第303話 「書評」にモヤモヤ

我が家では読売新聞を購読している。日曜日には「書評」の頁があり、3ページにわたっている。後ろの2ページは複数の書籍を取り上げ、それに対して新聞社側が選んだ評論家が論評を書いている。


今回私が目を止めたのは「宗教者は病院で何ができるのか」という本と、その書評だった。


書籍そのものはAmazonで検索すればすぐに見つかる。主題は「宗教者が病院にいることの意味」「特定の信仰を持たないもの、信仰を異にする患者のケア」をどうするか、という事のようである。


現在、資格としての「臨床宗教師」というものが存在し、信仰を持つものとして、「臨床宗教師」の資格を取ろうと思ったのだが、聖職者、あるいはその教団での指導者的立場の者、という規定があり、一信者の私では取れないことが分かった。とはいえ、「信仰を持つ医師」が「死にゆく人たち」にできることはあるはずだと思って、日々の仕事を行なっている。


書評では「死を前に、医療従事者は無力である」との記載があった。これは論者の認識不足であろうと思われる。医療は大きく「キュア(治療)」と「ケア(看護・介護)」に分けられると思う。もちろん、医師も患者さんへの接し方、という点で「ケア」は行えると思っている。”To Cure Sometimes, To Care always”(治療できるのは「時々」だが、ケアをするのは「いつも」可能である)という言葉のとおりである。


医療と宗教は古代には一体不可欠のものであったと私は考えている。いわゆる「呪医(Witch Doctor)」である。科学の装いを身に着けた「医学」が存在する前、私たちは病を前に「祈ること」しかできなかった。そのころの医療はまさしく「祈り」であったわけである。仏教では、医術をつかさどる仏である「薬師如来」が存在し、キリスト教でも「病を癒すイエス」の姿が書かれている。時を経て、現代科学の鎧を身に着けた現在の医療従事者も、その奥にはルーツとしての「呪医」が残っている。もちろんその「呪医」を使うもの、使わないものがいるのが現代ではあるが、緩和ケア病棟や高齢者病棟など、「死」が身近にある臨床現場では、「死」に対して医療従事者が無力、だと指をくわえて黙ってみているわけではない。


書評には、「最終的には「宗教者」と「死にゆく人」との関係から「人」と「人」への関係へと変化していく」とあり、これは医療従事者と患者さんとの関係もまたしかりである。もちろんそこへ行く過程の技法があることは確かではあるが、本質的には「傾聴」と「共感」だろうと感じている。


「それにしても、『死』に対して、医療従事者は無力」というのはちょっとひどい文章だなぁ、とつらつら思った次第である。

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