第264話 もうすぐ10年か…。

私の医学生生活を応援してくださった恩師、当初は医師と患者さんとの関係から始まった。


今ではあまり熱も出さず、それなりに身体は健康ではあるが、小さいころは、足の奇形の問題があったり、口蓋扁桃の持続感染と急性増悪で頻繁に寝込む病弱で痩せこけた子供だった。扁桃摘出術の一つの適応として、年に3回以上扁桃炎に高熱を出す、という事を勉強した記憶があるが、とてもそんな頻度ではなく、月に1度は高熱で寝込んでいた。扁桃腫大がひどく、あまり食事ものどを(物理的に)通らない。食も細かった。


そのころは、恩師の診療所の存在もあまり知らず、私の記憶では4~5歳ころに発熱で一度休日に受診し、点滴を受けたこと、処方された薬がひどく苦かったことをうっすらと覚えていた。


扁桃炎については小学1年生の夏休みに扁桃摘出術を大学病院で受け、その後は普通の子供と同じくらいには発熱の頻度は減ったように記憶している。


6歳下の弟がひどい喘息を持っていたのが、恩師の診療所とのつながりとなった。弟は何度も喘息の急性増悪で入院し、恩師の人柄に家族みんなが惚れ込んで、家族みんなが診療所のかかりつけ患者さんとなった。どれだけの思いがあったのかは、一番下の弟に、恩師の名前を頂いたことでも分かるであろう。


自分自身が病弱だったこと、父も糖尿病で病気がちだったこと、病気で寝込んでいるときに、父の書棚にあった「家庭の医学」を読むことが好きだったことから、子供のころから医師になりたかった(それでなければ電車の運転士)。医師としてのあこがれは、颯爽とした恩師の姿と、やはり颯爽とした「ブラック・ジャック」であった。


中学、高校とそれほど悪くはない成績を取っていたが、実家が貧しかったこともあり、大学は自宅から通えるところで国公立、と限定がついた。その制限があったので検討はしなかったのだが、もしかしたらそのころの成績でも、地方大学の医学部なら何とかなったのかもしれない(結局、地方大学の医学部医学科に進学するのだが)。そして大学は何とか自宅から通える国立大学(一応旧帝大)に滑り込んだ。


少しでも医学に近い勉強をしたいと思い、学科もそれらしき学科に進み、研究室の配属、研究テーマは1960年代に1例報告のあった異常ヘモグロビン、ただこのヘモグロビンはユニークで種をこえて非常に高度に保存されている特定の部位の非極性アミノ酸が、極性を持つアミノ酸に置換されたもので、そのヘモグロビンを大腸菌を用いて人工的に合成し、その生化学的特性、そしてHbM症と呼ばれる一群のヘモグロビンに属するかどうか、という事を考察するものだった(結果は、その異常ヘモグロビンはHbM症の一群に属する、と結論付けられた)。


私たちが大学4年生の時はバブル崩壊後の就職氷河期で、友人たちがことごとく企業から振り落とされるのを見ていた。私は高みの見物をしていたわけではなく、大学院に進学することを考えていた。少なくとも「修士号」を持っていた方が就職には有利に見えたからである。


その当時は、母校の大学院医学研究科にしか開設されていなかった(その後複数の医学部で開設されることとなった)、医学部、歯学部、獣医学部以外の学部卒業者を教育し医学研究者として育てる「医科学修士課程」なるものがあった。私の所属していた学科でも数年に一度、そちらに進学する人がいるとのことだった(入試倍率は4~5倍と大学院としては高い倍率であった)。


「受験しなければ、合格はないだろう。受験すれば万が一にも可能性があるかもしれない」と考え、所属していた学部の大学院研究科前期課程(いわゆる修士課程)と、「医科学修士課程」の大学院入学試験を受けた。結果はどちらも合格。まさか「医科学修士課程」に合格するとは思わなかった。なので、医学にかかわる研究をしたいという思いで、「医科学修士課程」に進学することにした。


体調を崩したか、何だったか忘れたが、恩師の外来に受診の時に「医科学修士課程」に合格したことを報告した。恩師は、「基礎医学を志す者は、臨床現場を知っておくことも大切です。たまたま、うちの診療所で事務の当直をしてくれる人を探そうとしていたから、良かったらうちでバイトをしませんか?」とありがたい声をかけてくださった。返事はもちろん「はい!」。


そして、大学4年生から、医学部医学科に合格、進学することとなった博士課程1年までの3年半、事務当直として診療所で働かせていただいた。なんといっても子供のころからの憧れの場所である。情熱を持って働いた。時間外の診察の時は診察室から見えないようにして、医師と患者さんのやり取りを聞き、患者さんの訴えから医師がどのように考え、どのように判断するか、聞き耳を立てていた。


臨床現場に入るとわかることだが、医師や看護師さんもやはり人、悪い人ばかりではないけど、いい人ばかりでもない。時にはあまり態度の良くない医師のクレームを事務当直の私が受けることもあった。説明不足なところを補い、納得して帰ってもらうにはやはり「門前の小僧 習わぬ経を読む」ではないが、先に述べた現場でのやり取りから学ぶことが多かった。


大学院生としてトレーニングを受けていくと、徐々に自分の能力を客観的に見ることができるようになる。そして、ラッキーなことに、私の2学年上の先輩が、非常に優秀な人であった(結局、先輩は40代前半で国立研究所の教授になられた)。先輩にはかわいがってもらったが、先輩の能力の高さ、知識の広さを目にして、「学問の世界では、こんな人たちがたくさんいて、その人たちとポストを競わなければならない。私の能力では負け戦だ」と自分の能力のなさに気づいたこと、また診療所での経験、子供のころからのあこがれ、様々な気持ちが重なって、人生のラストチャンス、と考え医学部再受験を決意した。


そのころ私は25歳、新たな道を進むにもそろそろ限界の年齢かなぁ、と思っていた。もちろんお金のことも何も考えていない。ただの夢物語だったが、研究室のボスには「1年だけ時間をください」とお願いし、研究室で行なっている抄読会などには参加するが、自分の研究はストップ、という形で大学院に籍を置いていただいた。親にも話をし、てっきり自分は話していたつもりになっていたが、当時の彼女(今の妻)への報告が最後となってしまい、「なんで私が最後なのよ!」と怒られた記憶がある。


アルバイトの開始時刻すぐには、夜診を終えた常勤の先生たちがまだ残っておられる。いつだったか忘れてしまったが、何の気なしに恩師に自分の思いをお話しした。今まで夢の世界だと思っていた医師になりたいこと、この1年をラストチャンスとして勉強中(もちろん予備校に行くお金はなく、研究室で勉強していた(笑))であることをお話しした。


恩師はしばらく黙って、それから私にこう言ってくださった。


「私は、医師の仕事は『患者さんを診察、治療すること』だけではなくて、『次の時代を担う医師を養成すること』も大切な仕事だと思っています。君のここでの仕事ぶりを見ると、君は信頼するに値する人物だと思っています。なので、もし君が医学部に合格すれば、ぜひ私に応援させてほしい。君は診療所に縛られず、なりたい医師になってもらって結構です。ただ、もし君と同じ臨床の現場に立つことができたら、私はとてもうれしい」と。


涙が出そうになるほどありがたいお言葉だった。ただの「かかりつけ患者の一人」であった私をそのように評価していただいて。「絶対先生のお心を無にしてはならない」とそれからの受験勉強も死に物狂いで頑張った。


残念ながら、というべきか、ありがたいことに、というべきか(いや、後者だろう)、大阪とは離れた地方の国立大学医学部医学科が私を拾ってくれた。そんなわけで、私の医学生生活が始まった。


友人たちとの楽しい時間を過ごしたり、大学祭の役員をしたりと、思い出深い医学生生活であったが、心の底では「先生のご期待を無にすることはできない」と常に思っていた。当然現役や1浪で入学してくる友人たちの方が地頭が良いのは明らかである。なので、友人たちに負けないように、必死で勉強した。その甲斐あって、首席で卒業し、無事に医師免許を取得することができた。


私の医師としてのベクトルも、先生のおっしゃってくれた「君と同じ臨床の場に立てたら、僕もうれしい」という言葉に向いていた。もともと、先生の行なっている医療にあこがれていた私である。特定の専門分野のスペシャリストであるよりも、守備範囲の広いジェネラリストになりたいと思い、私の性格的な特性もそちらに向いているようであった。


そして、初期研修医を終え、後期研修医から、私を医師として鍛えてくださった師匠の配慮で、「診療所での当直業務」を私の後期研修プログラムの一部として正式に加えてくださり、「病院公認」として、診療所で、とうとう医師として当直業務を行なうようになった。


当然ながら、急性期病院として、日中とほぼ変わらない検査が深夜帯でも行える研修病院とは違って、診療所では、レントゲン、簡単な血液検査、心電図くらいしか検査ができず、その中で時に命にかかわる疾患と向かい合うことになった。たぶん大病院の中しか知らなければ、医療資源の少ない中で診療行為を行なうための「身体所見」の重要性に気づくことはなかっただろう。そういう意味でも、診療所での当直は勉強になった。


診療所内部もいろいろなことがあったのだろう。恩師から「申し訳ないが、専門医をとれなくてもこちらに来てもらえないか?」との打診が何度かあった。しかしながら私たちの世代は、恩師の世代とは異なり、何らかの専門医を持っていないと今後の医師人生に大きな影響を受ける。そんなわけで、何とか「総合内科専門医の受験資格が取れるまでは待ってください」とお願いしていた。


そんなわけで、4年間の後期研修を終えると、すぐに診療所に移ることになった。私の心の中では、あと1年間、内視鏡の修業を受けたかったのだが、そういう余裕が診療所になかったらしい。有休消化で2か月の休みを取りたかったが、「どうかGW明けから勤務してほしい」とのことで1か月の休みを置いて、診療所に常勤医となって赴任した。


事務当直のころはアットホームでみんなの風通しが良かった診療所だったが、医学生6年+研修医6年の12年間を経ると何となく雰囲気が異なる。その間に介護保険制度が始まり、介護系の部門が増えたこと、医療を取り巻く患者さんの意識が変わったせいだろうか、何となく重苦しい雰囲気が流れていた。それでも恩師は精力的に働いていた。診療所を引っ張っていた。


私が赴任して、一番驚いたのは医療レベルの古さだった。もちろん、先生方はみんな勉強されているはずであるが、時に時代遅れの治療に直面し、「わーっ!そんなことしちゃだめですよ!」と制止することもしばしばであった。例えば小腸閉塞。今なら小腸閉塞と診断がつけば、一つは閉塞起点を評価するため腎機能が許せば腹部造影CTを撮影し、緊急手術の必要な絞扼性イレウスの有無を確認する。それと同時にイレウス管、あるいは経鼻胃管(私が研修医のころに、経鼻胃管とイレウス管で、その治療成績、予後に有意差がない、という論文が出たので、研修病院ではイレウス管を挿入するのはまれだった)を挿入し、腸管内の減圧を行なう、そして、腸管内に水分が移行し、体内は脱水となっているため、輸液をある程度しっかり行う必要がある。


これが現在のスタンダードだが、診療所では、小腸閉塞を認めたら、腹部を暖め、ワゴスチグミン(副交感神経作動薬:腸管の運動を促す)を注射していた。なので、小腸閉塞の患者さんが出るたびに、「先生、その患者さん、僕が対応します」と言って高次医療機関に送ることが多かった。小児の喘息発作もよく受診されていたが、他の先生方は、見た目(結構重要ではあるのだが)で重症度を評価し、SpO2を測定せず吸入薬などの治療を行なっていた。私の小児科研修では、小児はSpO2 95%未満なら入院適応、と指導されていたので、診察時にSpO2を測定、SABAの吸入処置後10分の時点で再度SpO2を測定し、95%未満なら全例小児科病棟のある急性期病院に転送していた。


教科書通りにするのがいいのか悪いのかわからないが、なんか私だけが「重症、重症。転送するよ」と騒いでいて、切ない気持ちにもなったが、そこはそれ、我が道を進んでいた。


恩師はあまり私に何かを言うことはなかったが、一度、比較的重症で、外来でfollowするか、現時点で転送するか迷って、患者さんに「もしこれより悪くなったら、大きな病院の小児科を受診してください」と言ったことがある。それを聞かれた恩師は「先生、その言葉は無責任です!『もし悪くなったら、必ずもう一度連れてきてください』と言ってあげてください。その言葉で患者さんは安心します。もう一度先生が診て、必要があればそれから転院してもらいましょう。先生、怖がらずに「悪くなったら、もう一度私のところに受診してください」と患者さんのために言ってあげてください」と叱られたことがある。


これは全く恩師のおっしゃる通りであった。設備の不十分な診療所で、不安を抱えながら診療していた私に、「地域の一次医療機関で勤務する医師」の心得を教えてくださったと思っている。私は今でも、確定診断はついていないが、とりあえず対症療法で経過を診よう、と思った患者さんには「何かあったら、もう一度来てください。私のところでも構いませんし、他の先生の外来に来ても、状況がわかるように詳しくカルテを書いておきます」と伝えている。


恩師の入院させた患者さんを「ここで診れない患者さんだよ。転送しよう」と言って、ある意味恩師にたてつくような形で行動を起こしても、それが患者さんのため、と思っての行動であれば先生は何もおっしゃらなかった。医者の世界は結構縦社会で、上の先生が言ったことを翻すのは好まれない行為だが、恩師はそれを許してくださった。


恩師と一緒に失敗をしたことも覚えている。近くの歯科医から「意識消失発作」として受診依頼を受けた中高齢の女性。恩師が診察し、私は通常外来をしていたが、処置室から「あなたは私を馬鹿にしているのですか!」と恩師の怒りの声が聞こえた。ちょうど外来も終了したので、私も処置室に向かう。


「先生、どうされたのですか?」

「この人、自分の名前以外は何を聞いてもニヤニヤするばかりで答えないんだ。私を馬鹿にしているとしか思えない!」とのこと。

私も診察をするが、確かに名前以外は言えない。ただこれはバカにしているのではなく、意識障害を示唆するものだと私は気づいた。

「先生、これは先生を馬鹿にしているわけではなく、意識障害です。JCS-1-3です」と伝えると、先生も落ち着かれ、

「そうか、先生、血液検査は異常なかったよ」とのこと。

以前、同様の症状を呈していた方で、前頭葉の広範な脳梗塞の方を経験していたので、脳梗塞と考え、大学病院の脳卒中センターに紹介、恩師が救急車に同乗していった。


その数日後、血液検査の外注項目が帰ってきて、頭を抱えた。「血糖 39」。診療所の機械では血糖測定ができず、血糖は簡易血糖測定器で測定していたのだが、「血液検査は異常がなかった」との言葉を聞いて、無意識に低血糖を除外してしまっていた。総合内科専門医を取ったはずなのに、恥ずかしい限りであった。


診療所では毎年6月に職員健診を行ない、その最終診断は「産業衛生コンサルタント」の資格をお持ちの恩師がつけていた。平成25年の健診も恩師がレントゲンを確認しておられた。ちょうど私が通りかかったとき、恩師はご自身の写真を読影されていた。

「先生は大事な人だから、私にも読影させてもらっていいですか」とお願いし、二人で写真を確認。二人で「異常なしですね」、と所見をつけた。


夏ごろから、恩師は「最近疲れやすくなったなぁ、年かなぁ」と言われるようになった。確かに暑い時期だし、恩師ももうすぐ喜寿である。若い時のようには働けない。誰も恩師には言わなかったが、ご自身で言ったことを忘れて、「あれ?どうしてこうなってるの?」「先生がこうして、っておっしゃったのですよ」という事も増えていた。なので、みんなが、「先生もお歳だなあ」と思っていた。


9月頃だか、診療所創立50周年の記念行事の話を進めているころ、恩師は「後頭部におできができて、枕に当たって痛いんだよ。膿瘍が熟したら切開しようと思っているんだけど、なかなか膿瘍になってくれないんだ」と困っておられ、しびれを切らした恩師は長年の盟友である、別の先生に膿瘍切開を頼んでいた。切開したが、膿も何も出てこなかった。


10月頃から、古参の看護師さんが恩師に「先生、顔がむくんできていない?」としきりに声をかけるようになった。私の眼からはよくわからなかったのだが、その看護師さんだけでなく、ほかの看護師さんからも「先生、顔がむくんでませんか?」と言われるようになった。なので、「先生、みんなも心配していますし、心不全評価のため、一度レントゲンを撮りましょう」と勧め、レントゲンを撮影した。


レントゲンには左肺に、職員健診の時にはなかった1.5cm大の結節影が写っていた。おかしいと思い胸部CTを慌てて撮影。左S3の胸膜直下に1.5cm程度の結節影と、うっすらと胸水が貯まっていた。


後期研修医終了後も、研修病院での訪問診療を(バイト)という形でそのころも続けており、翌日がバイトの日だったので、師匠に読影をしてもらおうとCTフィルムを持って行った。


バイトに通っていた金曜日は、私の卒業後、内科カンファレンスを行なうようになっており、カンファレンス前に、師匠にCTを診てもらった。


「先生、肺癌、StageⅣです」と師匠の言葉。

「先生、動転して十分読影してなかったでしょ?縦郭のリンパ節がほら、累々と腫れているよ。このリンパ節は上大静脈を圧排しているでしょ。顔がかなりむくんでおられるんじゃない?SVC症候群だよ」と教えていただく。確かに師匠の読影通りだ。言葉を失った。


訪問診療を終え、診療所に戻り、結果を恩師と、代替わりした新理事長(I先生)に報告する。


その週末は診療所50周年記念パーティーだった。いろいろな祝辞を頂き、最後に旧理事長として恩師があいさつ。「これからも医療界にはいろいろな波が訪れます。私にも大きな波が来ました。命懸けの波ですが、私自身も戦っていきます」とのあいさつに出席者は誰も声を失ってしまった。


高次医療機関での精査加療が必要であり、地域で呼吸器疾患の対応で有名なT病院に受診されることに決まった。受診は水曜日の午後11:30。恩師は時間ギリギリまで外来をされ、残りの外来を私に託して、T病院に向かわれた。


私の師匠も何でも内科医だが、本職は呼吸器内科医。なので、師匠の見ている患者さんが入院されるときは、私たち研修医が主治医をすることが多かった(師匠がsupervise)。なので、肺癌の診断がついた方の経過も結構見てきたつもりだったが、恩師の経過は、それまでで一番、あるいは今でも、私の経験した肺癌で一番経過の早いものだった。年末に「在宅訪問診療に移行する(看取りですな)」という事で、紹介状と、画像の入ったCD-ROMが送られてきたが、恐ろしくて1度しかCD-ROMを確認できなかった。


私たちが発見した時には1.5cm大で小さな空洞を伴う病変だったが、11月末にはその空洞は左胸腔の上半分を占めるほどだった。病理診断は未分化大細胞癌。腫瘍マーカーでCA19-9が異常高値だったので、腺がんの性質を持っているだろうことは推測できるが、病理としては、腺構造を全く構成しない未分化な細胞が存在し、組織切片内には多数の細胞分裂像が見られた、とあった。


恩師は1クールだけ化学療法を受けられたが、ただ恩師を衰弱させただけだった。


診療所から訪問診療に伺う事となり、主治医は私となった。初めて恩師のご自宅に伺ったが、先生の収入から想定するに極めて質素なお宅だった。初回の訪問診療は最古参の看護師さんがついてくれたが、訪問診療終了後、あふれる涙を止められなかったようだ。


私もクリスマスイブに、先生のお宅にお邪魔した。仕事帰りだった。お伝えしたいことは山ほどあったが、言葉にならない。ただ先生の手を握って、「まだ先生に、何も恩返しできていないのに」と泣きじゃくったことを覚えている。

先生の呼吸苦は麻薬や在宅酸素でもうまくコントロールできず、年末にT病院に再入院された。


平成26年の仕事始め、1/4は土曜日だった。通常勤務を終え、就寝。


1/5の早朝に私は夢を見た。恩師と、恩師を支えてきた事務長、そして私とでお茶を飲んでいた。お元気になられた恩師を見て、本当にうれしかった。恩師は「でも、あの健診のレントゲン、二人ともわからなかったよなぁ」と笑いながらおっしゃられた。

そしてすぐに目が覚めた。夢だったのか…。


休日には少し早めの時間だったが、リビングに下りると妻も起きていた。

「今日は先生のお見舞いに行こうか」と妻に語り掛けたその時、私の携帯が鳴った。I先生からだった。

「先程、先生がお亡くなりになりました」と。


恩師の病気がわかってから、私はずっと悔やんでいた。二人で診て、二人で「異常なし」と診断した健診の写真。病気が見つかってからもう一度見直したが、やはり私の眼には異常は指摘できなかった。あの時点でわかっていたら、恩師はまだお元気だったのではないか、と。


恩師はその私の心を感じて、最後に私のところに来てくださったのかもしれない。


診療所のスタッフは、恩師が亡くなられたら、私が辞めてしまうのでは、とずいぶん心配していたようだ。でも、辞めるつもりは全くなかった。先生が命懸けで守った診療所、新理事長を支えて、診療所を守っていこう、と決意していた。残念ながら、恩師に大変お世話になったはずの看護師さん二人が、恩師が亡くなってすぐに診療所を去っていった。それについては何も言うまい。


恩師は私に6年間の医学生生活を応援してくださった。恩師が亡くなり、色々なごたごたが積み重なり、私も心を病んで休職してしまった。それでも復職したら診療所のために頑張ろうと思っていた。ただ、復職後提示された給料が、その金額では手取りで初期研修医1年目の手取り額よりも減ってしまい(前年の収入で決まる住民税や厚生年金などで引かれる金額が手取りの金額より大きい)、生活できなくなったため、家族を養うために退職せざるを得なかった。


自治医科大学や防衛医科大学では、6年間の資金援助に対して、9年間の義務を果たせば、貸与、あるいは与えられたお金の返済義務はなくなる。診療所を離れることに心痛はあったが、診療所に10年間働いた。恩師に恩返しはできなかったが、それでも、恩師が亡くなられてからも私は頑張った。先生も許してくださるに違いない、と思って退職した。


今日は恩師の命日である。平成26年に亡くなられたので、来年で先生が旅立たれてから10年になる。


思い出深い日なので、ずいぶんと長文の思い出語りになってしまった。乱文乱筆失礼。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る