第429話 「する人は、どうやっても成就する」

京都新聞の記事、Yahoo Japanより


<以下引用>

 京都大医学部付属病院の精神科に入院していた男性=当時(43)=が病院を抜け出し自殺したのは、医師らが自殺防止のための措置を怠ったからだとして、男性の家族が京大に損害賠償を求めた訴訟の判決が26日、京都地裁であった。池町知佐子裁判長は、当時男性に自殺の危険性あったことは予見可能で、病院に注意義務違反があったとして、京大に慰謝料など約2800万円の支払いを命じた。

<引用ここまで>


記事では、うつ病を抱えていたこの男性の病状が悪化した、とのことで2008年10月に京大病院精神科に「医療保護入院」となっていた。同年11月、病院内で2人の医師の同伴で病院内を移動していた際に、一人でトイレに行き、トイレの窓から脱走。5日後に滋賀県の琵琶湖で遺体で発見され、自殺と判断された、とのこと。


他の診療科とは異なり、精神科の疾患では、患者さん自身に病識(病気だ、という認識)が無かったり、幻覚妄想に支配され、正常と思われる判断ができない状態となっていたり、高度の興奮状態で自傷他害の危険がある場合があり、「本人の意思」に反する形で入院させることがある。本人自身の希望(あるいは本人が納得して)入院する場合は「任意入院」と呼ばれており、この形態を原則とする(精神科以外では、意識障害で入院する場合を除いて、すべて「任意入院」でなければならない)。記事の中の「医療保護入院」は、本人の同意が得られないものの、精神保健指定医が「入院加療が必要」と判断し、患者さんの保護者(ご両親や、奥さん、お子さんなど)の同意を得て「強制的」に入院させるものである。


日付が明確になっていないので、何とも言えないが、おそらく入院時は「強い希死念慮」や「強い衝動性」が見られていたのだろう。10月末に入院して、11月の初旬に脱走という出来事があったなら、数日での鎮静化は難しかったであろうと思われるが、1か月程度の療養期間があったのであれば、病状はある程度鎮静化されていたのではないかと推測される。


精神科の閉鎖病棟では、トイレの窓も、逃げられないように作られていること、「医師二人の同伴があった」との記載があるので、もしかしたら、「他科受診」のため、あるいは、何らかの検査のために閉鎖病棟から出た状態だったのだろうと思われる。


裁判官は「トイレ」の際に目を離したことを「注意義務違反」としているが、では、「排泄行為」を本人の同意なく「監視する」という行為は「人権侵害」とはならないのだろうか?


「排泄行為」は、本来他人に見せたくない行為である。記事の中で明確になっていないが、「本人の同意を得ない入院」については病状が安定した時点で、速やかに「任意入院」に切り替えることが要求されている。もし、「トイレから脱走」の時点で「任意入院」となっていたならば、「排泄行為」の監視は明らかに「人権侵害」となろう。


「衝動性」のない状態でも消失しない「希死念慮」については、残念ながら医療の範囲を超えてしまう。病状が安定しているように見える(少なくとも衝動性が消失し、病識があり、医師の指示に従える状態になっている)のであれば、「個人の尊厳」を優先し、トイレに一人で行ってもらうことはある意味普通のことであろう。医療者を欺いて脱走を図られれば、対処のしようもない。少なくともこの患者さんは「患者さん」であって「犯罪者」でも「容疑者」でもないわけである。


たとえ病気の影響があったとしても、この人は「死にたい」という気持ちを持ち続け、それを自身の判断で既遂したわけである。この人が自殺したのは、「この人が自殺したい」と思っていたからであって、「京大病院の体制が不十分だったから」ではないはずである。


一般的に「うつ病」の極値では、身体を動かすエネルギーさえ残っていないので、自殺のリスクは低い。治療によって心にエネルギーをある程度取り戻し、活動性が上がってきたからこそ、「自殺」を計画し、実行できるわけである。


ここが大きなジレンマで、うつ病で「だいぶ治療が進んで、活気も戻って来たな」というときが一つのリスクである。しかし、うつ病の治療としては正しい方向に進んでいて、効果が出ている状態なので、本人に病識が出てきて、入院に同意されれば速やかに「任意入院」とせざるを得ない。


また、この患者さんに「衝動性」があるとも思えない。「死にたい!」という強い衝動が仮に出たのであれば、京大病院から琵琶湖まで行かずとも、少し歩けば、流れのはやい、流量の多い「琵琶湖疎水」が流れているわけである。なので、この患者さんは「強い意志」をもって琵琶湖まで行ったのだろう。


私が「医療裁判」で最も懸念していることは、「裁判」がある特定の状況について起こった出来事、ということで個別性の高いものであるにもかかわらず、その判決は「前例主義」の流れに乗ってしまい、それが本来は「きわめて個別性の高い状況」での判決であったにもかかわらず、「普遍性」をもって医療を「縛ってしまう」ことである。


救急車たらいまわしが昨今問題になっているが、遠因(いや、原因と言ってもいいかもしれない)は、「専門医ではない医師が救急外来で「専門医でないと判断がつかない」微妙な病態に気づかず患者さんが亡くなった場合(あるいは高度の障碍を残した場合)は、診察を行なった医師の責任」という判決が出たことである。


高次の急性期病院でも、深夜の救急外来担当は外科系については、日によっては「眼科医」や「泌尿器科医」が担っていることも珍しくはない。そのような病院が「急性腹症」の患者さんを受け入れるであろうか?診断を誤ったら、裁判で訴えられ、「専門外なのに診察したのが悪い」と言われるわけである。救急医療が崩壊するのは当たり前のことである。


医療裁判で、私が司法に期待したい、あるいは心にとどめてほしいと思うことは、「裁判」はきわめて個別性の高い問題を扱っているが、そこで出された「判決」は「普遍性」をもって医療を「縛る」ものになる、ということである。


そして、典型的な「うつ病」を発症するのは、基本的にまじめな人なので、その人が「衝動」ではなく「冷静な気持ち」で「死のう」と思ったら、その生真面目さゆえに、いつかは既遂となってしまう。それは如何ともしがたい。

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