第286話 Dead Space:死腔

子供の頃に読んだ「忍者」の本。「水遁の術」といって、忍者が水中に身を潜め、竹筒の先だけを水面に出し、それで呼吸をしながら身を隠す、という術が載っていたことを覚えている。その頃に読んだ科学の本で、「水遁の術」、ある程度の深さになると、水圧で胸郭が圧迫され、息を吸うことができなくなるので非現実的な術だ、と解説があった。なるほど。


では、浅瀬の敵陣地の近い場所に身を潜め、ただ、そんなところに竹筒が持ち上がっていると、当然そこに「忍者がいる」とばれるので、距離の離れたところ(例えば10m先くらい)まで竹筒を延ばし、そこで呼吸するのはどうなのか?と考えてみた。


なんとなくうまくいきそうな気がしそうだが、実はこれもうまくいかない。呼吸はできるのだが、そのうちに忍者が酸欠となり死んでしまう。


また別の話。2020年のころ、COVID-19が世界中で問題になったころだったと記憶している。中国で、体育の時間にN95マスクをつけてマラソンの授業を受けた小学5年生が亡くなった、という話があった。まだ、どのタイプのマスクを、どのような場面で着けるのが適切か、あまり浸透していない時期であった。ニュースを聞いて、とても残念に思ったことを覚えている。


これまた別の話。COVID-19の効果で不織布マスクにも様々な工夫がされるようになってきた。私たち医療従事者が普段院内で使っているマスクは、鼻や口回りの皮膚に直接接触するタイプのものであるが、中には、それで肌が荒れたり、その接触感が嫌だ、という人もいる。ということで立体裁断を行ない、あごや頬、鼻の頭は仕方なく皮膚と接触するが、口回りの皮膚とマスクの間に少し隙間のある不織布マスクも販売されている。


先日、反マスク派の人のHPにそのマスクが表示され、その上に、「これで私たちはどれだけの二酸化炭素を吸わされたのだろうか!」と怒りの発言があった。個人的には、「ふ~ん」と思った次第である。


さて、本題。私たちは「呼吸」をして「二酸化炭素」を排出し、「酸素」を取り込んでいる、と考えている。それは確かに正しいのだが、ここについてもう少し深く触れてみたい(医学生でも少し難しく感じるところなので、さらっと「そんなものかなぁ」と思っていただければ結構である。ただ、それほど難しいことではない)。


私たちがいわゆる「ガス交換」と呼ばれる「酸素を血液中に取り込み、二酸化炭素を血液中から排出する」ことができる場所は、肺の構造の中でも、「呼吸細気管支」と呼ばれるところと、「肺胞」と呼ばれるところだけである。鼻や口から取り込んだ吸気は、気管→左右主気管支→区域気管支と分岐し、その後20回程度の分岐を行なってようやく呼吸細気管支、肺胞に到達する。ここに到達しない空気は、鼻から吸い込まれていても、いわゆる「ガス交換」には全く関与しない「空気」である。そこで、身体に取り込まれたが、「ガス交換」にかかわらない空気が存在する場所(鼻や口の中、気管、左右主気管支、区域気管支など)を医学的には”Dead Space”:死腔と呼んでいる。成人では死腔は約150ml程度と考えられている。


仮に私たちが「ふーっ!」と息を吐ききったとしても、気管や気管支の中には、吐いた呼気と同じ成分の気体が残っているわけである。次に息を「すーっ」っと吸い込んでも、いわゆる「外気」が入ってくるまでは、先ほど吐いて、気管、気管支に残った空気が先にガス交換できる領域に入ってくるわけである。


私たちの1回換気量(=1回に呼出する気体量=1回に吸入する気体量)は350ml~400ml程度、とされている(教科書的には「理想体重×6」とされているので、身長170cmの人なら、1.7(m)^2×22(ここまでの計算で理想体重)×6=約390mlとなる)。なので、一回換気量が400mlだとすれば、そのうちの150ml、約38%が前回の呼気をもう一度吸い込んでいることとなる。このあたりの知識は「人工呼吸器」を使う上では必要な知識ではあるが、一般の人にはなじみがない。ただ、呼吸している息の約4割が、吐き出した息をもう一度吸い込んでいる(死腔の空気を再吸入している)、ということである。


当然のことながら、一回換気量を増やせば、死腔の影響は小さくなる。逆に一回換気量を減らせば、死腔の影響は大きくなる。


また、シュノーケルや忍者の「呼吸用の竹筒」などを口や鼻につないで呼吸をすれば、当然死腔は大きくなる。また人工呼吸器を使うときには、挿管チューブと呼ばれるチューブを気管内に留置するのだが、挿管チューブのチューブ内の容量は、気管~口、鼻の空間容量よりも小さくなるので、気管内挿管を行なえば、死腔は小さくなる。


忍者の話に戻ると、長いチューブを咥えて呼吸する、ということはそれだけ死腔が増大する、ということであり、それは、新鮮な空気の取り込みが減少する、ということである。死腔≧一回換気量となってしまえば、忍者は筒の中の空気を吸ったり吐いたりしているだけで、新鮮な空気を吸うことができないわけであり、早晩酸素欠乏となってしまう。


中国でのN95マスク装着状態でマラソンをした子供は、大変不幸であった。N95マスクの吸気抵抗はかなり大きく、また、感染症対策としても、工業用に使うにしても、マスクの隙間から空気が漏れ出る、あるいは入り込む隙間があれば意味がないので、普通の不織布マスクと比べても、かなりつけている状態がきつい(窮屈、という意味で)。私の外来日には、発熱外来での対応も行なうことから、N95マスクを常につけて外来を行なっているが、外来が終わり、N95マスクを外すと、顔にマスクの跡がくっきり残っているほどきつく装着されている。また、N95マスクは、直接鼻や顔に接触しているわけではなく、鼻や口の前に空間(当然これも死腔)がある。しかも、小学5年生であり、一回換気量、生理的死腔も成人より小さいので、N95マスクによる人工的死腔の占める割合が成人よりも大きくなる。


そんなわけで、これは推測ではあるが、マラソンによる運動負荷で身体の酸素要求量が増えたにもかかわらず、N95マスクの空気透過性の悪さで、マスク無しの状態よりはるかに吸気時の呼吸運動量が増加したことで呼吸筋が疲労し、十分な量の吸気ができなくなったこと、人工的死腔が増加したことで、吸気のうち、実際にガス交換に使われた空気が減少したことで低酸素状態が悪化し、過度に循環器系に負担がかかり、亡くなったものと推測される。


反マスク派の人が「これでどれだけの二酸化炭素を吸わされたのか!」とお怒りであったが、マスクの形状を見ておおよそ推定するに、死腔の増加が50~70ml程度と考える。


呼気の二酸化炭素濃度は約4.6%とされており、普通の成人の呼吸回数は12~15回程度とされている。と考えると、1分間の死腔からのCO2吸入量は、マスク無しでは、150×0.046×12=82.8ml、マスクをして死腔が50ml増えたとすると、200×0.046×12=110.4ml、いや、計算しなくても死腔が4/3倍になったので、CO2吸入量も4/3倍とすればよいだけであった。一応引き算して、1分間に27mlのCO2の吸入量増加があったわけである。


ただし、体内には「酸塩基平衡」というメカニズムがあり、身体の酸性、アルカリ性のバランスは、血中二酸化炭素量と、二酸化炭素と水が反応して生じる重炭酸イオンのバランスで決定されており、健康な体であれば、余分な二酸化炭素は、重炭酸に変換されて尿に排泄されるので、CO2吸入濃度がバカみたいに増えなければ、問題にはならない。


そんなわけで、「死腔」ということを考えると、忍者は竹筒など、長いパイプを使って呼吸をしようとしても、おのずと限界があることが分かる。シュノーケルがあの太さで、あの長さなのには理由があったのだ。


N95マスクをつけてマラソンをした子供は、周囲の大人が少し呼吸生理学をかじっておけば、避けられたのに、COVID-19に過剰に反応したために残念なことになってしまった。


反マスク派の人のHPで「どれだけの二酸化炭素を吸わされたの!」とお怒りになられているが、マスク無しの呼吸でも二酸化炭素を吸入している(せざるを得ない)こと、実際には、4/3倍≒1.3倍の二酸化炭素を吸入することになっていたが、余分な二酸化炭素は結局重炭酸イオンの形で尿に排泄されるので、健康問題にはほとんど影響を与えないことが分かったわけである。


日曜の午後、少しどうでもいいことを考えた次第である。

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