第327話 今は少なくなっていると思うのだが…。

私が訪問診療をしている患者さんのお一人、Aさん。70代後半の男性の方で脳出血後遺症、腹部大動脈瘤術後、手術の合併症としての腎機能低下(CKD G4)、術後leakに伴う腹部大動脈瘤再手術後、高血圧をお持ちの方である。某国立研究センターの血管外科、腎臓・高血圧内科に定期通院中で、日常の状態管理などの目的で訪問診療を行なっている方である。


元々は、Aさんのお母様の訪問診療を開始したところから始まった。トイレにご自身で行く以外はほぼ日中寝たきりのお母様の面倒を見ておられたのがAさんだった。お母様は100歳近いお年で、slow Af(HR 40前後)、老衰の方だった。私の訪問診療に入られたときは、他院で高血圧の薬を処方されていた状態だったが、降圧剤の服用で血圧が90台だったので中止し、月に1回の訪問診療で、栄養をサポートするためのジュースのような総合栄養剤を処方する程度でfollowしていた。ご本人も、Aさんも、「侵襲的な治療は不要で、穏やかに過ごして、穏やかに旅立つことができれば、と思っています」とのことだったので、無理くりペースメーカーを挿入することもせず、経過をみていた。Aさんは私がお母様の訪問診療を始めた時点で、腹部大動脈瘤の術後、術後合併症としての腎機能低下、高血圧で某センターに定期通院中とのことだった。


「母の体も心配ですが、私も通院中で、腎臓も悪くなり、手術したところから少しずつ血液が漏れているみたいなのです。私自身の身体も心配です」とおっしゃっておられた。


そうこうしているときにAさんが脳出血のため、某センターに緊急入院。お母様の主介護者がAさんの妹さんになったが、その後すぐにお母様が、自宅でトイレに行こうとして転倒され、動けなくなっているところを発見され、うちに入院となった。転倒の原因はおそらくslow AfによるAdams-Stokes発作に伴う失神、幸いなことに転倒されたが、脊柱の圧迫骨折や大腿骨頸部骨折などは見られなかった。ご自宅での療養は限界、とA妹さんがおっしゃられたため、施設調整を行ない、お母様は施設に入所、となられた。


脳出血を起こされたものの、大きな後遺症なく回復されたAさんは、私のお母様に対する訪問診療の姿勢を気に入ってくださり、退院後は定期的に国立センターに通院しつつ、「日常の評価を訪問診療でお願いしたい」と私をご指名してくださり、Aさんの訪問診療を始めるようになった。


訪問診療開始後から、ずっと懸念されていた腹部大動脈瘤術後のleak(血液の漏れ)については半年ほど前に同センターで再手術を受け、leakは止まり、腹部大動脈瘤およびその手術で懸念される合併症である腎機能低下についても、術前と同程度~やや改善となり、「よかったですね」と喜んでいた。術前で腎機能の指標の一つであるCre(クレアチニン、筋肉から出る老廃物)は4程度だったのが、3台後半となった、と伺っていた。


前回(先月)の訪問診療時には、「先日、センター(の腎臓・高血圧内科)に受診したらCre値が5に上がっていたんです。主治医の先生から『何をしているんだ!血圧の管理を往診の先生にしっかり診てもらいなさい!』と怒られました」としょげておられた。その話を聞いて、私も顎が「ガコーン」と外れるほどの衝撃を受けた。「いったいこの医師は、何を訳の分からないことを言っているのだろう?」と思ったのである。


ややこしい話になるが、腎機能の簡便な評価はCre値の逆数(1/Cre)を使って行うことが多い。正常では、Cre 1程度なので、逆数を取ると、1/Cre=1/1=1である。Cre値が2になると、1/Cre=1/2=0.5すなわち、50%となり、Cre値が1→2に悪化すると数字としては1の動きだが、腎機能は半分になってしまった、ということである。


AさんはもともとCre値は4程度だったので、1/4=0.25,正常な腎臓の25%の機能だった、と推測できる。これが3に下がった、といっても1/3=0.33、約33%となった程度であり、Creが5になった、といっても1/5=20%である。もともとの25%を基準にして考えるとどちらも約5%程度の変化である。腎機能が悪くなるほど、Cre値の変動幅は大きくなるので、一喜一憂することではない。患者さんに怒る必要などないのである。


さらに追加すれば、「高血圧治療ガイドライン2019」には、3種類の降圧剤を使って血圧のコントロールが困難であれば、専門医が対応、と規定されている。Aさんは5種類の降圧剤を使用中である。ガイドラインに沿うならば、血圧コントロールは往診医ではなく、専門医であるあなたの仕事である(もちろんそんな無責任なことは言いませんが)。


前回診察時の血圧は安定していたので、「血圧を毎日測定して、次回の往診で見せてください」とお願いしていたのだ。


今回の訪問診療で、自宅の血圧を見せてもらうとほぼ血圧は130/80台を維持していた。ガイドラインに沿えば、120/70程度まで降圧すべきなのだろうが、Aさんはもう薬を山ほど飲んでおられる。しかも腎機能の悪い方でもある。降圧しすぎるとこれまた腎血流低下に伴い腎機能が悪化するので、そこまで薬を増やす必要もなかろう、と考えた。


Aさんから、「先生、これが先日センターでの採血結果です。『カルシウムの値が低いので、この薬を飲みなさい』と言われました」と、血液検査の結果と薬を確認した。薬はビタミンD製剤。食事などでとりこまれたビタミンDは、肝臓と腎臓で活性化され、効果を発揮するが、腎臓が悪いとビタミンDの活性化が起こらなくなるため、このようにビタミンD製剤を追加することは不自然ではない。なるほど、と思いながら採血結果を確認する。Ca 8.5(正常下限 8.7)、アルブミン 3.8という数字であった。ありゃ?


これまたややこしい話になるが、血液中のカルシウムはほとんどがアルブミンというタンパク質に結合している。なので、アルブミン値が下がると見かけ上カルシウム値が下がってしまう。なので、Ca値の評価は補正Ca値(Ca値+(4.0-アルブミン値))で評価する必要がある。補正Ca値は8.7と正常下限である。


「Aさん、血液検査を見せてもらいましたが、カルシウムの値はびっくりするほど低いわけではなく、その評価には、アルブミンの項目を加えた「補正カルシウム値」で考えます。その値を計算すると、正常のギリギリ下限、というところです。ただ、腎臓の悪い人はどうしてもカルシウムの値が低くなりやすいので、それでカルシウムの値を改善するビタミンDの薬が処方されたのだと思います。Cre値は5程度で大きな変化はなさそうですが、ご心配なさっている「透析」については、Cre値だけでなく、身体の酸、アルカリのバランス、身体のイオンのバランス、水のバランスの崩れ方などを含め、総合的に判断します。血液検査ではイオンのバランスは崩れておらず、お身体もむくみがないので水のバランスも崩れておらず、今の段階では、慌てて「透析」ということにはならないと思いますよ」


とお話しした。


「先生、いつも丁寧に説明していただいて、ありがとうございます。大きな病院だと、患者さんが多いのは分かるのですが、流れ作業のように診察され、今回のカルシウムの話も、そのような説明はなく、『カルシウムが低いから、この薬追加します』とデータだけを見て言われ、それでおしまいでした。私が「透析」のことを気にされていると先生は分かってくださっているので、透析との関係についても説明してくださいましたが、そういうこともなく、『冷たいなぁ』と思ってしまいます。もちろん、私の体の状態を考えると、国立センターへの通院は欠かせないことはよくわかっていますが、受診するたびに悲しくなります」


とおっしゃられた。お話を傾聴する。かつて、亡くなられたお父様と一緒に通院していた病院では、今でいう「ドクターハラスメント」のようなことが毎回だったそうな。


「受診するでしょ、そしてたくさん怒られるでしょ。じゃぁ、何のために受診しているのだ?怒られるためか?と思いました。通院するのがとてもつらかったです。人間なので『すべて完璧に』なんて無理でしょ。でも頑張って先生の指示を守って、それで受診しても怒られるのです。私は本当につらかったです。だから、先生のように、丁寧に話を聞いてくださり、身体を診てくださって、必要があればすぐに紹介状を書いてくださるのが、本当にありがたいのです」とおっしゃられた。


汗顔の至りではあるが、確かに古い医者はそういう人が多かったのかもしれない。私たちのころからか、その前からかは分からないが、医学教育の中で「接遇」ということが重視されていた。そのような失礼な医師、絶滅危惧種だと思いたい。


そんなわけで、時間をかけてお話を伺い、問診と診察で大きなお変わりがないことを確認し、定期薬を処方し、診察終了とした。


訪問診療について、初期研修医のころから私の師匠は「訪問診療は、薬の御用聞きだと思っています」「私の訪問診療のモチベーションの半分は、野次馬根性です」とおっしゃられていた。当初は師匠のブラックジョークかと思っていたが、後輩たちにも同じようにおっしゃられていたので、多分本当にそう思っておられるのだろう、と考えを改めた。「モチベーションの半分は、野次馬根性」という言葉は理解しやすいが、「訪問診療は『薬の御用聞き』」という言葉で師匠が何を伝えたかったのか、今も十分には分かっていないが、このように患者さんの言葉をゆっくり腰を落ち着けて聞くこと、そういうことを言いたかったのかもしれない、と思ったりしている。

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