第112話 腹水に始まり、腹水に終わる

第2、第4週の土曜日、午前診の担当は私一人だけである。他の曜日は午前診は2診体制なので、私一人で午前診の患者さんを診察するのは(結局全員診察するのだが)、中々に気が重い。「患者さんがたくさん待っているから」と言っても、いつも全速力で診察して、のスピードなので、いつも以上に速く診察することはできない。となると、どうしても患者さんの待ち時間が長くなってしまう。申し訳ないなぁ、と思うのと同時に、「いつまで待たせんねん!」と怒鳴られたらどうしよう、という恐怖心とも戦いながら、外来をしている。


先日の土曜日も一人外来だった。3番目か4番目の患者さん。50代の男性。主訴は「水様便がひどい、不自然におなかが腫れてきている」とのことだった。基礎疾患としてダウン症をお持ちで、グループホームで基本的に生活し、週末は自宅に帰る生活をされているとのことだった。一緒に来院されていたご両親に話を伺うと、数年前に回盲部の壊死と小腸閉塞のため、外科的に回盲部を切除し、回盲部末端で人工肛門を造設したとのこと。その後は毎日ストマから大量の水様便が続き、これではグループホームでは看れない、とのことで、本年4月に人工肛門閉鎖術を施行したとのことだった。その後も水様便が続き、ロペラミドやビオスリー、イリボーなど処方されていたが、5~6回くらいの水様便が続いていることと、食事量が減っているのにだんだん体重が増えていること、何となくおなかが出てきたことが気になるので受診した、とのことだった。ご本人とのverbal communicationはできなかったが、従命動作は可能だった。


腹部診察では、腹部に複数の術後創と、明らかに膨隆した腹部を認めた。触診で腫瘤は触れず、打診は全体的にdullだった。嘔吐も下痢もなく、腸閉塞とは考えにくい。鑑別診断があまり浮かばないまま、「血液検査と、おなかがすごく膨れているので、おなかのCTを取らせてください」と伝え、検査に回ってもらった。

彼が検査に回っている間にもたくさんの患者さんが来て、定期受診の方は、問診、診察で問題なければ定期処方を、臨時受診であれば、問診、身体所見から必要な検査を指示、健康診断で受診された方は、院内ルールで、当日の胸部レントゲン、心電図は結果を説明することになっているので、問診、身体診察の後、それぞれ所見を説明し、患者さんの退室後、カルテと、健診部から回ってくる健診に関わる種々の書類、診断書も回って来ているときには診断書も作成する、というたくさんの書き仕事(当院は紙カルテベース)を行なった。健診については、自費カルテを見ると、カルテ側にはほとんど記載のないことがほとんどだが、私はカルテ側もそれなりにしっかり書くようにしているので、二度手間であると同時に、結構時間がかかる。土曜日は職場が休みの人が多いためか、結構健診の人が多く、時間を取られるのであった。そうこうしているうちに採血結果と腹部CTが出来上がった。血液検査は院内至急項目は限られているため、あまり大したことは言えないが、軽度の低Na血症と、低アルブミン血症(Alb 2.8)以外には問題なく、腹部CTでは腹水がパンパンに張っている状態であった。人工肛門の増設、閉鎖を行なった右下腹部の上行結腸には多少内容物があるものの、その他の消化管には内容物はなく、可動性のある小腸は腹部の中央部に集まってきている状態だった。肝脾には明らかな腫瘤を認めなかった。


腹腔内に固定されていない小腸が、プカプカと浮いて腹腔の中央部に集まる、というのは悪くない所見である。逆に悪性腫瘍の腹膜播種などがあれば、腹腔内の内容物は腫瘍細胞で癒着するので、腹水が溜まっていてもあまりプカプカと浮かんでは来ず、腹水がないときと同じような感じでその場にい続けることが多い。


この患者さんの腹水は、少なくとも、強い悪性を示唆するものではないだろう、と推測した。本来なら、穿刺し、検査に提出するのと、腹水の排液をしたいのだが、如何せん、外来カルテは山積みになっていて、それをする私の時間的余裕がない。


そんなわけで、患者さんとご家族に病状説明。おなかの張りは腹水がたくさんたまっていることで、しかし悪性の腹水を疑う所見ではなさそうなこと、水様便を繰り返しているとのことだが、大腸にも小腸にもほとんど内容物はなく、おそらく、食べたものが素通りで出ていると推測されることを説明した。人工肛門の増設、閉鎖は大学病院で行なった、とのことだったので、大学病院に紹介することと、肝性腹水に準じて利尿剤を処方し、大学病院受診までの間をつないでもらうことを説明し、診察を終了、大急ぎで紹介状を作成し、地域連携室に予約業務を依頼した。


そしてまた通常の診察業務に戻る。ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、とはいかないが、仕事をこなしていった。とうとう終わりの見えた診察時間終了のころに、3日前からの右季肋部痛を主訴に、70代の女性が受診された。普段は別のDr.が定期followをしておられる方で、定期処方は降圧薬、スタチン、睡眠薬程度だったが、少しカルテをさかのぼると、精神科病院からの紹介状があった。それを読み込む時間はないので、とりあえず診察室に入ってもらう。病歴を聞くと、3日前から誘因なく、右季肋部に痛みが出る。痛みは間欠的で出たり消えたりする。増悪因子や寛解因子はない、とのこと。腹部触診では、明らかな圧痛はなく、叩打痛もなし。結膜を見ても黄疸はなし。病歴からは、「軽い胆石疝痛発作」かなぁ?あるいは十二指腸潰瘍かなぁ?という印象を受けた。「検査しようと思うので、血液検査とおなかの輪切りの写真を撮らせてください」と伝え、腹部CTと採血を提出した。その後数人診て、一応診察時間内の患者さんの診察は終了。その人の結果待ちとなった。


しばらくして血液検査と腹部CTの写真ができたが、写真を見てびっくり!この患者さんも腹水が結構な量溜まっていた。しかも先ほどとは異なり、腹水の中に腸管が浮かんでいない。血液検査では細胞の新陳代謝を示すLDHの値がそれなりに上昇していた。肝脾には問題ないが、胃壁とその周囲の脂肪組織が少し濃度上昇があるように見える。CTでわかるような腫瘍性病変はないが、おそらく腹部のmalignancyだろうと思った。ただ、これをすべて患者さんに伝えるわけにもいかない。


以前の職場で、放射線技師の資格を取るために勉強していた事務スタッフに貸しっぱなしになってしまった、Felsonの胸部X線読影の教科書、その本の欄外にいろいろな人の医学的格言が載っているのだが、そのうちの一つに私の気に入っているものがあり、「患者さんに嘘をついてはいけない。ただし、真実を全て伝える必要はない」というものである。私自身は、「これはその通りだ」と思い、常日頃から心がけていることであり、今回もこの言葉通りにお話をした。

「おなかの写真を撮ると、『腹水』と言う水が結構溜まっていました。腹水が溜まる原因は複数あり、現時点で、何故腹水が溜まったのかはわかりません。しかし、このようにたくさんの腹水が溜まる、というのは何か良くない原因があってのことだと思います。カルテを見ると、以前大学病院にかかっていたことがあるようなので、大学病院の消化器内科にお手紙を書きます。専門の先生に詳しく見ていただきましょう」と説明した。


「原因はわからない」とお茶を濁したつもりだが、患者さんは「がんですか?がんですか?」と繰り返し聞いてくる。「腹水の原因となる病気は悪性腫瘍以外にもたくさんあります。うちの病院ではこれ以上の詳しい検査はできないので、大学病院にお願いするのですよ」と繰り返し伝えるが、患者さんの耳には入っていない。ついには「ああ、もうだめだ。娘と一緒に死んでしまおう」という始末。「今の時点では、絶望する必要もありません。自らの命を絶つ必要性もありません。ご心配なのはわかりますが、絶対に自殺はしないでください。大学病院でしっかり調べてもらって、しっかり治療していきましょう。絶対に自殺しちゃダメですよ。私と約束してくださいね」と伝えて、診察を終了し、紹介状を作成した。なるほど、精神科病院から紹介状が来ている、というのはこういうことか、と思いながら紹介状を作成。同日のCD-ROMと採血を準備して地域連携室に予約の依頼をした。


「死ぬ、死ぬ」と言っているが、たぶんそう言っているうちはこの人は死なないんじゃないかなぁ、と勝手に思っている。私がメンタルを崩し、希死念慮を来した時は「死にたい」とは思わなかった。「死んだら、誰にも文句を言われずにこの状況から抜け出せる」という思いだった。自殺する人の多くは「死にたい」のではなく、「置かれている状況から逃げたい」と思って死ぬのだろう、と思っている(もちろん衝動的に自殺を図り、既遂となってしまう人もいるのは事実ではあるが)。一般の内科外来で「自殺」を止める術はほとんどない。抑うつになる人の多くは「まじめ」な人なので、「『自殺はしない』と私と約束してもらえますか」と患者さんに伝え、その約束ができた人は、少なくとも精神科につなぐまでに自殺するリスクは少なくなると考えられている。精神科で治療を受けている人でも自殺する人は自殺する。ここは難しいところである。


閑話休題。この日は朝一番から、最後まで腹水に悩まされた外来だった。最後の患者さんには、ちょっと疲れたなぁ。すべてが終わり、時計を見ると13時を回っていた。14時からはワクチン外来をしなければならない(わぉっ!)。急いで病棟の患者さんに問題が起きていないか確認し、昼ご飯を食べて、ワクチン外来に備えなければ、と思いながら、病棟を大急ぎで覗きにいく私であった。

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