第9話 あなたの夢は?
地下の貸会議室に二百人近い社員が集められていた。歩み入った美紗緒の姿に、つぶやきや隣同士と言葉を交わすざわめきが巻き起こる。前方に備えられたスタンドマイクに手を添え、不敵に微笑んだ。
「ああ、社長と別れた奥さんってこの人かって思ってらっしゃる?」
好奇の目を楽しむように言うと、あちこちで失笑が聞こえた。会場が静まるのを待ち、背中に鉄の板を入れたような態度で口を開く。
「おひさしぶりです。半数ほどの方には、はじめまして。先月までの三年二ヶ月、アメリカに駐在していた八嶋美紗緒と申します。この度、社長補佐という役職を拝命し、帰国いたしました。米国では、信楽イズムをいかに異国の子会社で貫くかに腐心してまいりました。幸いスタッフにめぐまれ、とまほーくアメリカを海外版の開発基地、また販売拠点として軌道に乗せることに成功いたしました。この度、新作ゲームに着手した信楽社長の仕事を軽減すべく、帰国した次第です。本社内におきましてもこれまで以上の貢献ができるものと確信しております」
熱弁ではない。淡々とした語り口で冷静さと真剣さをアピールする。
「また私は筆頭株主のひとりとなりました。今後は、とまほーく社の価値を高め、発展させるための提言もさせていただく所存です」
ゆっくりと社員たちの顔を見回した。大方がお手並み拝見といった懐疑的な様子である。最後に横に立つ信楽と目が合った。満足の中に愛情も混じったように見える瞳に受け止められ、視線を逃れて顔をひきしめた。
「今後ともよろしくお願いいたします」
柔らかな拍手が会議室を満たした。一歩退くと信楽が一歩踏み出す。
「言っておくが僕たちが離婚した元夫婦だからといって、犬猿の仲になったわけではない。僕の悪口を彼女に言えば、全部伝わるぞ」
くすくす笑いがまきおこった。
「では、解散。忙しいところ集まってくれてありがとう」
信楽に促され早々に退出する。
「いいスピーチだった」
「ありがとうございます。でも質問を受けたほうがよかったのじゃないかしら」
「これから、ひとりひとりの社員と話していくほうがいい。芸能人の離婚会見じゃないんだから、さらし者になる必要はない」
彼の気遣いに心の中でだけ礼を言った。
アメリカに飛んできた彼に慰留された時、あまりに胸が一杯になり、何もかも忘れて彼の手を握ってしまった。そしてあの夜、仕事を辞めて遠ざかろうとしても、他の男とデートしてみても、結局は反動で狂おしく彼を求めてしまうのだと思い知った。だから彼が提案したこの役職を受け入れた。事実として離婚し、他人になったのだし、とはいえ元夫婦なのだから、一度や二度の情事で愛だの恋だのと詰め寄られるわけでもない。なにより離婚しても彼のために働こうと決めていたのは自分だ。冷たい態度で揺らいだ弱さが口惜しい。
昨日帰国し、今朝一ヶ月ぶりに彼に会った。抱きつきたい衝動を抑え、そ知らぬ顔で挨拶を交わした。エレベーターで二人きりの今、鼓動が速まるのを気にしながら、背を向けて階数表示を眺めている。
「その髪、いいね。向こうで切ったのか」
さりげなく話しかけられ、どきりとした。気持ちを切り替えるために短くし、色も軽くしたのである。
「キューティーハニーが変身したみたいだ」
「えっ、変身すると髪型が変わるの?」
「知らないのか。最近映画にもなったんだぞ」
振り向くと楽しげな笑顔があり、ついつられて微笑んでしまった。
「うん。笑っても、勇ましく見えるぞ」
エレベーターが到着し、彼は足早に社長室に去った。よそよそしいような、気安いような、摩訶不思議な態度である。同僚に対するそれなのだと言えば、そうかもしれない。一ヶ月前の事などおくびにも出さない。彼にとっては単なる欲望の解消で、美紗緒もそうだったと解釈したのだろう。態度が変わったのは、仕事上ほんとうに美紗緒が必要だと気付いたからに違いない。そう割り切った。
美紗緒の机はオープンスペースの一角で、管理部の横。小林の机とパーティション一枚の隣同士だ。会議室から人々が戻ってきた。小林の席へ挨拶に行くと、彼女は十人ほどの部下たちに向き合った。
「みんな、これで信楽社長の放蕩に振り回される日々も終焉よ。八嶋さんは社長の代わりに何でもこなしてきた人ですからね。九時五時で帰れる日も近いわ」
スタッフから歓声が上がった。ひとりひとりを回って、自己紹介と仕事内容の確認を行い、小林の元に戻った。
「前向きに迎えていただき、ありがとうございました」
「本当に期待しているの。経営と開発の両方がわかる人は少ないもの」
小林は相変わらずきりりとして、厳しい顔つきだが、ふと優しく目尻を下げた。
「辛いことを乗り越えて素晴らしい仕事を成し遂げてきたこと、無駄ではなかったと思う日がきっと来るわ」
美紗緒より半年早く子を生み、育てながら仕事を続けている小林の言葉は、抱きしめられたように暖かかった。涙がこぼれそうになり、慌てて机に戻った。
信楽がアメリカに飛んできた日、同じように日本から飛んできたのだと言うコントラの社長、枝野に呼び出され、言われた。「おたくの会社は効率無視の職人集団だ」と。磐石な会社経営の下でのゲーム製作、資金力、流通力、そんなお説教が続き、コントラの傘下に入れば株の価値が倍になると締めくくった。
「枝野さん、貴重なお話をありがとうございました。ですが弊社には弊社の進むべき道があります。誰も進まぬその道をかきわけ進むことこそ、信楽の本望だと承知しております」
憤然と席を立つと、皮肉っぽい声が追ってきた。
「それほど入れ込んでいて、離婚したのは、彼が家庭人として足りなかったからかね」
「彼に足りないところなどありません」
拳を握り締め、うなった。
枝野を見返してやりたい。信楽に与えた数々の仕打ちの罪滅ぼしにも、それでも美紗緒を信じるという彼に報いるためにも、懸命に働きたい。
とはいえ用意された仕事は既に手に余るほど膨大である。午後にはオンラインゲームの問題で会議があり、早速同席した。
「つまりゲームは面白いけれども、六ヶ月で終了する計画には落胆する。面白いと思えば思うほど続ける意欲が失せる。そんなユーザーの声が多数寄せられています」
十人のプロジェクトチームのリーダー、要田が信楽に訴えた。美紗緒と同年代のこざっぱりした男である。
「いいダンジョンが集まればそれでお役御免のオンラインゲームですが、その後も宣伝用に運用を続けてはどうでしょうか」
「うむ。しかしだな」
信楽が話し出そうとするのを、末席にいた美紗緒は我慢ならずに遮った。
「ちょっとよろしい? 要田さん、資料はこのユーザーからのメールの抜粋だけ?」
「ええ、そうですけど」
「六ヶ月と決めた理由、それを反故にして続けるメリット、デメリット。運営コスト、必要人員、さらにこれまでの実績。続けない場合のユーザー対策。それらを明白にしなければ、この会議の意味がありません。早急に資料をまとめて私に見せてください。十分な内容なら、あらためて会議を招集しましょう」
まくしたてた美紗緒に全員がぽかんと見入った。
「よろしい?」
「ああ。そうしてもらえると、僕は助かる」
信楽は新鮮な何かを見つけた顔で頷き、さっさと立ち上がった。
「要田さん、一時間後にお席に伺います。資料をまとめるための相談をいたしましょう」
「は、はい!」
要田に丁寧な口調で提案してから立ち上がり、信楽について会議室を出た。
「勝手なことをして申し訳ありません」
「いや、彼らは俺が全て承知しているという前提で話してくるし、結局は俺の意見を通すことが多いから、ああいう会議になる。君が変えてくれると嬉しい」
「ええ」
我が意を得たりと頷くと、信楽はちらと微笑んだだけで社長室へ去った。一時間後、階下の開発部に行き、要田の机で膝をつきあわせて話し合うと、やはり皆が信楽の超人さに頼りきっている背景が浮かび上がった。
「どう? これで要田さん自身が結論を出せるか、社長に相談する前に他の検討をすべきだということがわかるのじゃなくて?」
「はあ。そうですね。とにかくやってみます」
同じ社内にいると信楽に全ての判断を任せたくなる。やる気を見せた彼に、ほっと息をついた。
「あのう、八嶋さん…… 開発部の有志が一度、一緒に飲みに行っていただけないか、と。あの、歓迎会みたいな?」
小ぶりなパーティションから立ち去ろうとした美紗緒を、要田が遠慮がちに引き止めた。さっきの会議中断もあるし、煙たい存在のはずなのに、と、尋ねる顔で彼を見た。
「八嶋さんはアヤナの人ってことで、僕らには有名なんです」
なるほど。つい失笑した。「妖精たちの配列」には今だ根強いファンがいるらしい。
「お誘いありがとう。でもご遠慮します」
にこりともせず断ると、要田は逆に安堵したようで、そうですか、と引き下がった。同僚と宴会に行き、明るくふるまうことなど、今だ美紗緒には「無理」である。信楽はどうしているのだろう。昔のように皆の中心になって騒ぐことがあるのだろうか。無理していなければいい。ふと心配になった。
「夕飯、つきあってくれ」
「はい」
午後八時になって時差ぼけの眠気が襲ってきたのもあり、帰り支度を始めたところへ信楽がやってきた。断ったらひとりで食べるのだろうと思うと、事務的に承知した。隣のオフィスビルにある日本料理屋に行き、信楽は定食を、美紗緒はそばをとった。
「もう少し食べろよ」
信楽がさしみの鉢を押してよこす。
「テオからメールがあって君に気遣えと言ってきた。引継ぎのために連日深夜まで働いていたそうだな」
「引継ぎ時間が短かったから、いろいろ書類にしてきたの。あとは松本さん次第ね」
「こっちの一日目はどうだった?」
「形になったら報告するわ」
信楽は美紗緒の顔を覗き込んだ。包み込むような視線だった。サングラスをしていない。そういえば一ヶ月前もしていなかった。
「俺の手を煩わせずに、形にしてから報告してくるというのが君の主義らしいが、話し合いながら進めてもいいじゃないか」
「でも……」
「君は俺に遠慮しすぎだ。何でも胸にためこんで、ひとりで解決するのが一番いいと思っている。俺と一緒に何かを成し遂げようという気はないのか」
仕事以外の何かを示唆されているような気がして、一瞬言葉を失ってしまった。思い過ごしだわ、と顔を上げる。
「もちろん、協力することは必要だけれど、一緒に同じことをする余裕は無いでしょう」
「ああ、それはそうなんだが」
信楽は諦め顔でつぶやきながら、左手をすっとのばし、美紗緒の耳にかかった短い髪に指を差し入れた。てのひらが頬を覆い、暖かで柔らかな感触に息を止めた。彼に触れられることはあまりに自然で、心地よく、触れられたとたんに拒む気力も理性も消えうせてしまう。思わずその手のひらに頬を載せ、目を細めてしまう。
「俺は今でも……」
信楽の言葉に、体がこわばった。何を言い出すつもり? 信楽は美紗緒の顔色を読んで動きを止め、手を引いた。
「すまん。そばがのびるな。早く食おう」
信楽は茶碗を持ち上げ、料理を口に運び始めた。何を言いかけたの? 問いただすことができなかった。料理屋を出て歩き始めると、会社の前を通り過ぎて信楽がついてくる。
「仕事は?」
「もう終わりだ」
今年は七月も暑かったというが、八月の日本は夜になっても蒸し器に入ったように暑い。暑さからも、信楽からも逃げるように歩いたが、いつまでたっても横をついてきて、結局美紗緒が泊まっている駅前の大型ホテルに着いてしまった。
「送ってくださったの?」
「いや、俺もここに泊まっているんだ」
言いながら、先導するように入り口を抜ける。ボーイが見知った笑顔で、おかえりなさいませ、とあいさつした。彼の手招きで待合のソファーに隣り合って座った。体が近づき、まわりの喧騒にも関わらずふたりきりになったように空気がはりつめた。
「マンションは売ったんだ。悪かったな。君の家でもあったのに」
荷物を運び出し、ひどい仕打ちをしたのは美紗緒なのだから、彼の謝罪はあてこすりでしかありえない。だが、声音は真剣だった。申し訳なさで胸が痛くなる。
「かまわないわ。私は戻る気がなかったもの。それであなたは今どこに住んでいるの? どうして今日はここに?」
「うーん、住んでいるというか、放浪しているというか」
「放浪……?」
「心配しないでくれ。家財道具は
罪悪感で一杯になった。私が結未の部屋を消したせいだわ。彼はあのマンションで心の平安を取り戻していたのに。全てを捨てさせてしまった。信楽はそっと美紗緒の肩に手を乗せた。その暖かさと重さにどきりとする。
「好きでやっていることだ。仕事に集中できるし、原稿も進む。シナリオが仕上がったら、もう少しましな生活を考えるよ」
ここで謝ったら、嘘がほころぶ。心に鞭打って関心の無いふりをした。
「あら、そうなの。お好きになさって」
「もうひとつ謝っておきたいことがある」
「え?」
「結未の事故の後、君が仕事に復帰する前あたりまで、俺は自分がどんな行動をとっていたのか、記憶に無いんだ。あの頃に考えた事や、感じたことは、真の闇に閉じ込められたようだったとしか、言い表せない。俺の行動が君を傷つけた事、何より、君を気遣えなかった事。申し訳なかったと思っている」
呪文をかけられたように動けなくなった。謝ってもらういわれなんてない。謝られることがひどく辛い。ようやく息だけして、乱れる心を無理矢理立ち起こそうともがいた。
「仕方がないわ。あなたは私より繊細だもの」
すると信楽は意表をつかれた顔をし、続いて笑い出した。
「確かに! 俺は君より繊細だな! ああ可笑しい。そんなことを言うのは君くらいだ」
信楽の手は肩から頬に移動し、こわばった顔をいたわるように親指でなでた。
「だが図太くて逞しいところもあるんだ。これからは、仕事でもプライベートでも、俺に助けて欲しい事があれば、何でも言ってくれ」
「大丈夫。アメリカでもひとりだったのだし」
「わかっている。いざという時の話だ」
彼に触れられている頬が熱く、さっきの血の引くような動揺から、高揚へと変わっていった。それを感じ取ったのだろうか。彼の指があごの上で止まった。キスされるかと思った。そうされたら見境なく彼の首にしがみついて求め返してしまいそうだった。
こんな場所で?
その躊躇が伝わったように、信楽は顔を近づけ、ささやいた。
「部屋に行こう」
「えっ?」
美紗緒のバッグを持って立ち上がった。それを追ってエレベーターホールにたどり着く。
「何階だ?」
「部屋って私の部屋? だめよ」
「そうか、なら俺の部屋にしよう」
信楽がエレベーターに乗ってしまい、慌てて後に続いた。他に二人の客がいる。押し問答するわけにいかず、三十一階で降りた信楽について降り、はじめて厳しい声を出した。
「バッグを返して。お部屋には行きません」
「君ともっと話したいんだ。それだけだ」
穏やかな口調で言われバッグを返されて、自分だけが一ヶ月前の二の舞を想像しているようで、恥ずかしくなる。
「でも、今日は疲れたの。もう寝たいわ」
「わかるよ。風呂に入ってのんびりするといい。こっちの風呂の方が広い。たぶん」
腰に手がまわり、優しく押された。とたんにもたれかかりたいような体の反応があり、促されるままに廊下を歩いてしまう。彼が部屋のドアを開け、中に押し込まれた。
「君の部屋から荷物を取ってくるから、勝手に風呂を使ってくれ」
いつのまにやら彼の手に美紗緒のカードキーが握られていた。確かに彼なら美紗緒が鍵をバッグのどこに入れるか知っている。抗議する間もなく部屋に取り残された。強引さを口の中でののしりながら、いくばくかの興味のせいで、バスルームのドアが開く短い廊下を数歩進むと、目の前の大きな窓にきらびやかな東京の夜景が広がっていた。
明かりをつけた。美紗緒のシングルの倍はありそうなツインルームで、ふたつのベッドのうち、ひとつには仕事の書類がところ狭しと並べられていた。部屋の隅に二つのスーツケースがあり、クリーニングの済んだ服が数枚壁にかかっている。
本当にホテルに住むような生活をしているのね。そして昼夜無く働いている。改めて罪悪感がぶり返す。いいわ、話したいというのなら、話すわ。
さすがに風呂は躊躇して、ベッドの上の書類を漫然とながめた。半分は経営書類だったが、あと半分に目を引き寄せられる。(ジェイドよ……)主人公の悩ましい叫びをつづったサウザンドトゥームスのシナリオであった。紙一枚に一遍が書かれ、文章のまわりに迷宮のアイデアがびっしりとメモされ、それが百枚ごとの山をなし、すでに山は六つ目にさしかかっている。社長業と同時にこなしている膨大な作業を目の当たりにして、焦燥にとらわれずにはおられなかった。
そうだ、仕事の話を始めればいい。バッグを窓際のソファーに置き、バスルームに飛び込んだ。シャワーを浴び終わる間際に信楽が戻ってきた。
「君の部屋、別館じゃないか。ああ遠かった」
楽しそうに不平を言っている。
「私はこんな豪華な部屋に泊まれないわ」
シャワーカーテンを開けると、バスルームの戸口に信楽が立っていた。気にしないふりで、横柄に手を突き出した。
「バスタオル、取ってくださる?」
受け取ってカーテンを閉め、タオルを体に巻きつけた。洗面で信楽が手を洗う音がする。
「マンションを売った金でこの部屋に何泊できるか計算したんだ」
「何泊なの?」
「九年だ。結構長いだろ」
飄々とした言い草に呆れた。堂々とバスルームを出てベッドの横に置かれたスーツケースに手を伸ばすと、後ろから肩を掴まれた。
「何か着る前に、横になれ」
「えっ?」
ベッドに導かれ、うつぶせに寝かせられる。
「肩をもんでやる」
声を出す間もなく、彼の力強い指に首と肩を掴まれ、思わずため息をついた。彼が尻の両脇にひざをつき、背中に覆いかぶさっている圧倒的な気配に全身の皮膚がちりちりする。
「凝っているな。今日は緊張したんだろう」
「あの…… 気持ちいいけど、これじゃ話ができないわ。私も言いたいことが……」
「いいよ。このまま話せよ」
しどけない声を出してしまいそうなほど気持ちがいい。話に集中しようと目をつむった。
「あなたは…… 社員を育てるということをどう思っているの?」
「ああ。今日の会議のことか」
「特にリーダー級の人がプレゼン書類ひとつ満足に作れないというのは問題よ」
「本質的に必要ないものは強要したくない」
「うちの社内では良くても、外に出たとき困るでしょう」
「うちの会社は職業訓練学校じゃない」
きっぱりした言い方に、目を開き、横目で彼を見上げた。
「これは俺と君だけの秘密にして欲しいんだが…… 俺はうちの会社で、商品を作っているつもりはない。作品を作っているんだ」
はっと息を呑んだ。
「商用ゲームでそんなことを考えている経営者はいない。公言したら頭を疑われ、株主からは抗議の嵐をくらうだろう。だが、ゲームでも、芸術家が作品を創るように、売ることではなく作品の質を求めるような作り方があっていいはずだ。前面にうたっていなくとも、うちの社員たちはそういう姿勢を慕って集まってきていると思う。だから、うちの会社でプレゼン能力が身につかなかったら、諦めてもらおう。それより俺の作品に参加したという充実感こそ社員が得るべきものだ。そのためにこそ、俺は努力したい」
わかっていたはずなのに、彼の口から聞くことに、深い感動があった。
「言わなくても、君はわかっていたろう」
「ええ。秘密だなんて知らなかったわ」
「公言して戦うか、普通の経営者のふりをして、好きにするか。楽なほうを選んだんだ」
「いいえ。決して楽じゃないはずよ」
「まあね……」
心も体もすっかり信楽に掴まれたようで、吐息と共に目を閉じた。すると落ち込むような眠気が襲ってきた。
「ああ…… だめ。ここで寝てしまう……わ」
無理やり体を起こそうとして、信楽に腰を押さえ付けられた。
「寝ていけよ。何のために荷物を運んできたと思っている」
「でも……」
信楽はヘッドボードについたスイッチで部屋の明かりを落とし、美紗緒の背をゆっくりなでた。睡眠薬を飲んだように、抗いがたい眠気に体の自由がきかなくなる。
「もう……ひとつだけ、聞かせて」
「うん?」
「あなたの…… 夢は…… なに?」
彼は長く沈黙し、美紗緒を眠りへと誘った。最後に何か言ったが、それは夢の奥底に落ち込んでいった。
翌朝、時計のベルで目を覚ました。目の前に書類が広がった異様なベッドを認めて、がばっと起き上がる。信楽の部屋で寝てしまったのだ。それも素っ裸に毛布をかけられて。
「ああっ、もう、あなたってば!」
すかさず文句を言おうとして、彼の姿が無いことに気付いた。隣のベッドを使った形跡も、同じベッドにいた形跡もない。バスルームから音もしない。時計は八時だ。カーテンの隙間からレーザー光線のような強い夏の光が差し込んでいる。信楽はろくに寝ず、美紗緒を置いて仕事に行ったのだ。憤慨してベッドから飛び降りたところで、バッグの中の携帯が鳴った。
「俺だ」
「何で起こしてくださらなかったの!」
「説明してもいいが、ここに重役連が集まっている。なるべく早く出社してくれ。テオが一ヶ月後に辞めたいと言ってきた。ヘッドハンディングされた。これから対策を話し合う」
テオ、どうして今なの? 取るものもとりあえず走るように会社へ向かいながら、怒りと悲しみが胸の中で渦巻いた。レンを始め美紗緒の帰国を惜しんでくれた同僚たちの顔が次々に浮かぶ。彼らを混乱に陥れたくない。見捨てられたと思わせたくも無い。本当はテオが今辞める理由に心当たりがある。彼は適材適所ではなかった。美紗緒が去り、右肩上がりの業績を携えたまま転職できるチャンスは今だと判断したのだ。なにより五年目。アメリカの管理職がひとところに留まる限界にきている。
「遅れて申し訳ありません」
目覚めて半時間で、社長室に飛び込んだ。身だしなみに自信はなかったが、急遽呼び出されたらしい後藤、小林、赤池らも、どこかしら慌てて出社したようないでたちである。小林の隣、信楽から離れた位置に席を取った。
「君が一番近いから、最後に声をかけたんだ」
信楽が涼しい顔で言うのを、睨みつけた。
「もう案は出たのですか」
「また人を雇うしかない、としかね。君が一番事情を知っている。意見を聞かせてくれ」
「対案が三つあります。一つ目の案。私が戻って支社長になる」
きっぱり言った美紗緒に、皆の耳目が集まった。信楽も驚愕を示した。
「できると思うが、それではこちらは……」
「はい。社長のお仕事が早晩パンクするでしょう。あるいは新作が何年も遅れるか。ですが、支社長となるとリクルートも大変です。今、この時期に社長が動けば、やはり新作の遅れにつながります」
「わしは外人を見る目が無いしなあ」
後藤が頭を抱えて弱音を吐いた。
「二つ目の案は?」
「支社長を置かず、日本から管理する」
「八嶋さんがいない今、それも信楽の負担が増えるわね」
小林が眉をひそめた。
「三つ目は?」
先を急ぐ旅人のように、信楽が促した。
つばを飲みこみ、信楽の顔を見る。愛しさにくじけそうになる。株を譲渡された時から念頭にあった。信楽との精神的な関係を断ち切る意味でも、本当の意味で信楽を助け、とまほーくの発展を追求する意味でも、この提案をすべきだと。しかしこれほど早くその切り札を使う日が来ようとは。
「不遜ながら、この会社の筆頭株主として提案させていただきますが、よろしいですか?」
「ああ」
「米国の人事もままならない現状は、経営と開発の権限が信楽社長に集中し、すでに業務に支障をきたすほどに飽和していることが引き起こす危機的状況と考えます。信楽社長は、社長を退陣し、開発に専念すべきです」
全員が目をむいた。そして信楽に視線が集中した。ショックを隠せない信楽は、美紗緒の顔をじっと見たまま微動だにしない。彼の席が、急に遠ざかったように感じた。
ひるむまい。信楽から目をそらさなかった。
「それで? 社長はだれが? 君か?」
「いいえ。私には経験も知識もありません。新社長には、小林管理部長が適任と考えます。私はこのまま社長補佐を続けます」
「なんで後藤さんじゃなく、小林なんだ」
率直な問いに、毅然と後藤に目をやった。
「後藤さんには、もっと営業部の部下を育てていただかないと、営業を抜けるのは難しいと思います。アメリカの営業部との連携も道半ばです。それに対し、小林さんの部下は十分現在のお仕事をカバーできます。さらに堅実な経営を保ちながら、信楽さんの開発を尊重できます」
後藤は甘んじて受け入れるといように一度頷いた。そこで赤池が横から怒りの形相で机を叩いた。
「ありえません。とまほーくの社長は信楽さんしかありえない。この会社を作り、大きくしてきたのは信楽さんですよ」
「赤池さんの思い入れはわかります。ですが深刻な問題がもうひとつあります。開発における人材育成です。技術面なら、赤池部長が責任をお持ちです。ですがゲームクリエイターという意味ではいかがですか。信楽さんが見つけてこられた坂巻さんが唯一で、それ以降ぱったり止まっている。社内、社外を問わず新しいクリエイターを発掘しなければ、会社の発展はありえません。信楽さんが開発のトップに降りれば、その時間が作れます」
社長室が静まり返った。皆が気付きながらも公言できなかった難題に違いなかった。
「で、アメリカのほうは新社長と君で何とかしようというわけだ」
信楽が静寂を破り、赤池が割り込んだ。
「八嶋さん、なぜです。離婚して株を得て、元夫を社長から追い落とす、どうしてそこまでビジネスに徹しないとならないんです」
「離婚したのは心が冷めたから。ビジネスに徹しているのは、これがビジネスだからです」
淡々と答えた。
信楽は眉をしかめて腕を組み、机の上の一点を見つめていたが、ふと顔を上げると小林に聞いた。
「小林は、どうだ?」
「報酬次第ね」
「今の三倍」
「二倍でいいわ。あとは成功報酬で、純利益の〇、五%」
「そりゃ今の俺より上じゃないか」
「新作が発売されて当たればの話じゃない」
「わかった。八嶋、それでいいか」
「は? はい……」
まるでもう決まったかのような二人の会話にぼう然とした。断崖絶壁から飛び降りたら、ふんわりとした雲に受け止められたような具合である。けれど、その雲の中は濃霧のごとく先の見えぬ不安を感じる。
信楽が美紗緒を心配げに見た。まるで立場が逆だ。その時、昨日眠りに落ちる直前、信楽が口にした言葉が、ふいに記憶の底から浮かび上がってきた。
「俺の夢は君に出会った時にかなった。だから今の俺の夢は、君の夢をかなえることだ」
だとしたら私はどうしたらいいの……
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