下界人(2)
ガイラさんと別れて午後の授業を終えたその晩、私は再び大庭園に足を運んでいました。
「お昼にガイラさんが言っていたのは、確かこの辺りのはず……。」
あの日からずっと気になっていたことがありました。
下界落ちで落とされるあの穴――あれは本当に奈落なのか。
もしかしたら落ちた人が自力では上がれない高さなだけであって、外から人が手を貸せば助けられるかもしれない。
希望的観測ではあるものの、もし当たっていたら、まだ奇跡的にあの人が生きていたとしたら、助けられるかもしれない。
そう思うと動かずにはいられませんでした。
下界落ち――あれはあってはいけないものです。
あの日初めて目にした瞬間からはっきりとそう思いました。
あんなことが数百年、下手をすればもっと、今まで平然と行われてきたなんて正直考えたくもありません。
「ありました!」
ガイラさんから聞いた、茂みに隠れているせいで破けたままになっているフェンスの穴を力一杯引っ張ると、丁度ヒト一人が潜れる程度に隙間が出来ました。
その隙間を衣服が引っ掛からないよう慎重に潜ると、目の前には先日と全く変わらない真っ暗な獣道が続いていました。
再び禁足地に足を踏み入れたという事実とあの日の恐怖が相まって、私は益々手に汗を握りました。
「行きます!」
誰に言うでもなく恐怖に打ち勝つために気合いを入れると、記憶を頼りにゆっくりと洞穴に向けて歩みを進めました。
万が一でも誰かに見つからぬよう灯りを持ってこなかった為、行けども、行けども、真っ暗で同じ所をぐるぐると回っているのではないかと錯覚してきました。
それでも恐る恐る進んでいくと、ようやく見覚えのある道に出ることが出来ました。
それが分かると怖さも薄まり、私は未だ暗い道を足早に駆け抜けました。
「見つけた。」
洞穴の入口に着いた瞬間、あの日の出来事が一瞬で甦りました。
足から力が抜けそうになるのをぐっと堪え、喉に溜まった唾を飲み込んでから息を整えると、胸に手を当てて再度深呼吸を一回――。
「よし。」
覚悟を決めて私は洞穴の中へと入っていきました。
中はここまでの道よりも一層真っ暗で、僅かに吹き通る風、天井から滴り落ちる水滴といった自然の音だけが静寂に満ちたこの空間に響き渡っていました。
人気がないことを確認しながら、私はごつごつとした湿った石床に足を滑らせないよう慎重に奥へと進んでいきました。
「ここは……。」
そしてとうとう目の前にあの忌まわしい穴が姿を現します。
暗い中でも分かるほどこの穴は深い。
一瞬でそれを理解しつつも、それでも覗かずにはいられませんでした。
しかし、落ちない程度に前屈みになって穴を覗いてみても、人どころか何一つ視認できるものがありませんでした。
もし仮にこの穴が本当に下界へと繋がっているのだとしたら、この穴は空洞という事になります。それなら風が吹き上がってきても良いものですが、そんなものは一切感じません。
それほどまでに深いのか、それともやはり底があるただの穴なのでしょうか。
「…………ぅ……。」
「――!?」
今一瞬、人の声が聞こえたような気がして、私は心臓が飛び跳ねました。
もし主教様達が今ここに来たら今度こそ見つかってしまう。
そうなってしまえば最早言い逃れは出来ません。私もあの人と同じように――。
死が脳裏を過ると急に手足が震え始め、恐怖がどんどん湧き上がってきては体から力が抜けてしまいました。
しかし、それに反して感覚だけが研ぎ澄まされていきます。
真っ暗でほぼ何も見えなかった視界は気持ち鮮明になり、水滴が地面に落ちる音が破裂音にも似た音のようにしっかり聞こえます。それに何も感じなかった鼻腔が何やら異臭を掴み取ってヒクヒクと震え始めました。
「…………み…ぅ……。」
またもや聞こえてきたそれが、今度は人の声だと確信に変わりました。
「この声、主教様達の声ではありません!」
間違いなく人の声であり、そしてそれは聞き覚えの無い声。
それはつまり、下界落ちに遭いかけた人が何らかの理由で落ちずに生きている、という状況をこの時私は瞬時に想像しました。
「もう一度、もう一度だけでいいから声を聞かせて!」
私は恐怖も忘れて声を張りました。
声は洞穴に反響し、そしてそれが止むと、私は直ぐに目を閉じて音に耳を傾けました。
「…………み……ず……。」
本当に薄っすらとした掠れた声――けど、今度ははっきりと聞こえました。
「正面――この穴の反対側!」
声の出所が分かると、私は居ても立ってもいられませんでした。
穴の縁を沿うようにして反対側へと回り込んで声のした辺りに目を向けました。
「見つけまし……た?」
穴の反対側は行き止まりで狭い空間があるだけでした。
それだけに声の主を見つけるのは容易かったのですが、私はその姿に言葉を失ってしまいました。
岩壁にぐったりともたれ掛かった〝それ〟は、髪が数メートルは伸びており、手は血が固まっているのか真っ黒で指がないように見えます。
足は何故か靴の爪先部分だけが削れたようになくなっており、生足がむき出しで手と同じく指が真っ黒でした。
そして何より体が全体的に痩せ細っており、ほとんど骨と皮だけ――。
その姿はまるでミイラのようでした。
「これって……生きているの……?」
人と認識するのにすら時間を要するような見た目の〝貴方〟を、私はこの時生きているとは到底思えませんでした。
「…………みず………。」
しかし、その言葉を再び聞いた瞬間私は我に返りました。
見た目なんて関係ありません。この人は間違いなくまだ生きています。
「持ってきておいて良かった。」
私はすぐに鞄から水筒を取り出し、迷いなくその蓋に水を入れました。
先日落とされた人がもし生きていたら、水や食糧を必要としているはず。
そう思って念のため持ってきておいたのが功を奏しました。
しかし、水の入った蓋を口に近づけても飲もうとする気配がありません。
本能で水を欲してはいるものの、最早それを飲む気力すら残っていないのでしょうか。
「何か、飲んでもらうのに良い方法は……。」
必死に思考を巡らした末に、思いついた方法が一つだけありました。
「ですが、そんなはしたないことを……。」
それをするのには恥ずかしくて躊躇してしまう私がいました。
以前クリスちゃんに借りた本にあった王子様とお姫様の恋物語。
その中には、魔女の呪いで長い時を眠り続けるお姫様に、王子様が聖水を口に含んで口移しでお姫様に飲ませて呪いを解くシーンがありました。
「いいえ、人命がかかっているんです!はしたないなんて思っている場合ではありません!」
私は思い切って水を口に含みました。そして目の前のその人に自分の顔を近づけます。
しかし、直前で私は再び躊躇してしまいました。
髪が恐ろしい程に長かったのですっかり女性だと思っていましたが、なんとその人は男性だったのです。
それに加え、こうしてまじまじと見てみると、頬が痩せ細って窪んでおり、血色も悪い。にもかかわらず、整った顔立ちなのが分かります。そのことが余計に私の心に恥じらいをもたらしました。
殿方にキスをするなんて――。
そんな事は当然したことがありませんし、キス自体も昔お母さまに頬やおでこにしてもらっただけで、自分からしたことなんて一度もありません。
ましてや好き嫌い以前によく知りもしない男性とキスを、それも口にするなんて――。
そんなことを考えていた時、それまで壁にもたれ掛かっていた男性の上半身がばたりと床に力なく倒れました。
私は慌てて男性を仰向けに寝かせて軽く揺すりましたが、男性はピクリとも反応しません。
掴んでいた腕からは全く生気が感じられず冷たい。
まだ生きていること自体が奇跡であり、彼にはもう一刻の猶予もないのだと、私はこの時になってようやく思い知りました。
気づいた時には私は既に彼の唇に自分の唇を重ねていました。
救急医療の授業で習った人工呼吸の要領で口に含んでいた水を彼に飲ませ、そしてまた水筒から水を汲み、口に含んで彼に飲ませる――。
意識の無い相手に飲ませるのは難しくて時間こそ掛かってしまったものの、何とか十分といえるであろう量の水を飲ませることは出来ました。
「これで気がついてもらえたらいいのですが……。」
気持ち顔色は良くなったような気はしますが、この夜に彼が目を覚ますことはありませんでした。
「主よ、どうかこの方が再び目覚めますよう、どうかお力をお貸し下さい。」
私は祈りを捧げてからその場を後にしました――。
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