそうかい? なんならアパートに送っていって、明日の朝、迎えに行ってあげるけど』

 レンは違うように取って、美紗緒の顔をのぞきこんだ。

『大丈夫よ。セイフウェイまで送ってくれれば。心から感謝するわ、レン』

 西洋風に彼をハグしてから立ち上がると、レンは赤い顔をしてポケットに手をつっこみ、車のキーを取り出しながら立ち上がった。

 スーパーマーケットの駐車場で自分の車に乗り換え、アパートに着いたのは、十一時少し前だ。決意が揺るがぬうちにと、コートもぬがず信楽の社長室に直通電話をかけた。

「美紗緒さん。久しぶりね。今、社長は青木の部屋にいるの。回すからちょっと待ってね」

 なぜか小林玲子が出て、数十秒の保留音の後、遠くから信楽の怒鳴り声が聞こえてきた。

「だから電話を回すなって言ってるだろう。何のためにここに篭ってると思ってるんだ!」

「でも…… 八嶋さんですよ」

 受話器を持つ青木の近い声がし、しばしの沈黙の後の、

「はい。信楽です」

低い声が呼び覚ます愛しさに喉元が詰まった。

「すみません。お忙しかったら、かけ直すわ」

「いや、いいんだ。何かな」

「私、日本に帰ろうと思うんです」

「ほんとうかっ」

 青木の手前、抑えていた感情が、ほとばしり出てしまったとばかりの、いさんだ声に、美紗緒はひるんだ。

「数日、ですけど」

「あ、ああ。そうか」

 咄嗟に逃げを打ってしまい、露骨に落胆された。自分のふがいなさに、コートの裾を皺になるほど握った。

「いつになる?」

「休暇が取れ次第なのだけど。そちらは?」

「そうか…… 申し訳ないが来月は都合が悪い。実は新作の立ち上げをしていてね。そうだ。三月に社内発表を予定しているから、君も出席がてら帰国したらどうだ? 出張扱いにするよ」

「そ、そうね。そうするわ」

 帰国を恐れる心と裏腹に、落胆した。本当は新作の立ち上げに加わるよう命じられるのではないかと期待していた。サウザンドトゥームスは美紗緒を想って作った物語だ。その続編には、当然君が必要なのだ、と彼の熱い口調で説得されるかもしれないと思っていた。

 しかし必要どころか、邪魔らしい。彼は青木久美子と新作を作っている。悔しさと寂しさ、そして少しの安堵がないまぜになった。

 あなた。と言いそこなって唇をかんだ。娘の死から、互いをパパママと呼べなくなり、「信楽さん」「美紗緒ちゃん」と呼び合った時代に戻ることもできず、仕事上の関係に徹して、社長とか、そちら、と濁していた。夫婦としての呼び名が失われていることに、今頃気づいた。

「どうかした?」

「いいえ。三月に社内発表をするのじゃ、社長業と同時で忙しいわ。お体に気をつけて」

「うん。ありがとう。じゃ、三月に」

 美紗緒は受話器を置いた。

 帰る。彼の元に。今度こそ、あのマンションに。この二年半でビザ更新や仕事のために何度か帰国した。どの時もホテルに泊まった。信楽は何も言わなかった。信楽が来米する時は美紗緒がホテルを予約した。彼は黙ってそこに泊まり、このアパートに来ようとはしなかった。

(シガラキさんは君の悲しみから逃げている)

 そうかもしれない。

 では私はあのマンションに帰り、同じベッドで彼と寝た時、逃げずにいられるだろうか。


 もう二度と彼の子を産みたくない。


 いつまでも心を蝕み続ける、この感情から。

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