第713話 「健康診断・標準値の大ウソ」という記事の「大ウソ」

何か、いつも揚げ足取りみたいな形になって、書いている私も「モヤモヤ」してしまうのだが、ある程度影響力のある医師が、いい加減なことを書いているのを見るとやはり、いかがなものかと思ってしまい、ついついツッコミを入れてしまいたくなってしまう。


ソースはPRESIDENT Online、Yahooニュースより。


<以下、見出しの引用>


糖尿病の指標「HbA1c 6%遵守」は犠牲者を生むだけ…医師・和田秀樹が警鐘を鳴らす"健康診断・標準値の大ウソ"


<引用ここまで>


糖尿病のコントロールは基本的にHbA1cを指標にしているので、糖尿病患者さんがこの表題を見たら、びっくり仰天してしまうだろう。本文を読めば、もう少しまともなことが書いているのだが、おそらく医学的知識のない編集者が表題をつけたのだろう。インパクトはあるが、インパクトがあればそれでいいのだろうか?PRESIDENTを読む人は、中年層がボリュームゾーンだろうと思うのだが、その年齢層の方は、ほとんどの場合、「HbA1cは6%台」に維持するのが適切であろう。という点で、まずこの表題が、いわば患者さんの命を削る表題である。氏の本文を読んでも、この表題は「言い過ぎ」である。


<以下引用>

健康診断の数値とはどう向き合うべきか。医師の和田秀樹さんは「糖尿病の状態を示すHbA1c(ヘモグロビンエーワンシー)の基準値は長年6パーセントとされてきたが、2008年の大規模調査では7~7.9パーセントくらいに保ったほうがはるかに死亡率が低いという報告があった。ところが、糖尿病学会はこの5年後の2013年に初めて条件付きで新基準を採用した。日本はエビデンスより偉い医者たちの意見のほうが勝ってしまう恐ろしい国だから、ストレスになる健康診断は受けなくていい」という。


<引用ここまで>


導入部の文章からミスリードである。本文を読むと分かることだが、「血糖値を厳格に管理した方が生命予後がよいのではないか」という意図で行われたACCORD試験で、「標準コントロール群(HbA1c 7.0~7.9%)」と「強化コントロール群(HbA1c <6.0%)」を比較したところ、「強化コントロール群」で有意に死亡率が上昇した、という結果がある。繰り返しになるが、「強化コントロール群」ではHbA1cは6.0未満を目標としたのである。かなり厳しいコントロールであることには違いない。


引用した文章ではいい加減な「言い換え」がされている。


「2008年の大規模調査では7~7.9パーセントくらいに保ったほうがはるかに死亡率が低いという報告があった。」


というところである。ACCORD試験では、「強化コントロール群」は「標準コントロール群」に比べて死亡率が高かった、というのが結果であって、「7~7.9%くらいに保った方がはるかに死亡率が低い」という結果ではない。


高校1年生の数学で学習することであるが、非常に多くの人が忘れている、あるいは勘違いしていることである。こんなことを言うと「理系の人々」と言われそうであるが、非常に大切なことなので、ここに記載する。


命題「AならばBである」というものが存在するときに、「AでなければBではない」という記述を「裏」、「BならばAである」という記述を「逆」、「BでなければAではない」という記述を「対偶」という。ここで、命題「AならばBである」が正しい場合、この3つの中で、常に正しいのは「対偶」だけである。「裏」も「逆」も「正しいとは言えない」のである。


日常生活でも、例えば夫婦の会話から口論になるとき、「どうせ私は○○じゃないわよ!」などと、何気ない一言が逆鱗に触れることも経験するかと思うが、これは、「××さんは○○だ」という発言に対しての反応と推測され、その命題の「裏」となっている。命題が正しいから、「裏」も正しい、という論理の誤謬に気づいていない反応である(いや、しかしこういうトラブル、多いのよ(泣))。


ACCORD試験での命題は「強化コントロール群は死亡率が高かった」ということであり、「標準コントロール群は死亡率が低い」ということは、「裏」である。なので、上記の記載は「真」ではない。「逆」「裏」「対偶」の話を知らずに言い換えていれば、序文を書いた編集者は「高校1年生の数学」を理解していない不勉強者であり(名の通った出版社で仕事をしているのだから、高学歴だろうに?)、理解していて、あの表現なら極めて「悪質な印象操作」である。


ACCORD試験の結果が2008年、となっている。私は2004年に医師になり、研修医としてのトレーニングを受けたが、ACCORD試験の出る前から、高齢者の診療を数多く行っている医師は、その結果を予測しているような医療を行なっていた。


私の師匠は糖尿病を専門としていない医師だが、私が初期~後期研修医であったころに、ERに搬送された低血糖患者さんへの対応などで、非常に示唆的な指導をしていただいたことを覚えている。


「保谷先生、糖尿病の方が血糖コントロールをするのは何のため?10~20年後の血管障害(腎障害、神経障害、網膜障害、冠動脈狭窄、脳動脈狭窄など)を予防するためでしょ。この患者さん、いま80代でしょ。血糖のコントロールをいくら頑張っても、年齢的に20年後には亡くなってる可能性が高いよね。だから、高齢者に「厳格な血糖コントロールは不要」と私は思っています。これはいつも糖尿病専門の先生と衝突するところだけど、高齢者にとっては高血糖よりも、低血糖の方が危険だから、「高血糖による入院」を避けることができる程度のコントロールでいいと思っています」


という指導だった。ACCORD試験、その後の糖尿病学会の血糖コントロール目標設定の変遷を考えると、2004年の時点で、師匠の「高齢者に対する血糖コントロール」の認識の正しさに驚くばかりである。わかっている人はわかっていたのである。


<以下引用>

 かつて人間ドック学会が、血圧は収縮期(最大)血圧を147mmHg、拡張期(最小)血圧を94mmHgを高血圧の基準にするという基準案を出したことがあります。


これは彼らの150万人にもおよぶ調査データに基づくものですから、エビデンスに近いものです。


ところが途端に循環器内科や高血圧学会の偉い医者たちが「それでは、将来の心血管疾患や脳卒中、腎臓病の発症予防にならない」と激しく、その基準案を叩きました。


結局のところ、人間ドック学会は、収縮期血圧を130mmHg以上で軽度以上というように逆に基準を厳しくしてしまいました。


本書でこれまでも論じてきたように、高血圧学会も循環器の学会も大規模比較調査をしていないのです。


日本はエビデンスより偉い医者たちの意見のほうが勝ってしまうという、わたしにいわせれば恐ろしい国なのです。


<引用ここまで>


ここからは和田氏の文章だが、論理のすり替えや論文の不十分な理解が至る所にみられる。


「人間ドック学会が「健康な人」の血圧の平均値は収縮期(最大)血圧が147mmHg、拡張期(最小)血圧が94mmHg」(ここで本文は微妙に表現をすり替えている)、と発表したのは事実である。ここで「健康」とは、自覚症状がなく、血圧以外の項目に異常を認めない人と定義されており、約150万人のデータから算出した「平均値」である。認識として大切なことは、この値は「今」といういわば瞬間で「健康」な人であり、今後の疾病リスクなどは考慮されていない、ということである。


以前も和田氏は「高血圧学会や循環器病学会は大規模臨床試験を行なっていない」と述べていたが、現行の高血圧ガイドラインは日本国内での、10万人以上の大規模臨床試験を基に作成されており、その主眼は「今後の血管障害疾患の予防」と「将来の疾病予防」を意図したものである。


人間ドック学会のデータが「得られた検査データの平均」という形で表記されていることと比較して、高血圧学会のガイドラインは「前向きコホート研究」という研究デザインで行われた研究を基盤にしている。


なので、人間ドック学会が提起した血圧値を基準にすることは、前向きコホート研究の結果を考慮すると、将来の血管リスクを考慮していないものである。将来起きるであろう疾病の減少を目指すのであれば、「前向きコホート研究」の結果を見るべきである、というのが議論であって、まとめると、「人間ドック学会の発表した血圧は「今、健康」な人の血圧であって、この人の将来の疾病リスクを考慮していないものである」ということと、「循環器学会、高血圧学会」は大規模な「前向きコホート研究」を基にエビデンスをもって反論していたわけで、「エビデンス」よりも「偉い医者の声が通る」なんてことはないのである。何となれば、「人間ドック学会」にも当然「偉い医者」はいるわけで、その時点で和田氏のロジックがすでに「破綻」しているわけである。


ちなみに、ACCORD試験で、「厳格コントロール群」が「標準コントロール群」に比べて死亡率が高くなった理由の一つとして、「低血糖」の存在が挙げられている。標準コントロール群の目標が「7.0~7.9%」だということは、この試験の参加者はもともとはさらにHbA1cが高い人であったはずである。強化コントロール群は目標をHbA1c<6.0%と設定していた。これはかなり厳しいコントロールで、今のようにたくさんの種類の製剤がない時代だったので、おそらく高頻度に低血糖を起こしていたものと推測される。低血糖は全身に悪影響を与えるが、特に脳に大きなダメージを与えるので、「予後不良」の要因となっても不思議ではない。


また、当時の製剤を考えると血糖値の増減の幅も大きかったものと推測される。現在の糖尿病コントロールの考え方では、「血糖が乱高下するようなコントロール」は忌避すべきもの、とされている。なので、血糖値の乱高下も予後に影響を与えていたのだろう。


現在、糖尿病のコントロールについての原則は、「血糖値の上下を可能な限り避けること」と「低血糖を避けること」である。そのうえでHbA1cを下げることが現在の糖尿病治療のスタイルである。


また、「血糖値の上下を避けること」という点では、いわゆる「糖尿病予備軍」の人たち、この人たちも「血糖値の変動」に伴う動脈硬化の進行という点では「糖尿病」の方と同様であることが分かっているので、「耐糖能異常」の段階で治療介入を開始することが多い。


ということを考えると、ACCORD試験は「厳格な糖尿病コントロールを避けるべき」という結論となっていたが、現在の視点で考えるなら、厳格コントロール群でみられた「低血糖の頻発」、「血糖値の乱高下」が死亡率の上昇に関与した、と推測されている。


例えば、「糖尿病性網膜症」の発症リスクはHbA1c 6.7%程度を境にHbA1cの値と比例して急上昇することが知られている。「糖尿病性網膜症」は「毛細血管」の障害を示しているので、糖尿病性網膜症のリスクが急上昇する、ということは「糖尿病性腎症」、「糖尿病性神経障害」のリスクも同様である。


なので、HbA1cが低い方が血管リスクが低く、すなわち、健康に過ごす期間が長くなる、ということである。


糖尿病ガイドラインで、血糖コントロールの目標を見るときには、師匠の教えである「高齢者には厳しいコントロールは不要」ということと、「血糖値の乱高下を避けること」「低血糖を避けること」を頭に入れて見てみると、その意味がすごく理解しやすいと思われる。


若年者では現在でもHbA1cの目標は6%前半である。表題のように、「6%遵守」で犠牲者が出る、なんてことを前提条件なしに書くことは本当に危険であると思う。


またもや、モヤモヤした次第である。

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