第二章 下界人
下界人(1)
いつものように朝礼を終え、授業に赴き、気つけばクリスちゃんと一緒に屋内庭園に足を運んでいました。
あれから一週間が過ぎましたが、私もクリスちゃんもあの日の出来事が脳裏に焼き付いて離れませんでした。
朝礼で主教様と神父様の顔を見る度に、美術の授業でラファエーラ先生と顔を合わせる度に、私達は心の何処かで『本当は見られていたのではないか』と恐怖を覚えて震えました。
「どうしてあの時、王妃殿下は私達のことを黙っていらしたんだろう。」
胸の奥底から出た呟きに、紅茶を一口飲み込んでからクリスちゃんがおもむろに口を開きました。
「考えるのは止しましょう。」
「でも――」
「もううんざりなんですの!」
食い下がろうとした矢先、クリスちゃんは眉根を寄せてテーブルを強く叩きました。
「毎日毎日朝から晩まで、主教様やラフェ先生に会う度に心臓はキュッとなるし、毎晩ベッドに入るとあの日の事を鮮明に思い出して寝付けないし!もういい加減忘れたいのよ!」
涙目に語るその姿に、私はただ受け身で聞いていることしか出来ませんでした。
「あの日、私達は何も見なかった!何もなかった!それでいいじゃない!あの時下界落ちしたのは赤の他人でしょ?私達の知人でも友人でも、ましてや家族でもない。それなのに、何で私がこんなにも辛い思いをしなければいけないの?私が何をしたっていうのよ!あの日貴女を追いかけていなければこんなことには――ッ!?」
そこまで言ってクリスちゃんは両手で口を押さえました。自分で自分に驚いている。そんな様子で立ち尽くしていました。
「ごめん、ごめんね……。」
ああ、私は何て馬鹿なんだろう――。
私もクリスちゃんと同じように毎日怖かったし、忘れた方がいいのだろうと考えていました。
でもそれ以上に私の心の中には、あの洞穴で今まで何人が下界落ちしたのだろうとか、あんなことが罷り通っている理由は何なのかとか、そういったことばかり考えていました。
だけど、クリスちゃんは違ったんです。
クリスちゃんは私よりも繊細で、もっと純粋にあの日のことに恐怖し怯えていた。
そのことに私は今の今まで気づいていませんでした。
大切な親友の気持ちにも気づけず、寄り添ってあげることもできない。
こんなことで次期最優秀淑女なんて笑い話もいいところです。
「ち、違うのユナウ!今のは――」
私は自分の情けなさに耐えられず、屋内庭園を出ていきました。周りも気にせず一度も振り返りませんでしたが、クリスちゃんが追いかけてきていないことだけは分かりました。
「ハァ……ハァ……。」
息も絶え絶えで、気がつくと私は大庭園にいました。特に考えがあって来たわけではありませんが、私は心の何処かで期待していたのだと思います。
ここに来ればきっとあの人に会える――。
「ユナウさん?」
そして、その願いは直ぐに現実のものとなりました。
「ガイラさん。」
どうして貴方は求めている時に来てくれるの?
誰の気持ちをも察して寄り添ってくれる。
貴方こそまさに最優秀にふさわしいと思わせる。
同じ次期最優秀と言われても、私はそんな風にはなれません。
「ユ、ユナウさん!?どうしましたか!?私、何か気に障ることでも!?」
珍しく慌てた様子でガイラさんは私のそばで手をバタバタさせました。
その様子と、涙が自分の頬を伝っていく感触で、私はようやく自分が泣いているのだと理解しました。
「違うんです。私、私……。」
手で涙を拭いながら、言葉を詰まらせながら――。
そんな私をガイラさんはベンチに座らせ、落ち着くまでそばにいてくれました。
そこで私はこれまでの経緯をガイラさんにお話ししました。
「なるほど、そんなことが……。」
「あまり驚かれないんですね。」
ガイラさんは、私とクリスちゃんが禁足の森へ入ってしまったことには驚いていましたが、ドウケツの洞穴のことや下界落ちのことにはほとんど驚いている様子はありませんでした。
「もしかして知っていたんですか?」
その問いに、ガイラさんは難しい顔で目を瞑ったまま黙ってしまいました。
ガイラさんはそもそも公爵家の人間です。下界落ちやドウケツの洞穴について、聞かされていてもおかしくはありません。もしそうなら、私の話に対してのこの反応も頷けます。
「実は――」
梅雨のじめじめとした生温い風が肌に当たる感触を覚えた後、ガイラさんはゆっくりと語り始めました。
「ドウケツの洞穴の噂や、下界落ちの噂を学院内に流したのは私なのです。」
その一言に、私は愕然としました。
確かに思い返してみると、下界落ちの噂は学院に入って数年が経ってから耳にするようになった気がします。
そんな恐ろしい噂なら入学して直ぐに耳に届いてもおかしくないはず。
ですが、実際卒業していった先輩方が下界落ちの話をしているのを聞くようになったのは、私が三学年か四学年に上がって暫くしてからだったように思います。
それはつまり、その頃に噂が広がり始めたということ。
でも、それがまさかガイラさんが発信したものだったなんて。
「私の母上は、私が学院に入る二年ほど前に下界落ちに遭いました。王法規律に二度反してしまったからです。」
「えっ!?でも、ガイラさんのお母さまのミランダ様って――」
「ミランダさんは父上の再婚相手であって、私の実の母親ではないのです。」
知りませんでした。
幼くはあったもののその頃の記憶ははっきりと覚えています。
しかし、あの頃の私にとっての世界は、私とお母さまとお父さま、そしてクリスちゃんとそのご両親だけしかありませんでした。
まだこの国のことをほとんど知らなかった私にとって、王家や公爵家の出来事は別世界のお話であって、気にも留めていませんでした。
「母上は聡明なお方で、何よりお優しい方でした。でも、たまに疎放なところもあって、こと料理に関してはシェフに任せきりだったこともあり不得手だったようで、時折作る手料理は口にすると顔を引き攣らずにはいられないようなものでした。」
ここ一カ月近くガイラさんとお話しをしてきましたが、こんなにも微笑ましく話すガイラさんをこの時私は初めて見た気がしました。
「素敵な方だったんですね。」
「ええ、とても。」
優しい声でそう呟くと、ガイラさんは何処を見るでもなく遠くに目を向けて、そして先程までとは打って変わって表情を強張らせました。
「ですが私が六つだった年の暮れに、当時の主教様の従者であったシスター・エリメラ――つまり、現在の主教様が屋敷にいらしたのです。」
「主教様が?」
そこまで聞いた時点で、その後ガイラさんのお母さまがどういった目にあったのか、あの日の下界落ちの一部始終を見た私には容易に想像がつきました。
「主教様が仰るには、母上は正義の門に許可なく近づき下界人と内通しているとのことで、禁忌に触れることだと、罰金を科した上で次はないと警告しました。しかし、父上はもちろん当人である母上にも覚えはなく、かなり言い争っていたのは今でも覚えています。」
「いったい何処からそんな話が出てきたのでしょうか?下界人と内通なんてあまりにも荒唐無稽というか、非現実的過ぎて信じられませんが……。」
「分かりません。ただ、母上が本当に下界人と接触していたかは別として、母上は確かに知的好奇心溢れる人ではありました。王法規律ではそもそも下界のことを調べようとすること自体が禁じられています。仮にも公爵の妻である母上が禁忌に触れている、それを良く思わない者は多かったと思います。」
王法規律の第二条――そもそもどうして下界について興味を持ってはいけないのか。
生まれた時からそう教えられてきたので今まで疑問に思うことは一度もありませんでした。
しかし、ここ数日の出来事で不自然だと思うことが多くなりました。
この国の理念の一つには、紳士・淑女として国民は多種多様なあらゆる知識、見聞、経験を常日頃から広げ、獲得するよう励むこと、というものがあります。
実際学院では、授業以外のことでも先生方に提案すれば大抵のことはやらせてくれますし、必要であれば学院外から資料に出てくる物の現物等も調達してくれます。
ですが、そんな寛容な学院でも下界に関することやそれを想起させるようなことは発言すら許されません。
これは国の理念に反するように思えます。
「ユナウさん?」
ふと呼ばれて我に返ると、すぐ横にガイラさんの顔があり、私は突然のことに顔がカッと熱くなるのを感じました。
「ご、ごめんなさい!私ったら、お話しの途中で考え事なんて……。」
「いえいえ。こちらこそ、あまり人にする話ではありませんでしたね。」
「そんなことないです。お母さまとの大切な記憶、私にもあるので、ガイラさんのお気持ちはよく分かります。」
「そ、そうですか。」
私が笑みを向けると、ガイラさんは恥ずかしそうに頬を指で掻きました。
「母上はその後もあらぬ疑いを掛けられ、結果下界落ちに遭いました。」
一呼吸置いてから、ガイラさんは正面にある像の方に目を向けて話を続けました。
「本当に禁忌を犯したかどうかも分からないのに罰するなんて……。」
「はい。ですが、私が本当に許せないのは母上を下界落ちにさせたことではないのです。」
「それは、どういう――?」
「母上が下界落ちさせられたことは確かに許せませんが、疑われるような行いをした母上にも問題は少なからずあったのだと思います。公爵家に嫁いだ以上、日頃の言動を注視されるのは宿命です。母上もそれが分かった上で父上と結婚していたはずですから、それについては百歩譲ればまだ納得できます。」
ガイラさんはもう立派な公爵家の跡継ぎなのだと、私はこの時改めて実感じました。
仮に私がガイラさんの立場だったとしたら、おそらく私はお母さまを下界落ちさせた主教様達を許せなかったと思います。
けれど、ガイラさんは自らの気持ちを押さえてまで公爵家の跡継ぎであることを自覚し、国の規則に従って無理矢理にでも自分を納得させている。
この人に比べたら私はまだまだ幼いのだと思えてしまう。だからこそ、私では釣り合わないと、結局この前の告白を私は断りました。
「ガイラさんが許せないことって何ですか?」
こちらの問いに、ガイラさんはグッと強く瞼を閉じると、キリッと見開いてからその口を開きました。
「私が許せないのは、母上の行いを、その存在を消されたことです。」
「存在を……消された?」
「母上が下界落ちになった後、父上は直ぐに再婚しました。それ自体は公爵の地位や家の面子の問題もあったと思うので仕方のないことだと思います。ですがそれよりも、公爵家から下界落ちを出してしまったという汚点を国民に認知されない為に、王家やそれに関わる者達が母上の存在を揉み消したことが私は何よりも許せないのです。」
感情に任せて憤った表情、途端に荒々しくなった語気――。
この時のガイラさんはまるで別人のようでした。
「スイルリード公爵の妻としてあれだけ認知されていた母上を、具体的にどうやって国民の記憶から抹消させたのか、それは分かりません。ですが、私はこの件に関してだけは王家に異議を唱えようと考えています。」
「でもそれは……。」
「はい。王法規律第一条に触れることになります。ただし、私が正式に父上から爵位を受け継ぎ、他の三公爵と元老院、そして王家の何方かから賛同を得られれば、母上が存在したという事実を取り戻すことが出来ます。」
「確かに……そうですよ!王法規律の第一条には異議を申し立てる方法もちゃんと書かれていました!」
「そうです。そして私はその為だけに、卒業式の日に公爵の地位を父上から頂けるように、今まで学院で生活してきたのです。」
王法規律第一条第三項――その一節は、残酷な現実に為すすべなく打ち砕かれそうだった私の心に希望の光を射してくれました。
これは単にガイラさんのお母さまの件に救いがあるというだけではなく、ガイラさんが公爵となり権限を行使できるようになれば、下界落ちそのものを無くせるかもしれません。
「私も力になります。」
私のその言葉に、ガイラさんは深く頭を下げて一言お礼を告げてくれました。
「あっ、ガイラさんって旋毛が二つあるんですね。」
「え?ええ。」
私としては単に気づいたことを口にしただけなのですが、急な話題の転換にガイラさんは少し戸惑っているようでした。
「実は私も旋毛が二つあるんです。ほら。」
私はガイラさんに見えるように前屈みになりました。
「本当ですね、確かに二つあります。ですが……。」
ガイラさんの引き攣るような口調に、私はそこでようやく今の構図に気がつき咄嗟に頭を上げて顔を反らしました。
「…………。」
「…………。」
そこから暫く恥ずかしさと沈黙が場を包みました。
昼休みだというのに、こういう時に限って周りに誰もいないなんて、ますます気まずくなってしまいます。
「そ、そういえば、昔お父さまから聞いた話ですが、旋毛が二つある人は頑固で腕白な人が多いらしいですよ!」
「そ、そうなんですね!確かに私は当てはまるかもしれません。ユナウさんには当てはまらないような気がしますが……。」
「そ、そうでしょうか……。」
無理矢理話を繋げようとするものの、早々にまた沈黙してしまいました。
先日告白を断ってしまったことが余計に今の状況、この気まずさに拍車を掛けていました。
「ぷっ、ふふふ。」
私が目線を下に向けていると、今度はガイラさんの失笑が沈黙を破りました。
その様子に私も釣られて笑ってしまいました。
すると、不思議にも直前まで感じていた気まずさがスッと消えていきました。
「はあ、すみません。何だか急に可笑しくなってしまって。やはり私達は似た者同士かもしれませんね。」
「そうですね。色んなところで共通点が多い気がします。」
場の空気が一変したのを感じ取ると、自然と口から言葉が出てきました。
「先日はせっかくの申し出を断ってしまってごめんなさい。」
「いえいえ。私の方こそお返事を催促してしまい申し訳ありませんでした。」
「そんな、あれは仕方がないですよ。ガイラさんのお気持ちを考えれば当然のことだと思います。」
私はスッと立ち上がって向き直り、ガイラさんを正面から見つめました。
「結局、スカーレットさんとは婚約することに?」
「父上からまだ連絡は来ていませんが、恐らくはそうなると思います。」
私に合わせてガイラさんも腰を上げてゆっくりと前へ歩き出しました。
「ごめんなさい。」
「そんな、本当に謝らないで下さい。公爵家の人間として生まれた以上、このような不自由は今に始まったことではありません。それに、今こうして貴女と話していられるだけで私は十分幸せです。」
ガイラさんは何処までいっても優しい。
器が大きいとかそういったことだけではなくて、彼自身の性格から出る言動は、周りの人間に彼のようになりたいと理想を抱かせる――。
それは正に彼が最優秀紳士であると同時に公爵足り得るのだと、そう思わせるものでした。
「ガイラさんは本当に凄い人です。」
「そ、そうでしょうか?」
私がまじまじと紡いだ言葉に、照れるのを隠すようにガイラさんは目の前の像に右手を突きました。
ガイラさんもそんな風に恥ずかしがるのか、と意外な一面に親近感を覚えます。
「そういえば、この像って一体誰なんでしょうか?」
「え?」
何の気なしにふと思いついた疑問を投げかけると、私達は二人して像を見上げました。
「大分昔のもののようにも見えますが、この像に関して何か教科書等で見た記憶が一切ありません。」
「確かにそうですね。私も聞いたことがありません。昔父上の書斎で見かけたような……レクロリクスとか、確かそんな名前の像だった気がしますが、どうだったでしょうか。記憶が曖昧過ぎて思い出せません。」
「大庭園の景観には馴染んでいるように思いますが、学院にある他の像でもこれほどまでに古びたものは見たことがありません。この学院を建てた方とかでしょうか?」
「どうでしょう?ですが、そう考えると何か違和感がありますね……。」
ガイラさんは何やら難しい顔をしていました。
何か引っ掛かることでもあるのでしょうか。
ガイラさんも知らないとなると相当マイナーな方なのか。
仮にそうだとすると、何故こんな所に像があるのか。
レクロリクスという名前にも聞き覚えはありません。
「胸のところ、マントのつなぎ目の部分……セメントでしょうか?あそこだけ違う材質のもので固められていますね。」
ガイラさんにそう言われて像の胸部を見てみると、確かにマントのつなぎ目部分がメダル一つ分程の円形の大きさであからさまに後から固めたような跡がありました。
「古いものですから、風化して欠けてしまった部分を補修したんでしょうか?」
「その可能性は十分考えられますが、それにしては随分と杜撰に補修されているように見えますね。」
「補修したのではないとしたら、例えば誰かが意図的に砕いてその部分を埋めた、とかでしょうか?」
「砕いたというよりは、まるで何かを隠すために上から固めたような……。」
私にはそこまで深い意味はないように思えましたが、ガイラさんにはどうしても引っ掛かることがあるようでした。
もしかしたらこの像の正体の不明さを、ガイラさんのお母さまの存在の消され方と重ねているのかもしれない。
ガイラさんのその真剣な表情から、私はそう思いました。
「か、考え過ぎですよ!古いものだから、きっと文献もいつの間にか無くなってしまっているだけですよ、きっと!」
「そうでしょうか……。」
「そうですよ!ほら、昼休みの終わりを告げるチャイムです!早く午後の授業に行かないと遅れちゃいますよ!」
そう言って考え込むガイラさんの背中を押し、私は慌てて別れを告げました。
怖くなってしまったからです。
何故だかは分かりません。
ですが、ガイラさんの考えを汲み取った時に直感的に感じてしまったんです。
その考えはきっと当たっている、と――。
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