第621話 「妄想」という言葉の響きはきついけど…。

615,616話の続き、ということになるのだが、10日ほど前に、「大学病院で手術を受ける予定だが、高齢独居で、一人暮らしが難しいため、手術直前まで入院を依頼したい」という方が入院されてきた。


以前記載したように、私はMRIのない入院施設で15年近く働いており、「しりもちをついて腰を痛がっています」という患者さんの対応や、「腰が痛くて動けない」というかかりつけの患者さんの入院対応で、本当に苦労したことが多々ある(MRIがあればその多くは容易に解決できるのだが)。なので、以前記載したとおり、初回の入院患者さんについては、入院時ルーティーンの胸部レントゲン写真、入院患者さんによっては(例えば下肢の骨折後のリハビリ目的など)目的とする部位の写真と同時に、高齢者で骨折を来しやすい胸椎、腰椎と両側股関節、偽痛風を起こしたり、変形性関節症で痛みを来しやすい両ひざ関節は入院時ルーティーンで撮影を指示している。比較対照するものを「コントロール」というのだが、まさしく「コントロール」と、偽痛風のリスク評価目的である。


前回書いたとおり、入院翌日、レントゲン撮影のことでご本人からクレームがあった。ただ、放射線科からの連絡、ご家族からのお話、ご本人の訴えにそれなりの「ズレ」があった。普段の仕事の流れ、ご本人の訴えを聞く限りでは、ご本人の訴えの方が「非合理的」だと考えた。撮影された写真の日付を見ても、ご本人の訴えとは合わない。とはいえ、この「ズレ」に焦点を当てて話をしても、結局「水掛け論」となってしまうのは火を見るよりも明らかである。ということで、前回書いたとおり、その「ズレ」には言及せず、「不快な思いをさせてしまった」ということに力点を置いて謝罪した。


その後はご本人も回診時に笑顔を見せ、穏やかにお過ごしだったので安心していたのだが、先週末、定時も近づき、「さぁ、そろそろ帰ろうか」というところで事は起きた。


病棟から「先生、☆☆さんと、放射線科の技師さんの話し合いが膠着して、雰囲気も悪くてどうにもなりません。病棟に来てください」と連絡を受けたのは、定時の10分前だった。


正直、「落ち着いていた話を、なぜぶり返したのだろう!」と不快に感じた。患者さんは自身の感じたことを「正論」だと思っておられるし、技師さんは技師さんで、その時の状況をありのままに、いわゆる「正論」を語るわけである。異なる「正論」をぶつけあっても、対立は深まるだけである。なので、その「対立」とは異なる場所に着地点を見つけて、問題を解決しなければならない。


「妄想」という言葉を聞くと非常にネガティブな印象を与えるが、当然この言葉にも医学的な定義があり、「その人の属する社会通念上、明らかに不合理な考え方であって、「その考えが誤りである」という客観的事実をいくら挙げたとしても、その考えが「」なもの」が「妄想」と定義されている。この辺りは、「作話」「錯話」などとも近いものであるが、「妄想」の大きな特徴が「訂正不能」ということである。


ちなみに、認知機能の低下によって「妄想」の頻度が多少増えることがあるが、「妄想」は「認知機能の低下」が無くても十分に起きえるものであることを付言しておく。入院後、この方の認知機能について、長谷川式認知症スケールを行なっているが、非常に高得点であった。


「妄想」について、医療者にとってもう一つ大切なことは、おっしゃられていることが「妄想」かどうかについては、常に心のどこかで「疑問」を持つようにしなければならない、ということである。時に、「とんでもない妄想だ」なんて思っていたら、「それが事実だった」と明らかになることもあるからである。そういう点で、常に注意は払う必要がある。


また、別の問題ではあるが、「トラブルがあれば、なんでも『医師』を呼べばいい」という考え方、医療の世界では普遍的であり、社会的にもそういうところがあるが、個人的にはそれも「いかがなものか」と思っている。


後期研修医時代に一度、病棟で管理していた薬の取り違えで、私の担当患者さんが、数日間別の患者さんの薬を飲んでいた、ということが起きた。病棟からは、「誤薬があったので、先生、謝罪をお願いします」と連絡を受けた。


間違えていた薬の内容を確認したが、深刻な健康被害を起こす間違いではなかったので、そのことを伝え、「すみませんでした」と患者さんに謝罪、患者さんからは「気を付けてください!」とお𠮟りを受けたが、これも変な話である。


ミスをしたのは病棟看護師である。であるならば、謝罪すべきはミスをした本人と、所属長である病棟師長であろう。職責から言っても、当方はペーぺーの後期研修医である。という点でも、まず病棟師長とミスをしたスタッフが謝罪し、患者さんが「医者を呼べ―!」と怒っているのなら、私が頭を下げて収まるなら頭を下げるのは全然かまわない。しかし、「間違いが見つかったー!」→「医者から謝罪」とすぐにつなげる発想はいかがなものか、と本当に不快な思いをしたことを覚えている。


閑話休題。今回のことも職責でいえば、私は平の医局員、話しをしているのは放射線科の主任であるので私の方が職責上、下位になる。ただし、レントゲン撮影を指示したのは私でもあるし、そこにいる誰もが対応困難、という状況になれば私が出なければしょうがない。


ということで大急ぎで病棟に降りていった。


「☆☆さん、どうされましたか?」と冷たい空気の中、笑顔で割り込んでいく。患者さんの車いすの横に腰を落とし、私の目の高さを患者さんの目の高さより下に持っていく。そして、笑顔と、心配そうな表情を合わせて表情を作り、患者さんの言葉が出てくるのを待つ。出てきた言葉を傾聴する。


「希望していない、拒否をしたのにレントゲン写真を撮影された』という点では変わらないものの、先週聞いたお話とは流れも、ポイントもいくつか変わっていた。新しい言葉も出てきている。


誰であれ、記憶は驚くほど揺らいでる、というのは心理学者の様々な研究結果で証明されている。なので、前回とおっしゃっている内容が多少変わったり、前回は全くおっしゃってなかったことについて怒っている、ということもそれほど驚くには値しない。もちろん、カルテにはその旨の記載は必ずしておくのは必至であるが。


「今お話を伺いました。おそらく、放射線科の人たちとの説明と『全然食い違っている』とお感じのことだと思います。どちらの言っていることが正しいか、ということは今では「水掛け論」になっていて、証明のしようがありません。ただ、たくさんのレントゲンを撮影する指示を出したのは私です。なので、『たくさんレントゲンを撮られた』などで嫌な思いをされたことについては、責任は私にあります。不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ありませんでした」と先週同様に謝罪した。


患者さんの表情はこわばったままだった。確かに患者さんの言うことには、つじつまの合わないところがいくつもあった。撮影されたレントゲン写真の部位と時間を見ても、ご本人の訴えではなく、放射線科技師の言うことが正しいことを指し示している。この強い「訂正不能さ」はやはり「妄想」に特徴的なものである。


患者さんにとってはもはや「怒りのポイント」もずれているのかもしれない。当初は「意に反して、たくさんのレントゲン写真を撮られるのが嫌だった。同じ部位をどうして2日連続で取られるのかが理解できない」とおっしゃっておられたが、どうも今ではそれは問題ではないようなお話だった。「怒り、不快感」のポイントがご本人でもわからなくなっていて、ただ「とても嫌だった!」という気持ちだけが残っているように感じられた。


困ったなぁ、と思っていると、別の病棟から電話がかかってきた。取らないわけにはいかないので電話に出た。


電話が鳴った瞬間は、「何でこんな時に」と思ったが、電話のために私がその場から外れたことで、場の雰囲気も少し変化した。電話の内容は、「老衰で衰弱が進んでいる患者さんに、看護師見守りのもとで、ご本人の大好きだった「ウナギ」を少量食べてもらっても良いか」という問い合わせだった。返事はもちろんOK。


電話を切って、先ほどの場所に戻ろうとすると、ソーシャルワーカーさんがまたお話をされていて、ご本人は納得できないところはあるものの、「お疲れだったでしょう。お部屋に戻りましょうか」というソーシャルワーカーさんの言葉に従って、病室に戻って行かれた。


「妄想」についての適切な対応は「スルー」することとされている。否定をしても「訂正困難」であること、逆にその妄想を「肯定」してしまうと「妄想」が強化されてしまうことから、「妄想」と思われる発言が患者さんからあった場合には、「~と感じられたんですね」と「こちらは聞いていますよ」という態度を取って、そのことについては「事実」とも「事実ではない」とも言わずに流していく、ということが対応としては求められる。もちろん「妄想」が出現している、という状態に対しては治療を考慮する必要があるのは言うまでもないが、「妄想」そのものについては、そのように対応する、とされている。


私は毎週月曜日を、私自身の通院のため、お休みとしているので、今週は測らずしも、3連休となってしまった。休み明けの患者さんのご様子がどうなっているのか、とても心配なところではある。また、もしこのトラブルが大きな問題となり、医療訴訟、カルテ開示となった場合、この「妄想」という言葉が新たなトラブルの種とならないか、心配である。医学的な定義と、その言葉の与える印象が大きく違う場合には、「困るよなぁ」と悩んでいる。3連休だったが、そのことが頭を占めて、あまり休めていない気分である。

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