堕天使にさだめはいらない

古都瀬しゅう

第1話 6年後

2009年12月 プレイステーション3全盛期


 冬のオレゴンは頭のすぐ上に灰色の雲が、じっととどまり続けているような暗鬱な場所である。冷凍庫とまではいかないが、冷蔵庫は不要なほどの寒さが春まで続く。温暖なフロリダ出身のレン・ウォレスは、町全体が霊廟のようなこの雰囲気が嫌いではなかった。

 たぶんギークおたくにはフロリダよりオレゴンのほうが似合っているのだろう。それでこのアメリカ合衆国オレゴン州ポートランドに子会社をかまえる日本のゲーム会社勤めも、苦にならないというわけだ。いや、むしろ楽しくて仕方が無い。学生時代、熱狂したゲームを作った会社だ。それにAIBがいる。

 レンはにぎやかな会場に足を踏み入れるなり、小柄な黒い姿を探しはじめた。

 午後三時、クリスマス休暇を前にした社内パーティーが開かれている。大ぶりな会議室だが、五十名近い社員やそのパートナーたちが入りきると、移動さえ難しかった。グラスや皿を持った彼らから、うめかれたり、呼び止められたりしながら、ようやく彼女を見つけた。仕事中ならば人々の中心で気勢を吐いている彼女が、今日は壁際でジュースをすすっている。『ハイ』声をかけると、黒い瞳が物憂くレンを見上げた。いつもの黒い服。バレッタで束ねた長い黒髪。AIB、エンジェルインブラック。レンが心でそう呼んでいる日本人女性である。

『パーティーは嫌いなんですか』

『そんなところよ』

 普段から滅多に笑わない。日本人の女性は笑顔でいることが尊重されると聞いたはずだが、彼女は、その類に属さない。むしろ東海岸のキャリア女性のように厳しい顔つきで肩肘張って生きている。それでいて仕事中に突然うわのそらになる不思議なくせ、男の服についたほこりを取り除いてやるような細やかさ、パーティーにはつきあわず壁際にいるような偏屈さが彼女を謎めかせている。いったいどのような生い立ちが彼女を作ったのだろう。

『レン、私を面白い生き物みたいに観察するの、やめてくれない?』

『まさか。ボスを観察するだなんて』

『いいえ。あなたがそういう顔をしている時はわかるの。文化人類学だか、心理学だか知らないけど、私を分析しているのでしょ。それに私はあなたのボスじゃないわ。唯一の日本人駐在員だから、必要な時にはリーダーシップを発揮しているだけよ』

 俺って頭の中が顔に出やすい人間だったかな。あごをかきながらレンは、こういう時にだけ、しかるべきリーダーシップを発揮する宣伝部のスティーブが、変な中国風のタイコを叩きながら、イスに上って叫ぶのに目をやった。

『やっほー、とまほーくアメリカのみんな。楽しんでるかー! 食ってるか? これからネット回線で社長の挨拶があるから、前方に注目せいよ!』

 会場中がやんやの口笛を吹き、前方のオンライン会議用モニターに日本からの映像が映し出された。

『ハロー、エブリワン。シガラキです』

 おっーと、どよめきがあがった。本社の社長、タケシ・シガラキは、世界に名の知れたゲームクリエイターである。職種によっては毎日通信している者こそあれ、ほとんどの社員は接点がない。だから彼の登場にため息がもれるのだ。大胆不敵な実業家の顔と、繊細なクリエイターの顔が同居する彼は、一度でも会えば惹かれずにいられない。レンも彼の姿を見ようと、のび上がった。

 多少ごつすぎる顔がほどよく皺に縁取られ、包容力を感じさせる。モニター越しにも彼の大柄な体躯は明らかで、映画俳優なら恋愛ものよりアクションものがお似合いだ。彼がおたくっぽく、時にはロマンチックなゲームを作るというのが不釣合いでまた面白い。

『スティーブ、僕にも全員の顔が見えるように、カメラを動かしてくれないか』

 スティーブはウェブカメラを持ち上げ、イスの上で背伸びをしながら会場中を撮影した。一番遠い壁にいるレン達は、おそらく画面に入らなかっただろう。

『ありがとう、スティーブ。集まってくれたみんな、今年の皆の努力に感謝の意を表します。北米クリスマスセールでの販売本数は昨年の20%増だという報告を受けた。まずトライフラーWiiをこのクリスマスに間に合わせてくれた移植チームに拍手を』

 拍手が沸き起こり、チームのメンバーが手を振った。その後、シガラキはよくそんなことまで知っているものだという事まで含め、様々な功績をたたえ、ほぼ全社員がみなの拍手を得た後、おもむろに声を高くした。

『そして、とまほーくアメリカがここまで成功してこられたのは、彼女の努力が大きかったと思う。アメリカに渡って二年半だ。ミサオ・ヤシマに最大限の感謝を』

 会場中がミサオの姿を探し、レンは、腕組みをしてモニターを睨んでいるだけの彼女に代わって、『ミサオはここだ』叫びながら、痛いほど手を叩いた。なぜか彼女は心外なようだったが、同僚達の笑顔におされ、『ありがとう』口の中で言いながら、おざなりな笑顔を返した。

『そして、こんな日に明らかにするのは恐縮だが』

 拍手がおさまるのを待って、シガラキの声が響いた。

『僕は二年に一作、新しいゲームを発売することを自分に課してきた。今年がその二年目だった。しかし、新作はまだ製作も始まっていない。これについては、皆に申し訳ないと思っている』

 正直な落胆の声が会場を埋めた。

『信楽武司は社長業に専念してもうゲームを作らないのではないか、そんな声も聞こえている。だが、それは噂に過ぎない。次も必ず作る。待っていて欲しい』

 大きな拍手。

『それでは、みなさん、いいクリスマスを』

『メリークリスマス』

 皆がモニターに向かって手を振ったり、グラスを持ち上げたり、口笛を吹いたりする中、唐突に画像は暗くなった。

『やっぱり今年は新作が出ないんですね。彼のことだからサプライズで大晦日に発売するかも、なんて噂もあったけど』

『製作にも入っていない』

 レンへの答えでなく、ミサオはつぶやいた。

『ああ、そう言っていました。つまりまったく作っていないってことですか』

『そうね』

『彼も四十すぎですからね。社長としては若くても、ゲームクリエイターとしては、ちょっと年を取りすぎたのかな。残念だなあ』

『違うわ。きっと』

 眉間にしわを寄せ、グラスをテーブルに置くと足早に会場を出てしまった。その目に光るものを見た。彼女のオフィスは総二階建てビルの片隅にある。西向きで薄暗い個室は殺風景で、装飾品や写真のようなものは全くない。ミサオはぽつんと据えられた机の上のティッシュボックスに突進し、二、三枚むしりとって目頭を押さえている。

『新作が出ないのがそんなに悲しいんですか』

 ミサオは一瞬レンの存在にたじろいだが、『私、彼のゲームのファンだから』顔を上げずに言った。声のトーンには出て行って、という攻撃的な意味を含んでいる。けれどレンは今ならエンジェルの翼をつかんで地に下ろせそうだという衝動に突き動かされた。ずっと彼女に近づきたかった。このミステリアスで強情で美しい東洋人に、仕事を超えてもっと。

『ミサオ、クリスマスにディナーへ行きませんか』

 彼女は目を上げた。もう涙は乾いていた。

『デートに誘っているの?』

『そうです』

 本当に心外で迷惑だという顔。だがギークは鈍感じゃないとやっていけない。

『あなたは私の事を知らないわ』

『知ってますよ。もう二年も一緒に働いている。僕たちはいいコンビだった。僕は噂話にはうといけど、あなたが一度結婚に失敗しているらしいというのは、聞いたことがあります。離婚暦なんて誰も気にしないけどね』

 あの噂は本当だったのだろうか、と内心驚きながら滑らかに言った。ミサオは今三十二で、二つ年上だということのほうに驚いた記憶がある。

『私は今も彼の妻よ』

『彼?』

『この会社の社長』

 今度はレンがきょとんとする番だった。

『社長って。シガラキ社長?』

 彼の名を口にしたくも無いのだろうか。窓の外を向いてしまったミサオの背中が、さびしげにひきしまった。AIBが黒い翼を出し、今にも飛び立とうとしている。驚きに立ち尽くしながらも、レンの頭は状況を綿密に検討しはじめた。

 妻だって? でも彼女は二年半もアメリカにいるし、社長とのやりとりはいつもぞんざいだ。社内では誰も知らない、いや知っていても口にしない。ということは、ふたりの結婚に問題があるのは明白だろう。ミサオをアメリカ勤務にしたのは疑いなくその夫、シガラキ社長だ。

 なぜ?

 愛人か。

 彼はいかにも女にもてそうな男だ。結婚を機に新しい女に目移りした。しかしミサオは離婚に応じない。それでアメリカに飛ばされたのかもしれない。

 だがそんな経緯で彼女のように真摯に働けるものだろうか。いや気の強い女なら、そうして自分の存在を認めさせようとするのかもしれない。あてつけに社内での存在感を高めようとするのかもしれない。

 とにかくミサオに非があるとは信じられず、にわかにシガラキが、若い社員に手をつけて結婚し、放蕩の挙句、今度は社長という立場を使って妻を遠ざけるような、横暴な男に思えてきた。ミサオが先刻、社長に名を呼ばれ、しらじらしい感謝の意を示されて顔をひきつらせていたのがひとつの証拠だ、と。

『ミサオ、二年半も夫の役割をはたさない男を、夫とは呼ばないよ』

 窓の外には白い冷気がはりつめていた。彼女の頬は同じように白く、長い間ひっそりと動こうとはしなかった。



 妻を放っておく夫じゃない。夫から逃げている妻なのよ。私は。

 社内での通称は八嶋美紗緒、法的には信楽美紗緒は、大きなはめ殺しの窓に映る自分をにらんだ。背中に感じるレン・ウォレスの視線は、彼がしているであろう誤解のせいで、むしろ自分を責めているようであった。突然デートに誘われ、口をすべらせてしまったことを後悔した。

 レンは二年近く一緒に働いてきた気の置けない同僚だ。興味の向くままに複数の大学で学んだ後、ハリウッドで映画のマーケティングをしていたという経歴に偽りはなく、とまほーくアメリカの重要なブレーンとなっている。おたくっぽいのかと思えば行動的で、日本の本社におしかけ、信楽に直接採用を迫ったという逸話を持つ。彼はとまほーくに必要だ。関係をこじらせるわけにはいかない。気力をふりしぼって、視線を合わせた。

『レン、私は優秀なあなたとこれからも仕事がしたいわ。でも私と夫の事は、詮索しないで。私が既婚者であることは、忘れないで』

 するとレンは、持ち前の不敵な笑顔を満面にたたえて挑んできた。彫りが深いからハンサムだくらいの美意識しかない日本人に西洋の基準はわからないが、レンの顔は整っている。しかしふわりとしたこげ茶色の髪が四方に広がっているせいで、コミックのひょうきんな主人公のようにも見える。

『わかりました。でもね。僕は単純にミサオをディナーに誘いたいんだ。クリスマスにひとりきりのディナーはさびしいじゃないか。僕たちは今この町に家族も、恋人もいない同士だ。軽い気持ちでディナーに行こうよ。ね?』

 机の向こうからのしかかるように顔を近づけてくる。こういう時のアメリカ人の押しの強さといったら…… あきれながら、どう断ろうかと逡巡していると、にやっと笑って身をひいた。

『じゃ、EAの新作ゲームが来ていますから、ケータリングを取って、映像室で一緒にやりましょう。クリスマス休暇に一気にクリアーなんてどうです?』

 いったいどこまで真剣なのかわからなくなった。とまほーくには他社のゲームについて、レポートを書くシステムがある。レンのレポートが秀逸であることは皆が認めている。

 美紗緒はあきらめて肩をすくめた。

『報告書を書くためならね』

『もちろん』

 そんな小さな仕事でも、休暇を無為に過ごすよりは信楽のためになるのかもしれない。私は彼の繊細な心を、一度こなごなに砕いてしまった。だから新作ができないのに違いない。その罪滅ぼしになるなら、なんでもする。

 あるたったひとつのことを除いては。

 美紗緒はレンに気づかれないよう、体を椅子に沈めてから、両手を握り締めた。



 魚の煮付け定食。

 キンキの煮付けとほうれん草のごまあえ、玉子焼きが一切れに野菜サラダ。大盛りご飯。栄養はまあまあかな。青木久美子は目の前に店員が並べた料理に目を走らせ、満足した。

「で、その婚活パーティーとやらに出てどうだったんだ」

 料理の向こうでさっそく箸を取った信楽があまり興味もなさそうに聞いた。

「ええ。私、自己紹介シートにゲーム会社勤務って書いてしまったんです。そうしたら三分でひとりずつ話すお見合いタイムで、回ってくる男性が聞くのはゲームの事ばかり。独身男性のゲーム好きにはあきれました」

「ゲーム会社の管理職がその言い草か。いいじゃないか。『養獣譚』のチーフプログラマーをしていましたって言って、くいついてきた男とつきあってみれば」

「まさか」

 露骨に顔をしかめて見せた。久美子はゲーム会社に勤めていながら、ゲームオタクを毛嫌いしている。目の前にいるその親玉のごとき男に一度は恋し、けれどもあまりの変人さに、諦めた過去が祟っているのかもしれない。ただ、今だこの親玉を嫌いにはなれない。今日はふたりきりでの夕食とあって、いつもよりお洒落をしてしまった。ここは会社近くの色気も何も無い定食屋にすぎないのだが。

 信楽の妻が突然アメリカに渡って二年半。とまほーく社内に、「社長の健康を守る会」が密かに結成された。発起人は取締役であり信楽の親友でもある赤池耕介で、週に最低二度は信楽に栄養たっぷりの食事を取らせることを会則としているのだ。

 結局その秘密結社は、頻繁かつ定期的に食事にさそってくる社員たちを不審がる信楽によって正体をあばかれ、今では本人公認の会になってしまっている。今日はふたりきりだが、四人とか五人での会食も多く、社員との交流の場としてまんざらでもないと思っているらしい。

「じゃあ次は情報関連会社勤務とでも書くんだな。で、続けるわけだ。婚活」

「ええ。一時的なはやりだってわかっているんですけど、チャンスでもありますし」

「悪いがそんな所で青木の相手は見つからないだろう。僕が探してやろうか」

「結構です!」

 きっぱり断ると、信楽は苦笑いした。

「自分の結婚もままならない男が、人の世話を焼いている場合じゃないか」

「そ、そんなこと。ただ、信楽さんの知り合いって、変人ばかりな気がして」

 信楽はぐっふと変な笑い方をして、ほおばった飯粒を口から出さないようにした。

「あの…… 信楽さんは、まだ結婚してらしゃるのですよね」

 最近、彼らは既に離婚しているのではないかという噂が流れていた。

「うん」

「八嶋さん……奥様の事、どう思ってらっしゃるんですか」

「よくやってくれている。青木だって、彼女があっちにいてくれるおかげで、助かっているだろう。僕も彼女がいなければ、月に一度は海外出張ってはめになる。アメリカは日本より大きな市場だ。ヨーロッパへの中継地点でもある」

「それはそうですけど、そういう意味じゃなくて」

「僕は待っている」

 彼は体全体のうごきをぴたりと止めて、久美子の皿あたりに視線を落とし、決然と言った。

「五年でも、十年でも、彼女が帰ると言い出すまで、待つ」

 そんな日が来なかったら? 問いかけそうになって唇をかんだ。信楽の一途な想いに心うたれていた。八嶋美紗緒が自分から望んでとまほーくアメリカに配属になり、それきり信楽と個人的には会っていないのだと、赤池が心配していた。それでも、信楽は妻の帰りを待つというのだ。

 ふたりは黙々と定食を食べ続けたが、久美子は、胸がつかえて料理がうまくのどを通らないのに気づいた。目の前の大男の存在が変に意識されはじめていた。

「青木、それ、残すのか」

「えっ、ええ。はい」

「じゃ、もらうよ」

 信楽は半分以上残っているご飯を茶碗ごとつかむと、自分の茶碗にごそっと落とした。ぽっと頬が熱くなるのを感じた。こういうがさつなところがある男なのだ、と前から知っている。ワイングラスから飲み残しをさらっていかれたことさえある。その時はあきれただけだったのに。

「もう、いいかな」

 箸を止めてしまった久美子に、すっかり平らげた信楽が聞いた。「ええ」答えると、さっさと勘定を取る。あばかれた秘密結社存続に際し、信楽は、飯は僕におごらせること、というありがたい条件を出していた。

「ごちそうさまでした」

「こちらこそ」

 ふたりとも、そっけなく席を立つ。

「青木は浦和だったな。途中まで一緒に行くよ」

 品川駅から京浜東北線に乗り、仕事のことをぼそぼそと話しながら、新橋に着いた。

「じゃあ、ここで」

 信楽は大きな体を少しかがめて、電車を降りた。その時、久美子は何かに引っ張られるように、ドアから出てしまった。ホームは人でごった返しており、信楽は久美子に気づかぬまま、階段のほうに歩いていく。

 なぜ? 自分に問いかけ、答えられぬまま後をつけた。彼は身長が185センチもあり、尾行には苦労しない。久美子の姿は雑踏が隠してくれる。駅を出て、歩いて五分もせぬうちに、博品館というおもちゃ屋に入った。なによ、市場調査か。ひょうしぬけして帰ろうと思ったが、彼がゲーム売り場をどんな顔をして巡回するのかと興味が沸き、クリスマス前でにぎわう店内で、彼の姿を追い続けた。

 そして、本当の目的を知り、店から出る大きな背中を見送った久美子は、どうにも耐えられなくなって、会社にいるであろう赤池に電話していた。

「青木さん? どうしたんです。今日は食事当番で定時帰りでしたよね」

 はたして赤池はまだ仕事中で、静かな声が携帯の向こうに響いた。久美子にとって赤池は、かつて信楽への恋心を相談したことさえある、上司でありながら兄のような存在である。信楽より二歳年下だが、ふたりの子持ちになった彼はどっしりとして、上場会社重役の風格を得つつある。

「赤池さん、信楽さんが」

 声がつまった。涙が出そうだった。

「信楽さんが? どうかしましたか」

 こんなふうにセンチメンタルに泣くなぞ、自分らしくない。「社長の健康を守る会」会員として淡々と報告するのだ。久美子は自分を叱咤して目をしばたいた。

「信楽さんが、おもちゃを買ったんです」

「はあ。彼なら買うでしょうね」

「着せ替え人形です。小さな女の子向きの。それで、クリスマス用の包装に、ピンクのきれいなリボンをかけさせて」

 子煩悩な父親らしいうしろ姿を思い出して、さらに久美子は目をばちばちとしばたいた。とうとう涙が頬を伝ってしまった。銀座に続く大通りの歩道はきらびやかにライトアップされている。光の渦が目の中で揺らいでいた。

「亡くなった娘さんにってことですか」

 電話の向こうの赤池も絶句しているようだった。

「どうするのでしょう、あれ」

「うん……」

「もし、八嶋さんがいてくれるなら、それでいいんです。でも社長はひとりでしょう? ひとりの家にあんなもの持ち帰って、どうするっていうんですか」

 声が震えた。

「飾っておくだけですよ。今はもういなくても、何かを買ってしまう気持ち、わからなくもない。大丈夫、彼は強い人ですから」

「社長は、八嶋さんが帰ってくるのを五年でも十年でも待つと言いました」

「五年、十年……?!」

 それきり会話は途切れた。通話を切り、銀座に向かって歩き出した。凍らすような風が雑踏の間を吹き抜けていたが、ただむしょうに歩きたかった。



 プログラム部門のきれいどころ管理職、青木久美子に夕食をつきあってもらい、腹は一杯だし、数日考えていた目的もはたしたしで、信楽はいい気分で自分のマンションに着いた。夜九時。若いころならまだ仕事の真っ最中である。今はほぼ毎日定時に会社を出ている。とはいえ今日はアメリカ支店のクリスマスパーティーにネット回線で参加するため、朝の6時に出社したわけで、そんな時間外勤務が無いわけではない。

 彼女の姿を見ることはできなかったが、人々の視線の先に彼女を感じた。本当は彼女がウェブカメラの前に走り出てきて、笑いかけてくれるのではないかと、はかない期待を持っていた。会いたいわとささやいてくれないだろうか、と夢見ていた。実際には群衆に隠れて髪一本も拝めなかった。でも彼女はいる。この世界に。それだけでいい。自分に言い聞かせた。

 ふと目を上げると、マンションのエントランスに黒い影がはりついていた。信楽を認めるとずいっと近づいてくる。

 赤池耕介だ。

「よう」

 マンションの前で待ち伏せなんて、何の酔狂だ? 用があるなら携帯に連絡してくればいい。赤池は年に似合わぬ、はにかんだ笑みでコンビニの袋を持ち上げた。

「ちょっと、飲みませんか」

 相談事だろうか。ここ数年プライベートでは疎遠になった学生時代からの親友の、昔より額の広がった眼鏡顔をまじまじと見た。特に深刻そうでも、はたまた能天気そうでもない。相変わらず表情に乏しい男だ。

「ああ、いいよ、あがれよ」

 信楽のマンションはとまほーく本社のある高層ビルから歩いて五分、こぢんまりとした五階建てで、しかしごく普通のサラリーマンには手が出ない値段だけあって、各部屋が広いし、セキュリティがしっかりしている。

 赤池が来るのは、結婚の時以来だ。赤池のほうは、子どもが生まれてから一戸建てを買い、以前の新横浜から世田谷に引っ越した。新築祝いを贈っただけで、訪れたことはない。

「ただいま」

 ドアを開けるなり、大声で叫ぶと、赤池がぎょっとした顔でこちらを見るのに、頭をかいた。

「ああ、くせなんだ。誰もいないよ。ご存知のとおり。どこでも好きに座ってくれよ」

 リビングに通すと、赤池はさらにめずらしいものでも見るように、きょろきょろしている。

「なんだよ」

「いえ、ずいぶんきれいだなと思って。ほら、独身時代の信楽さんの部屋、アキバのラジカンの一角みたいだったから」

「ひでえ。ところでラジカンって、今でもあるのか?」

「ありますよ。私も最近行っていませんけど」

 ラジカンというのは、ラジオ会館の略で、電子部品だの工具だのを所狭しと押し込んで小売りしている店のことである。それでふたりはソファに座り、赤池が買ってきたビールを飲みながら、昔の秋葉原にこんなあやしい店があっただの、裏道のラーメン屋がまずかっただの、それはおまえの口が贅沢だからだだのという話で盛り上がった。

「信楽さん、あれ、何ですか?」

 酔っぱらった赤池が眼鏡の奥の目をとろんとさせながら指差したのは、帰ってきたときにリビングの端に置いた荷物だった。紙袋から赤い包みとリボンがのぞいている。

「ああ……」

 小さくうめいて、いっこうに悩みなど話しださない赤池の言動を考え合わせ、のけぞった。すかさず彼の鼻先に挑むがごとく顔を近づける。

「おまえもしかして」

「は?」

「俺が女でもひっぱりこんでいないか、偵察に来たんじゃないだろうな」

「い、いや、決してそういうことじゃ」

 図星なのか、しどろもどろである。もうひとつの可能性に行き当たって、さらに顔を近づけた。

「彼女から頼まれたのか?」

「か、かのじょって」

「おれの、奥さんだよ」

 ぶぜんとして言うと、赤池は信楽の胸を押しやり体を離してから、持っていたビールを一気飲みし、顔を近づけてきた。逆に胸倉をつかまれかねない勢いである。

「そんなふうに気にしているなら、どうして美紗緒さんをアメリカにやったままにしているんです。呼び戻せばいい。一緒に暮らせばいい。もう二年半だ。それでもまだ夫婦なんでしょう。みんなが事情を知っている日本より、アメリカのほうが仕事がやりやすいというのはわかります。でも、こんなふうに離れていて、仕事の話しかしないなんて、もう、終わっているとしか思えませんよ。子どもならまた作ればいいじゃないですか。でもこのままじゃ、それも望めません。ふたりはばらばらで、いつまでたってもひとり同士だ」

 信楽はぼうぜんと彼の赤い顔を見つめるしかなかった。赤池は誰もが信楽に言いかねない、しかし誰も言い出せないようなことを、とうとう口に出した。酒の力を借りてまで。夜中に人の家に押しかけてきてまで。それはありがたいことなのかもしれない。信楽は彼の言葉がどんなに胸に痛かったかを悟られないように、微笑をうかべて彼をおしやった。

「おまえは、どっちを心配しているんだ」

「え?」

「アメリカでひとり奮闘している彼女が心配なのか。やもめ暮らしをしている俺が心配なのか」

「どちらもです」

「どちらかといえば? 彼女を帰らせたいのは、どちらのためだ?」

「し、信楽さんです」

「なら、心配には及ばないよ。見ての通り、部屋はきちんとしているし、おかげさまでちゃんと食べているし、仕事は楽しいし」

 赤池は悲しい顔をして、ため息をつき、しばしソファにもたれた後、空になった缶をテーブルにきちんと並べた。

「帰ります。トイレ貸してください」

「その先を右だよ」

 しばらくして帰ってきた赤池の目は赤く、ずいぶん酔っているようだった。

「気をつけて帰れよ」

「はい。あ、ここでいいですから」

 エントランスまで送ろうとする信楽を、赤池は玄関で押しとどめた。

「赤池、毎日子どもが起きている時間に帰れるようにしろよ。後で後悔しないように。俺みたいなことなんて、滅多には無い。だがやっぱり。毎日子どもの顔を見ろよ」

「はい」

 柄にも無い説教を聞かされて、赤池は足早に帰っていった。

 友あり、遠方より来たる。また楽しからずや。

 あいつは遠方でもないか。ひとりつぶやく。

 妻あり、遠方より来たる。また楽しからずや。

 いつのことかな。暗い廊下にもたれて、目を閉じた。

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