第109話 地獄への道は善意で敷き詰められている

いつもの通り、今朝も出勤の車の中で、NHKラジオを聴いていた。土曜日の6:40頃からは、各界で著明な人のトーキングエッセイが流れている。今日は映画監督、ドキュメンタリー監督で著明な方(名前を忘れました。すみません)が登場していた。現在映画監督として撮影中、来年公開予定の「千葉県福田村事件」を題材にお話をされていた。


教科書的な知識ではあるが、関東大震災の後、「朝鮮人が襲ってくる」との流言飛語が飛び、たくさんの朝鮮出身者が理不尽に殺された、と記憶している。それとある種つながりがある話だが、関東大震災の4日後、たまたま千葉県福田村に来ていた香川県からの薬売りの一団(15人)が、「言葉が違う」「訛っている」ということを理由に「朝鮮人ではないか」と疑われ、その村の自警団(200名ほどいたらしい)から集団暴力を受け、子どもを含む9人(一人は妊婦だったため、胎児を入れると10人)が犠牲になった、という事件である。事件後、8人の自警団員が検挙されたが、一旦有罪になったものの、2年後に昭和天皇即位の恩赦で全員釈放、となったとのことだった。


もちろん背景には、朝鮮人に対する差別意識や、行商人に対する差別意識があったとのこと。ただ、その方は、加害者側に視点を移し、日常は常識ある社会人であり、家庭人であったはずの人たちが、何故そのような虐殺に至ったのか、を描きたいとのこと。


その方は、ちょうど地下鉄サリン事件の前後、オウム真理教の内部でドキュメンタリーを撮影していたそうだが、氏曰く、「驚いたことに、私の出会った信者はことごとく真面目で礼儀正しく、親切で、心優しい人たちだった」とのこと。氏の感想は正しいと思う。「宗教」の存在意義は、「正しい生き方とは何か」という問いに何らかの形で回答するものだからである。そのような問いを自身の内面に意識し、その回答を求める人が、不真面目で刹那的な生き方をするはずがないのである。ただ、残念なことに、指導者だけが邪悪であった。教団に敵対する人を殺害することを「ポアする」と言っていたそうだが、それも、「誤った思想を持った人を、現世の命を絶つことで正しい道にいざなう行為」とされていた。なので、純真な信者ほど、教団を糾弾する人たちを「正しい道」にいざなうため、その人たちを救うという善意の下、「ポア」していったわけである。


「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉がある。これはおそらくそういうことを指しているのだろう。旧統一教会も同様である。その信仰を持たない人は悉く「サタン」である、という教えであり、親子の愛情や人を恋する心そのものさえ「サタン」の一言で切り捨ててしまう。そして、救われるために他の人を犠牲にしても、教団に寄付をするのである。別のところでも書いたが、学生運動の残滓である革マル派や中核派などが、燃え残った炭のように細々と活動していてもあまり何も言わなかった大学当局が、新入生に対して、旧統一教会の大学内組織である「原理研(原理研究会)」に対しては、「原理研に注意を」と通達していたほどであり、金は搾り取られ、精神は破壊され(自分を愛しんで育ててくれた親を「サタン」呼ばわりするわけである)、30年近く前でも被害は相当であったようである。


閑話休題。そのような落とし穴に落ちないためにはどうしたらいいのだろうか?非常に難しい問題ではあるが、自分自身が、そのような歴史や現代社会における問題を常に意識すると同時に、自らの中に、客観性を持った倫理観、正義感を確立するのが大切なのであろう。もちろん、それは極めて難しいことではあるのだが。


出勤時の車の中で、ラジオを聴きながらつらつらそんなことを考えていた次第である。

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