第2話 触らないで

 アパートメントの呼び鈴が鳴っていた。

 夢の中で彼に抱かれ交わしていた愛の言葉が、その音と入れ替わって目が覚めた。

 風邪をひいて休暇を取り、一日眠り続けてもう夕刻だ。のどの痛みは耳まで届いている。今だにあんな夢を見るなんて。美紗緒は冷たいシャワーで自分を痛めつけたくなった。

 明日、日本から副社長の後藤や赤池らが到着し、週明けには新年会議が予定されている。また呼び鈴が鳴った。だるい体を持ち上げ、足を踏み出す。朝よりはましになっている。ガウン代わりのコートを羽織り、リビングにある玄関ドアの覗き穴を確認すると皮ジャンバーで着ぶくれたレンが、ほの白い照明の下、寒さに目をしばたきながら呼び鈴を鳴らし続けていた。美紗緒のアパートメントは二階建ての一階で、パーキングロットから小道をはさんですぐにドアがある。 

『や、やあ、ミサオ』

 ドアを開けると無防備に姿をさらした美紗緒の体の上でむやみと視線を泳がせた。美紗緒は素足にスリッパを履いているだけだ。吹き込む外気に、悪寒が足元から電流のように駆け上る。

『風邪をひいたと聞いたもので、差し入れと、あとひとつ急ぎの仕事があって』

 リビングに招きいれ、寒いというジェスチャーでドアを閉めさせた。のどが痛いの。かすれ声でささやくと、レンは大げさに眉をしかめた。

『ごめん、寝ていたんですよね。キッチンは……ここか。フルーツとスープの缶詰です』

 リビングとキッチンはひと続きである。二人がけの小さなダイニングテーブルに並んだ見舞いは、スーパーマーケットの食料にすぎなかったが、外に出る元気はないから、ありがたかった。微笑みで感謝を示すと、彼の白く冷えた頬に赤みがさした。

 レンはぶしつけに人を観察する男だった。けれど身の上を打ち明けて以来そんな顔は見せなくなり、クリスマス休暇を共にゲーム三昧で過ごすと、二年間の仕事仲間という土台もあって、ひどく身近な人間になってしまった。

 仕事って? 彼の腕にある封筒を指差しながら、唇で聞く。同時に椅子を勧めた。

『今日デザイナーから上がってきたエクスプローラーDSのパッケージデザインです。ここに母星地球の皇女がいるでしょう。日本版のパッケージにはいない。僕はあのゲームでの皇女の存在は隠し要素だと思っている。だからシガラキさんはパッケージに載せなかった。違うのだろうか』

 こんな信楽作品に対する思い入れも、親近感をいや増させる。痛みをこらえ、かすれた声をしぼり出した。

『確かに彼は拒否するかもしれないわ。でもマーケティング戦略としてはどうかしら。日本のパッケージは地味だった。北米ではこの方が売れると考えるなら、進言する必要がある』

 しゃべるほどのどの痛みはひどくなり、声はかすれたが、さらに続けた。

『彼は昔ほど頑固じゃない。昔は、過去の作品を別のプラットホームに移すことさえ拒否していたのよ。彼への先入観で有用な提案を遠慮してはいけないわ。同時に私達の使命は、彼の時間を過去の作品に無駄に費やさせないこと。創作の時間を最大限確保してあげること。彼の判断をあおぎたいなら、質問はYESかNO、あるいは選択肢に絞ることよ』

『うん。今晩社長にメールで判断を仰ごうと思っていたけど、まずミサオに聞いてよかったよ』

『ありがとう、それから……』

 言うなり、けんけんと、咳が出た。

『もう、いい。話すのをやめろよ』

 突然、レンは乱暴な口調になった。尋ねる顔をすると、もしゃもしゃした髪を指で逆立たせ、『いや、ごめん』目を伏せてデザイン画を封筒に戻した。

 その時、電話が鳴った。数コールでリビングの親機がメッセージを流して留守録を始める。

『ヤシマミサオです。ただいま電話に出られません。メッセージをどうぞ』

「信楽です」

 スピーカーからの低い声にぞくりとした。夢の名残が体をざわめかせる。

「今出社して、オンラインスケジューラーで君の病欠を知ったものでね。こちらでは新型インフルエンザが流行っている。そちらもだと聞いているし、心配なんだ。寝ているなら、起きてから電話をくれないか。今日は一日オフィスにいる。メールでもいい」

 日本は朝九時すぎだ。彼は美紗緒のスケジュールを毎朝チェックしている。嬉しくもあり、いらだたしくもある。

「ハロウ、シガラキさん」

 突然レンが電話に飛びつき、受話器を取った。

『レン・ウォレスです。ミサオの見舞いに来ています。彼女はのどが痛くて声が出ません』

 ぼう然とした。彼は信楽と話したくて嬉々として受話器を取ったのではない、挑むような顔で受話器を握っている。スピーカーはオフになり、信楽の声が消えた。

『同僚ですから、当然のことです。彼女はひとりで心配ですし』

 美紗緒のアパートに男がいる。それが、信楽がよく知っている社員だとしても、あるいは風邪の見舞いだとしても、彼の気に触らぬはずはない。慌てて近づいた美紗緒の額に、ひんやりとした手がのった。

『少し熱があるみたいですね。額を触っただけですが。そんなに高くはない。ええ。インフルエンザじゃない。数日寝ていれば大丈夫でしょう。時々見に来ますよ。はい。ではまた』

 レンが受話器を置くと同時に、腕を掴んでゆさぶった。勝手に電話をとるなんて許されないわ! 抗議の声は音にならなかった。

『僕がここにいて、電話に出たことを、彼が気にすると思う?』

 こくこくと頷く美紗緒をレンは冷静な目で見下ろし、首を振った。

『それはミサオの願望だ。彼は気にしない。二年以上離れていても平気な夫なんだから。実際、彼はとても冷静だった』

 レンは確信犯的に電話に出て、信楽の反応を確認したのだ。

 美紗緒はやおらレンの腕をつかみ、ベッドルームに向かって歩き出した。

『ミサオ、何を?』

 寝乱れたダブルベッドが部屋の半分を占める空間にひっぱりこまれて、目を白黒させるレンを尻目にライティングテーブルの椅子に勢い良く座った。目の前に点けっぱなしのパソコンがある。

 見て! 荒々しく指で示して、テキストエディタを立ち上げ、叩きつけるように打ち込んだ。


―― 私は子どもを亡くした。彼女は一歳七ヶ月で、交通事故だった。

―― その後、仕事に復帰したけれど、まわりの視線が苦しくて、アメリカに転勤させてもらった。

―― だから私がここにいるのは私のわがまま。夫のせいじゃないわ。


 直接的な英文が精一杯で、数秒後にはエディターごと消去してしまった。初めて自分の過去を洩らしたことに、たった一瞬で疲れきった。

『なんてことだ』

 頭上でつぶやきが聞こえると同時に、背中から、ごわりとしたセーターの腕が肩を包んだ。壊れ物を抱くような優しい抱擁だった。彼の受けたショックが小さな震えで伝わってくる。

『ミサオ……かわい、そうに……』

 切れ切れな声が言った。

 二年半、慰めや気使いを拒んで仕事中心の生活をしてきた。立ち直る最善策なのだと自分に言い聞かせていた。けれど太く温かい腕に抱かれると、むしょうにもたれかかりたい自分がいる。

 この腕が彼なら…… はかなくむなしい願望が芽生え、必死でふりはらった。

『忘れて』

 レンの腕を軽く叩いて抱擁から逃れ、立ち上がった。

『僕にはわからない。どうして社長は幼い子を亡くした君を、ひとりで悲しみと戦わせているんだ』

 首を振っただけで、ベッドルームからリビングへ取って返し、帰りを促すようにドアの横に立った。

『レン、食べ物、ありがとう。助かったわ』

『今日はごめん。言いたくないことを言わせて……いや、書かせてしまった。忘れる事はできないけれど誰にも言わないと約束する。ゆっくり寝て風邪を治して。何かあれば電話して。助けになるから。それから、僕は……』

 その後の言葉を飲み込んで、レンは黒く凍る夜の中へ出て行った。彼の車のエンジン音がゆっくり遠ざかっていく。

 信楽に電話するべきだった。だが喉が痛い。いや、勇気がない。彼が嫉妬を剥き出しにして、レンのことを問い質したとしても、あるいは最近の彼のように、感情を押し隠した穏やかな声で無関心を装ったとしても、どちらにも過剰に反応してしまいそうだった。レンはただの同僚だと、私はあなたの妻で、今もあなたを愛していると、そんなことを言うしかなくなったら。それなら帰ってきて欲しいと言われてしまったら。

 彼と日本を離れてみれば、氷河もいつかは海に達するように、解決策が見つかると思っていた。けれど、二年半経った今も美紗緒の凍てついた心は溶ける気配が無い。永久凍土に閉じ込められたように。

 彼は待っている。なぜ私が帰ろうとしないのか問い質すでもなく、ただ待ち続けてくれている。それを思う苦しさは日ごとにつのるばかりだ。

 いつかは決着をつけなくてはならない。

 考えが進むごとに悲しくなり、風邪のせいで頭が痛いのか、涙をこらえているせいで痛いのかわからなくなってきた。美紗緒はベッドにもぐりこみ、体を丸めると、そのまま渦を巻く闇の中に落ち込んでいった。



 とまほーくが新興市場に株式上場したのは二〇〇六年一月のことである。個人会社時代に比べ、莫大な資金調達が可能となったが、決算に関わる事務処理も格段に増えた。十二月末決算のため、一月はそれが最も集中する時期である。正月休みが明けて二週目、信楽は書類の山と格闘をはじめたところだった。

「この費用を開発費に入れるのはおかしいわ。坂巻さんに確認してきて」

 目の前の会議机で部下に采配をふるっているのは上場前に副社長だった小林玲子である。子育て中とあってその座を元営業部の後藤に明け渡し、現在は管理部部長を務める。彼女は子どもを産んでますます強くなった。髪をシニヨンに結い、年を取っても変わらぬ美しさは、フライトアテンダント顔負けだ。

 今日は彼女と経理の女子社員が社長室に詰め掛けている。その若い方は今、坂巻の元に飛んでいったが。

「なあ、そういう作業はここじゃなくて、管理部でやったらどうなんだ」

「ぐずぐず言わずに、あなたは書類にハンコを押しなさいよ」

「へい、親分」

 小林は無言で書類を繰り続ける。別に話したいことがあって、ここにいるわけではなさそうだ。

「それにしても」

 と、思いきや急に顔を上げ、信楽を見た。

「このままだと決算は予想外の大幅黒字になりそうだわ」

「黒字のどこがいけないんだ」

 彼女の懸念を承知で、とぼけた。信楽の新作のための開発予算が二年前から凍結されたままだ。それがそっくり利益を上昇させている。新作が出なくても、過去のゲームを作り直した商品が十分な売上を上げている。北米を中心に海外の売上が増えてもいる。

「新作は進んでいるの?」

「まだ皆に発表できるほどじゃない」

「そのセリフ、一年前にも聞いた気がするわ」

「そうか?」

「彼女がいないから、出来ないのじゃない?」

「ブルータス、おまえもか」

「え?」

「年末に赤池にも彼女を帰国させろって小言をくらったよ。ほっといてくれ。俺たちは離れていても」

 そこまで言って、ありきたりな言葉でくくるのをためらった。

「離れていても愛しあっている? そう思っているのはあなただけで、美紗緒さんはあなたを忘れたいと思っているかもしれない。もうすぐ三年なのよ」

 いっこうに鳴らない電話。アメリカは夜中に近づきつつある。仕事のメールばかり増えていくメールボックス。信楽はぷいと立ち上がった。

史也ふみや君は、五歳だったね」

「え? ええ」

「子どもが三つ年を取る年月は長いかもしれないが、俺たちの時間は止まっている。三年なんて、あっという間なんだ」

 小林の手が止まり、哀れみを隠すように唇が歪んだ。彼女も信楽達を案じているのだとわかっているのに、子どもを持ち出してまで反論したのは無様ぶざまだった。

「少し出てくる。ここは自由に使ってくれ」

 誰にも話しかけられないようなスピードでフロアを横切り、非常階段を上った。二フロア上の二十八階は数ヶ月前テナントが撤退し、無人である。そのエレベーターホールがひとりになるいい場所だった。

 大きな窓の先に羽田空港があり、ひっきりなしに航空機が降下してくる。いまだに飛行機や列車を見るのが好きだ。年をとって変わったのは、その向こうに人々の膨大な努力が見えることである。彼らは巨大で複雑な輸送機を絶え間なく正確に運行している。

 翻って今の信楽はと言えば、いつまでも走り出さない故障車両のようだった。時刻表も何もあったものではない。大空を映す冷たいガラスに額を押し付けて、拳を握った。

 額を触っただって? 俺が最後に彼女に触れたのは何年前だと思っているんだ、レンのばかやろう。

 レンは美紗緒が信楽の妻であることを知っているようだった。つまり美紗緒が話したということだ。それは他の同僚以上に心を許したということなのか。

 あいつには触れさせたのか。俺の手を拒んだ君が。

 忘れることはできない。あの晩のことを。

 上場した年の十月に幼い娘が事故で逝き、その混乱の中で初の決算、さらに新作の発売が一年後に迫り、仕事をこなすだけで精一杯な日々が続いていた。美紗緒が我が子の喪失という悲痛と戦っているのだとわかっていても、ふたりともが底なしの沼にひきずりこまれるような気がして、語り合うことすらできなかった。美紗緒は産休のあとに育休を取り、仕事から離れていたが、四月から職場に復帰した。その働きぶりからして、徐々に落ち着きを取り戻しているのだと、勝手に解釈していた。

 あの晩、十月の事故以来半年ぶりだという意識も無しに、隣に眠る美紗緒に触れた。それまで、自分がどう眠っていたのかすら覚えていなかった。

 半年間、昼夜途切れることのない拷問にさらされているようだった。黒い固い冷たい何かに塗りこめられ、外から杭を打たれ、断続的に激痛を与えられているような。だがようやく指一本か二本かだけ、その監獄から抜け出し、外の世界に触れたのだ。

 彼女はここにいる。あの小さな美しい存在は俺の前から姿を消してしまったが、俺の聖なる存在はまだ消えていない。深いため息をつきながら彼女の体に手を回した。温かく柔らかく、鼻先をくすぐる髪は甘いにおいがした。彼女の体から流れ込む熱が信楽の冷たい監獄を温めかけた。

 だが恩赦は長く続かなかった。

「お願い」

 悲鳴をこらえているような声が聞こえた。

「私に触らないで」

 愕然としてこわばった信楽の腕の中から、彼女はぎくしゃくと抜け出し、ベッドルームのドアで立ち止まった。

「ごめんなさい」

 震える肩越しに言い、消えた。物音でリビングに行ったことがわかった。

 追えなかった。

 再び黒い塊に閉じ込められた。

 終わっていない。もちろん終わっていなかった、信楽の中でも。未来と夢が音をたてて崩れ、深遠に取り残された。そんな喪失は、美紗緒と信楽を取り込んで逃してはいない。さらに二人が、まったく別々の深遠にいるのだということが、遅まきにも痛感された。

 真夜中、自分が寝ていたのか定かでなかったが、小さな声を聞いた。

「ごめんなさい。あなたを助けてあげたいのに。できないの。愛してる。でも耐えられない。どうしたらいいのか、わからない」

 美紗緒が頭の上でつぶやいていた。時折嗚咽が混じる物悲しい声に、耳を塞ぎたくなった。だが身動きせず寝ているふりをした。何を謝るのか、何が耐えられないのか、追求したくなかった。追求したら彼女の深遠がもっと深く、そして遠くなるような気がした。

 二日後のことだ。美紗緒が仕事中、社長室に乗り込んできたのは。

 上場で得た資金で米国ティントーイズ社の一部を買収し、子会社を設立して一年が過ぎようとしていた。そのころ彼らと本社との間に致命的なコミュニケーションエラーがあり、駐在員が必要だと悲鳴が上がっていた。美紗緒がそれに志願したいと言い出したのだ。

「他に適任者がいるかしら? 英語ができて、プログラミングができて、社内の状況をよく知っている」

 彼女は滑らかに演説したものだ。

「私は復帰したばかりで、どのプロジェクトにも深く関わっていない。それから」

 少し言いにくそうに窓の外を見た。

「ここではみんなが私に気を使うわ。やりにくいの。あちらは新しい人がほとんどで、私が社長の妻だということも知られていないでしょう」

 彼女の申し出を頭の中で消化するまで、いろいろな思いが駆け巡った。仕事がやりにくいなら辞めればいい。俺の妻でいてくれれば。だが仕事は、彼女を立ち直らせる最良の手立てのような気がした。

 これがふたりの別れになるという可能性も考えた。だが、彼女と自分が特殊な力でつながっているという確信はゆるぎなかった。

 それでいて美紗緒の葛藤が理解できず、一緒にいても何もできないという無力感があった。離れて互いに自分を癒すことでしか、再び元の夫婦に戻れない気がした。

「あなたを一人にしてしまうのは、申し訳ないと思うわ。でも」

「そんなことは気にしなくていいんだ」

 結局、鈍感で物分りのいい夫を演じた。

「もう一度仕事に打ち込みたいという気持ちはわかる。それが僕のためだということもわかっている」

 彼女は信楽の言葉に目を潤ませた。

「ごめんなさい」

 あの夜と同じ苦悩に満ちた謝罪。なぜ謝るんだ。問い詰めたいのに得体の知れない恐れが、言葉を飲み込ませた。

 あれ以来ふたりは社長と社員以上の接触をしていない。信楽は美紗緒に指一本触れていない。

 レンには触れさせた。そう言葉で繰り返して、信楽は自分の中の嫉妬が、過去とは似て非なることに気づいた。出会いからすぐに、彼女を深く求めた。彼女が男と握手するのにさえ嫉妬した。だが、それは大切なおもちゃを自分だけのものにしたいというような子どもっぽい嫉妬だったのかもしれない。

 今信楽が感じているのは、怒りを伴う激しい嫉妬だ。しかもその怒りがレンだけでなく、美紗緒にも向けられていることに震撼とした。

 俺が、彼女を憎むなんて。

 その時、信楽の中でごとん、と何かがはまる感覚があった。ガラスに映る嫉妬に狂った男の顔。言いようのない絶望を伴った怒り。がむしゃらに何かに立ち向かわざるをえない圧倒的な孤独。

 誰かが盗み見ていれば、気が狂ったと思っただろう。さっきまで暗い顔をしてガラスを睨みつけていた男が、突然笑みを浮かべたのだから。



 青木久美子のオフィスは二十五階のフロア奥にある個室である。上場で本社を一フロアから二フロアに拡張した時、信楽がしつらえてくれた。だからだろうか「ちょっと場所を貸してくれ」我が物顔で入ってきた信楽が部屋の隅に直接あぐらをかいて座り、会社おしきせのメモノートになぐり書きをはじめても、文句を言えなかった。

 坂巻作品の開発スケジュールを調整中だったが、存在感のありすぎる大男が視界の中でちらちらして、手につかない。 

 何をしているの? なぜここへ? つい目がいってしまう。

 瞑想する僧のように体を丸めてペンを握っていた信楽が、数十分後目を上げた時、そんな久美子と視線が合った。

「ここはいいね」

「はい?」

「ゲームを作っている部屋だ」

 つい微笑んだ。会社が大きくなるほど信楽は開発から離れていく。彼の新作が止まっている今はなおさらだ。彼が今も開発部に愛着を持っているとわかるのは、嬉しかった。

 久美子が入社したのは、信楽の三作目、「虹の鍵」開発中である。社員は二十名に満たず、オフィスは狭く、小林に整理整頓と怒鳴られながら、資料と機材に埋もれて開発をしていた。信楽は創作と監督業両方をこなすため、資料の山と化した社長机から出たり入ったりしていた。信楽が山から出てくるのをつい目で追っては、赤池にため息をつかれたものである。

 この会社にもうあんな場所はない。

「そんなネズミが住むような場所でよろしいのなら、いつでもお使いになってください」

 ぶっきらぼうに言った。

「そりゃ、どうも」

 信楽もぶっきらぼうに答え、立ち上がった。出て行くのかと思いきや、こちらに近づいてくる。あっという間にノータイの仕立のいいシャツが目の前に立ちふさがり、彼の右手が久美子の額に押し当てられた。大きな熱い手だった。前髪が持ち上げられ、まぶたに重い。心臓が大きく打ち、頬が熱を持った。

「別に、なんてことはない」

 口をぱくぱくしている久美子を尻目に、ぽつりと言った。

 その時、ノックとともにドアが開き、赤池がにゅっと顔を出した。

「信楽さん、こんなところに!」

 彼らしくもなく興奮した様子である。

「すまんな、青木」

 信楽は久美子にささやいてから、赤池を振り向いた。

「何かあったのか」

「いえ、社長室からはだいぶ前に出て行ったと小林さんがおっしゃるし、携帯は机に置きっぱなし、非常階段を上がっていったという者もいれば、二十四階で見たという者もいれば……」

 どうやら信楽は誰にも告げず、ここにいたらしい。ずいぶん探し回ったのだろう赤池は、ようやく取り直して入ってきた。久美子は信楽に触れられた額に、もつれた前髪を下ろし、(何だっていうのよ、まったく! 変人め!)心で文句を吐いて平静をたぐりよせた。

「私と後藤さんは今日の午後アメリカに発ちます。その前に確認をと思って」

 赤池は物問いたげに久美子をちらりと見てから、信楽に聞いた。

「八嶋さんは今年もずっと向こうに駐在させる予定ですか」

 なぜかどきりとして、イスの肘掛を握った。

「そんなことのために俺を探し回ったのか」

 信楽が赤池を睨んだ。

「彼女が帰りたいと言えばいつでも帰す。だが無理には帰さない。代わりの駐在員の手配もある」

「帰ってきてほしいという一言を待っているかもしれません。彼女の希望を聞くべきです。私は上司として……」

「余計なことはするな」

 脅すような声でさえぎった。赤池は眉をひそめたがそれ以上は食い下がらず、久美子のオフィスに視線を巡らせた。

「ところで、こちらで何を?」

「集中できる場所が欲しかったんで、借りていた」

「はあ?」

「赤池、青木、どうせ君らには最初から関わってもらうことになるだろうから言っておく。次の新作には、サウザンドトゥームス2を作る!」

「ええっ!?」

 赤池と同時に久美子も叫んだ。

 幼い娘を亡くしてから、一向に新作に取り掛からなかった信楽。これまで決して続編を作らなかった信楽。その彼が過去の作品の続編を作るという。

 赤池と久美子は互いに答えを求めるように、顔を見合わせた。


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