第717話 「誤嚥窒息」って怖いんやけど…。

今の職場では、常勤医の勤務時間は原則9:00~17:00、当直医の勤務時間は18:00~翌8:00、となっている。なので、午前に1時間、午後に1時間隙間が空いている。病院には必ず医師が在院していないといけないので、それぞれの1時間をどうするか、ということが決まっている。午前の1時間を担当するのは「早出」担当の常勤医師であり、午後の1時間は「居残り」担当の常勤医である。早出医師は勤務時間が1時間前倒しとなるので、特に手当は付かないが、「居残り」医師も9時出勤なので、「居残り」医師は1時間分の残業手当がつく。


私はいつも、7時に出勤して、朝の回診を終えてから、9時からのduty workを行なうので、早出医師は原則「私」である。


今朝もいつも通り出勤して、いつも通りの回診をして、医局に戻っていた。8:30頃だろうか、外来処置室から電話がかかってきた。


「保谷先生、まだ『早出医師』の対応時間なので電話をしたのですが、施設入所中の訪問診療を行なっている患者さんが、朝ご飯をのどに詰めたそうなのです。今は詰まりも取れたみたいで落ち着いているようですが、今から救急車で診てもらいたい、と施設から電話がありました。診てもらえますか?」


とのこと。上層部からは、「訪問診療中の方は、よほどのことがなければ診察を受け入れること」という「暗黙」の指示が出ているので、断ることは難しい。


「え~っと、うちから訪問診療に行ってる人ですよね。そしたら、受け入れないとしょうがないですよね。OKです。来てもらってください」


と連絡をくれた看護師さんに伝え、その足で外来に向かった。


当院では救急車で搬送された患者さんは外来処置室に運ばれる。外来処置室に向かうと、連絡をくださった看護部の外来主任さんが一人だけだった。外来受付は8:30から始まり、診察前に血液検査や尿検査を受ける人もおられるので、到底一人では回しきれない。


「先生、数分で救急車到着とのことです」

「あれ?主任さん一人だけですか?(一般職員は8:30~16:30が勤務時間)」

「今日のナースはみんな9時出勤で、それまで私だけなんです」


何とびっくり。いくら「落ち着いていそう」とはいえ、誤嚥窒息の患者さんである。状況が分からないので何とも言えないが、下手をすれば、再度窒息、ということもなくはない。そのような患者さんをこのような体制で診なければならないのか?人員不足ここに極まれり、という言葉がぴったりである。


丁度通常外来の受付が始まった直後である、普段なら、患者さんは受付を済ませて、診察前に採血や検尿を採取されている時間なのである。患者さんが「救急車が来るから、処置室はバタバタ」なんてことは分からない。何人もの患者さんが処置室に顔を出して、「検尿のコップちょうだい」「いつもの採血取ってほしいんやけど」と言ってくる。


「ごめんなさい。いまから重症の患者さんが救急車で来るので、待っててもらえますか?」


と主任さんは謝りながら、救急車受け入れの準備をされる。


修業した病院は電子カルテ、前職場は紙カルテであったが、患者さんが到着前に患者さんのカルテが用意されており、患者さんの到着前に、各種検査や点滴の指示を出すことができた。ところが、当院では、患者さんが到着するまでカルテが出てこない。なので、指示が出せないのである。しかも、受付は診察希望の患者さんでてんてこ舞い状態である。


なので、用紙を作成する前に「患者さんが来たら、点滴は酢酸化リンゲル液で、血液検査は院内緊急セットと動脈血液ガス分析、これは僕が取ります。あと、胸部CTを撮影します」と口頭で指示を出した。


遠くから救急車の音が聞こえたが、そのあと、なかなか患者さんが来ない。ヤキモキしているとようやく救急隊が患者さんを運んできてくれた。患者さんは事前情報通り、あまりしんどそうにはしていない。隊員の方と主任さんで患者さんを救急車のストレッチャーから処置室のストレッチャーに移動している間に、救急隊長から引継ぎを受けた。


「施設で朝食中に菓子パンを食べていたところ、のどに詰まらせて苦しんでいたそうです。施設の人が、患者さんを立たせて、胸とおなかを圧迫すると(Heimlich法)、詰まりは取れたそうですが、詰まっていたものは吐き出しておらず、どこに行ったのかは不明です。


救急隊到着時はSpO2は95%でしたが、救急車内に搬入するとSpO2が80%台に下がっていたので、酸素4L/分を開始しました。意識は清明で、血圧は安定しています」とのこと。


患者さんにも話を聞いた。意思疎通には問題なし。


「菓子パンを食べてたら、のどに詰めたんですわ。ちょっとそのあとは記憶がはっきりしてなくて、施設の人のおかげて詰まりが取れたけど、詰まりを「飲み込んだ」のかどうか、覚えていません。」とのことだった。


「いったん酸素を止めてください。SpO2の変化を診ていきます」と伝え、酸素投与を止めてもらった。患者さんは、「酸素がないと、ちょっと息苦しいですね」とおっしゃられた。


パルスオキシメータを見ていると、酸素投与下で96%だったのが徐々に低下してきた。やはりこれはおかしい。SpO2 89%となったところで、動脈血を採取。右大腿動脈から血液ガス検査と一般採血用の検体を取った。


動脈穿刺をした後は、速やかに穿刺部の圧迫止血をしないと、皮下血腫を作ったり、最悪の場合は仮性動脈瘤を作るので、速やかな圧迫止血が必須である。循環器内科で教えてもらったのか、心臓血管外科の先生に教えてもらったのか、記憶が定かではないが、最初の2分半程度は、血圧に負けない程度に強く、その次の2分半は、血腫の増大がないことを感じながら、指で動脈に触れ、拍動をしっかり感じる程度の圧力に軽減して、5分間の圧迫を行なうこと、と指導を受けたことを覚えている。大腿動脈穿刺後の止血については、常にこの指導を守っているが、そうすると5分間は身動きが取れない。


点滴路を確保してくださった主任さんに、「検体取りました。検査室にお願いします。酸素はカヌラ 2Lで開始してください」と指示した。ちょうどそのころになると、看護師さんも次々出勤されてきて、人も増えてきた。訪問診療の主治医も出勤されてきた(その日は先生の外来担当日)ので、外来にお見えになられたところで申し送り。初期評価を行なった時点で、引き継ぐ、ということとなった。


大腿動脈の止血を確認し、ようやく私自身がフリーとなったので、各種検査の指示、カルテへの記載を行ない、カルテの記載を行なった。


身体診察を行なうと、なんとなく、左下肺野の肺胞呼吸音が弱い印象があった。気管支の分岐に関する解剖上の特性(右主気管支の方が、左主気管支より角度なく下方に伸びていく)、異物誤嚥、異物閉塞は右に起きることが圧倒的に多い。特に成人はそうである。なので、左下肺野の肺胞呼吸音減弱については「あれっ?」と思った。しかし、確かに左下肺野の呼吸音は減弱しているように聞こえていた。


O2 カヌラ 2L/分でSpO2 95%に改善していた。「酸素を止めるとSpO2が下がる。酸素を投与するとSpO2が上昇する」ということも重要な所見である。SpO2の値は、末梢血管の収縮(手が冷たい)などで影響を受けるのだが、酸素投与の有無と連動して数値が動いている、ということはその値が、「他の要因の影響」による「誤差」ではなく、明らかに酸素の取り込み機能が低下していることを表しているのである。


主治医の先生から、「初期評価してくださったら、後は診ますよ」と言ってくださっているので、身体所見を書いた後は、私が指示した胸部単純CTを確認することにした。


残念ながらこの日は、外来診察室が3室とも使用しているので、診察室での画像確認ができない。なので、直接放射線科に足を運んで、CTの画像を見に行くことにした。ちょうど患者さんもレントゲン室に向かったところであった。


レントゲン室に入ると、ちょうど胸部CTを撮影し終えたところであった。WorkstationがCT画像を構成するのをしばらく待ち、再構成された画像を確認していった。


「ありゃりゃ、やっぱり詰まっているわ」と思わず口に出してしまった。左主気管支の分岐部近位に、気道を閉塞しない程度のφ7mm程度のmassがあることが分かった。


病歴、身体所見、検査結果が一致した。おそらく菓子パンの誤嚥で喉頭けいれんを起こし、気道閉塞が起きたのだろう。患者さんが窒息し、Heimlich法を行ない、喉頭の変なところに引っかかっていたパンの塊が、その時に気管内に落下したのだろう。普通は、気管内に落下すれば、右主気管支に落ちていくはずなのだが、なぜ左主気管支にものが入っていったのか、その理由は分からない。モノは左主気管支を完全閉塞させているわけではないので、状態は悪くないが、左肺への流量制限はかかっているのだろうか、それで酸素飽和度の低下が起きているのだろう。


嚥下機能の低下している方で、「パンをのどに詰めた」という理由で心肺停止となり、救急搬送された、という方を修業時代に何例か経験している。気管支異物としては、子どもであればピーナッツや豆類、おもちゃの小さなパーツ、発達障害のある方では時にコインなどが見られることもある。嚥下機能の低下している方では「パン」は鬼門である。


私の経験した症例では、患者さんは脳血管障害の既往がある60代の男性であったと記憶している。日常生活にはあまり支障はないが、若干の嚥下困難があり、ご本人は「朝はパン!」という方だったそうで、いつも奥様が、パンを小さくちぎって、ご主人の口に入れていたそうである。たまたま、「あっ!ちょっと大きかったかも」と思った塊を、いつもの流れのまま、思わず口に入れてしまい、奥様の懸念したとおり、誤嚥窒息→心肺停止となり、搬送されてきた患者さんだった。救急隊でBLSを行なわれながら搬送され、当院でACLSを行ない、心拍は比較的すぐに再開されたと記憶している。


パンの誤嚥窒息はかなり厄介である。というのも、例えばピーナッツやおもちゃのパーツ、コインなどであれば、誤嚥したからと言って、短時間で柔らかくなったり、ボロボロになったりするわけではないのだが、パンは気管内の水分を吸収して、すぐにつかみにくく、モロモロと崩れてしまうのである。飲み込んだ直後は硬さがあり、気道を閉塞するが、心拍再開後に異物回収をしようとしても、きわめて回収が難しのである。モロモロになる、とはいえ、気管支鏡で吸引するには断片は大きくて吸引孔を閉鎖するし、吸引チューブを使っても、スッキリとはいかない。


それはさておき、左主気管支に異物があることが確認できた。


主治医の先生に、「パンと思われる異物が左主気管支にありました」と報告。「わかりました。先生、後はこちらで診ます」と言っていただき、私の出番は終了となった。


その日の夕方、先生に確認すると、すぐに大学病院に調整をかけ、気管支鏡を依頼。「異物の有無」については処置すべきものは大学で処置するが、その後の入院管理は当院で行なう、ということで受け入れてもらったそうだ。患者さんが大学病院に出発されたのはお昼前だったそうだが、大学で気管支鏡を行なったが、異物は確認できなかった、とのことであったそうだ。


誤嚥したのが午前8時、気管支鏡を行なったのが12時であれば、その時間の間に、パンは崩れ去ってしまっていたのであろう。あとは続発する「誤嚥性肺炎」管理である。それは当院でもできることである。


そんなこんなで、朝一番から大慌てであった話である。

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