下界落ち(5)
大庭園には本当に多種多様な草花があり、ゆっくり歩いて回るだけでも気分転換や考えを巡らすには持って来いの場所なのだと改めて感じます。
「どうするのが一番良いのでしょうか。」
ガイラさんと別れてまだそんなに時間も経っていませんが、果てしない時間大庭園を歩き回った気がします。
「私のこの気持ちはいったい何なのでしょうか。」
これが〝好き〟という感情なのでしょうか。
それとも私にはない考え方や知識に新鮮さを覚えて楽しいと感じているだけなのか。
考えても、考えても、一向に答えは出ませんでした。
ジェシカさんのことは私も覚えています。
直接お話ししたことはありませんが、最優秀淑女の候補としてよくお名前をお聞きするようになってから彼女のことはその気がなくても目に、耳にするようになりました。
優しく、情に厚く、でも穏やかで、外見も美しい――。
まさに淑女を体現した姿という印象です。
あの方と自分を比較しようものなら全てにおいてジェシカさんの方が上回っていると思えてしまいます。
「どうしたらいいのか、全く分かりません。」
草花に問いかけても返事は返ってきません。
一人で思い悩んでいてもきっとこれ以上答えは出ないと思いました。
残された猶予も今晩が明ければあと一日しかありません。
「クリスちゃんに相談しましょう。」
決心して女子寮に戻ろうとしたその時でした。
「あれ?ここって……?」
私は大庭園を歩いて回っていたはずですが、辺りを見回すと四方何処を向いても木々が生い茂っているだけで景色が全く同じでした。
これでは方角も何も分かりません。
それに何より、大庭園にはこんな森のような場所はなかったはず――。
「森!?」
その単語が脳裏を過った瞬間、私は嫌な予感と重度の不安に駆られました。
「ここはもしかして【禁足の森】なんじゃ……。」
学院内を図示しようとした場合、南に正門があり、東に女子棟、西に男子棟、中央に共用の中央棟があり、それらは塀によって囲まれています。
では北は――?
成人となって学院を卒業するまでは学院から外に出ることは許されません。
しかし、学院の敷地自体が広いため隔離されているという感覚は全くと言っていいほどありません。
入ることを制限される場所も、せいぜい男子は東側、女子は西側だけで、あとの場所は自由に行き来できますし、誤って入ってしまったとしても少し指導を受けるだけで罪に問われたりはしません。
しかし、唯一学院内で立ち入ることが禁忌とされている場所があります。
それが北側――学生達の間で【禁足の森】と呼ばれている場所です。
禁足の森は、中央区域の北にある【大庭園】の北側と隣接して広がっているのですが、普段はフェンスがあるため学生は足を踏み入れようとしても入れないようになっているはずなのですが、どうしてか、今私はそれを超えて入ってしまったようです。
「何で……どうして……?」
生い茂る木々で月明かりすら阻まれているせいで、先は真っ暗で何も見えません。
ですが、怖がっている暇はありません。
消灯の時間も近いため、今は一刻も早くこの森から出なければなりません。
何より間違ってもこんなところで先生方や他の大人に見つかったりすれば、そんなことになったら怒られるどころの騒ぎではありません。
恐怖に押し潰されそうになりながらも、どの方角から来たのか、自分の通って来た痕跡を必死に探しました。
しかし、それでも足跡一つ見つからず途方に暮れた――そんな時でした。
「ひゃあ!?」
急に肩に何かが乗る感触を覚え、私は叫び飛び跳ねてしまいました。
「ク、クリスちゃん!?どうしてここに――!?」
クリスちゃんは大きく開いた私の口に手を当てて、反対の手で人差し指を自身の口にあて、しーっと黙るように訴えかけてきました。
私が頷き、落ち着きを取り戻したのを確認すると、クリスちゃんはそっと押さえていた手を離して一息ついてから眉根を寄せました。
「ユナウ、貴女自分が何しているのか分かっているの!?こんなところに入って先生方に見つかりでもしたら、あなた【下界落ち】になるわよ!?」
般若のような剣幕でクリスちゃんは私を怒鳴りつけました。
「ク、クリスちゃん、声!」
バサバサと木々を揺らして飛び立つカラス達の音でハッと我に返ったようにクリスちゃんは自分の口に手を当てました。
「ごめん、クリスちゃん。心配掛けちゃった……よね?」
「当たり前でしょ。全く貴女って人は……。」
「でも、どうしてここが分かったの?」
「そ、それは……。」
ユナウの問いに、クリスティーナは誤魔化すように口を尖らせて目を逸らした。
クリスティーナは寮からユナウを追い出した後、やはりどうしても二人の密会が気になってしまい後を追いかけ、物陰に隠れて二人の会話を聞いていた。
その後、別れた後もユナウがなかなか寮に戻ろうとしなかったので、偶然を装って上手く鉢合おうと機会を窺っていた所に、ユナウが禁足の森に入っていくのを目撃したため、止めようと追いかけて今に至っている。
しかし、盗み聞きしていたなどと到底言えるはずもなく、クリスティーナは何とか誤魔化そうと必死に思考を巡らせるものの何も思いつかず、ただただキョドっていた。
そんなクリスティーナの様子をユナウは不思議に思うも、そんなことを追求するよりももっと聞きたい疑問が次々と浮かび上がりそれどころではなかった。
「それよりも、クリスちゃんはどうやって禁足の森に入ったの?」
その問いに、クリスちゃんはそれまでの感じとは一変させて顔を顰めました。
「開いていたのよ、フェンスの扉が。」
「え?それってどういう……?」
「私にも分かりませんわ。普段はフェンスに鍵がしてありますし、鎖や外付けの南京錠で扉は固く閉じられていますわ。開いているだなんて今まで一度も見た事ないですもの。」
「扉が、開いてた……?」
クリスちゃんの話でどうして気づかぬうちにこんな所に入り込んでしまったのか大体の理由は想像できました。
周りを気にせず盲目になるほど悩んでいた私は、禁足の森への扉が開け放たれていることにも気づかず無意識の内に運悪くそこを潜り抜けてしまったということでしょう。
「それってつまり――。」
「そう言うことですわ。」
それを理解した瞬間、私は先程までとは比べ物にならない恐怖に襲われました。
手には嫌な汗が滲んできて、足は途端に竦んで震えてきました。
「シャキッとなさい!とにかく誰かに見つかる前に早くここを出ましょう。」
泣きたくなる気持ちを抑え、私は頷いてクリスちゃんの手をギュッと掴みました。
その時、ふと少し離れた先に灯りのような光が揺れ動いているのが目に留まりました。
「ユナウ!」
クリスちゃんに小声で名前を呼ばれ腕を下に引っ張られた瞬間、私は即座に灯りの正体に感づきました。
茂みに身を隠しながらゆらゆらと揺れながら近づいてくる灯りを見つめていると徐々にシルエットが見え始め、終いにはくっきりとその姿が見えました。
「さっきやたらと鴉が飛び立ったのはこの辺か?」
ランプを持った大人が一人。
その人は美術のラファエーラ先生でした。
すぐ傍まで近づいてきましたが、どうやらこちらには気づいていない様子です。
「よく探して下さいよ。消灯前なのにフェンスの扉を開けっ放しにしたのはラファエーラ、貴方なのですからね。」
奥から更にもう一人の大人が現れ苦言を漏らしているのが聞こえてきました。顔はよく見えませんが、声と恰好からして恐らくは教会の神父様でしょう。
「もしも生徒がこの森に入っていたら大問題ですよ。」
「大丈夫だと思いますけどねえ。この森へ入ることは学則や王法規律で固く禁じられていますし、仮に入ったとしても【ドウケツの洞穴】に辿り着く確率なんて低いと思いますけど……。そもそも【下界落ち】が恐ろしくて近づこうとする生徒なんていないでしょう。」
「しっ!言葉が過ぎますよ。万が一にも誰かに聞いていたらどうするんです?私達もただでは済みませんよ。」
「し、失礼しました!」
「【ドウケツの洞穴】の存在は学生には本来秘匿事項です。【下界落ち】についてもそうですが、どこから、いつ漏れたのか、学生達の間では都市伝説だの、作り話だのと伝わってしまっています。肝試し感覚で入ろうとする生徒が一人くらいいてもおかしくありません。」
「は、はあ。」
先生と神父様の話は私達にはよく分かりませんでした。
「ドウケツの洞穴……それに下界落ちって――。」
あるのかどうかすら怪しい、噂でしか聞いたことがない言葉。
それを先生方が口にしているというだけで私は恐ろしくなりました。
「いつまで掛かっているのですか?」
心臓の鼓動が音を激しく立てる中、更に聞き覚えのある声がしたので茂みの中から覗いてみると、そこには新たに三人の大人がいました。
一人は主教様。聞き覚えのある声はこの方のものでした。
そしてもう一人は見知らぬ大人――身なりからして学外の大人の方でした。
なぜか両手を後ろで縛られ、その手綱を主教様が持っておられます。
何故そんなことになっているのか、しかしそんな事を気にするよりも目に入ったのは、その表情。まるでこの世の終わりを目前にしたかのような絶望に満ちたその顔は、見ているこちらの方が恐ろしくなるほどのものでした。
そして、最後の一人の顔がはっきり見えた瞬間、私もクリスちゃんも目を疑わずにはいられませんでした。
その人物は、幼い頃にお父さまに連れていってもらった社交会でお城を訪れた際に遠巻きながらに見たきり写真やテレビでしか見たことがありませんでした。
ですが、明らかに他の方々とは違う身なり、そして何よりその風格が、その人本人であることを否応なく知らしめていました。
「も、申し訳ありません。主教様、王妃殿下。」
ラファエーラ先生と神父様は血相を変えて跪き、その様子を縛られた男性は引き攣った顔で見下ろしていました。
「何もないなら結構。早く洞穴に向かいますよ。こんなところに長居は無用です。」
主教様の声はいつもの朝礼で聞くものとは違い、凍てつくような寒気のする声でした。
「ま、待ってくれ!頼む!誤解なんだ!話を聞いてくれ!」
主教様の言葉に、焦った様子で身悶えしながら縛られていた男性が急に声を荒げました。
「お黙りなさい。王法規律を二つとならず三つも破っておきながら、今更何を言い訳しようというのですか。それに、王妃殿下の御前ですよ。口の利き方には気を付けなさい。」
そう言うと主教様は、男性の口に卵代の球のような白く丸い物を押し込みました。
男性は苦しそうにしながらも、それ以上言葉を発せずに体だけを震えさせていました。
ラファエーラ先生と神父様が暫くの間男性を押さえて落ち着かせると、主教様の命令と共に森の奥へと消えていきました。
「い、行きましたわよね。」
震えた声で力なくそう呟いたクリスちゃんは、そばにある木に背を預けて殺していた息を荒げながらに整えようとしていました。
「ねえ、クリスちゃん。神父様達が言ってた下界落ちって、あの下界落ちのことだよね?」
「さあ……分かりませんけど、そうだとしても、そうでないとしても、考えたくありませんわ。」
ひどく疲れた様子でクリスちゃんはぐったりしていました。
時間にすれば五分経ったかどうかくらいだと思いますが、その五分は無限にも感じるほどに息苦しく、心臓の鼓動だけで疲れ切ってしまうほどの心労を感じるものでした。
「帰りましょう。」
疲労困憊といった様子ながらもクリスちゃんはゆっくりと立ち上がると、しゃがんだままの私に手を差し出しました。
「疲れているのは分かりますけど、一刻も早くここを出ましょう。主教様達がまたいつ戻ってくるかも分かりませんわ。」
差し出された手を取って立ち上がると、そのままクリスちゃんに手を引っ張られるがままに主教様達とは反対方向に私達は歩き始めました。
しかし、私は直ぐに足を止めました。同時に振り解いた手を胸元に寄せて、今なお激しく脈打つ心臓を大きく息を吸って落ち着かせました。
「ねえ、クリスちゃん――。」
「駄目よ。」
私が口を開いた瞬間、クリスちゃんはそう即答しました。
「で、でも!」
食い下がろうと再び口を開こうとした時でした。
クリスちゃんは私の両腕をがっしり掴むと、始めて見る形相ですぐそばまで顔を近づけてきました。
「貴女、自分が何をしようとしてるか分かってるの!?ただでさえ運よく皮一枚繋がっている状況なのよ!?これ以上自分の身を危険に晒してどうするのよ!それこそ本当に下界落ちに遭っちゃうわよ!」
ここまで憤って声を荒げるクリスちゃんは、初めて会った時から思い返してみても見たことがありませんでした。
でも、怒っている以上に恐怖で押し潰されそうになっているのだと両腕を掴むクリスちゃんの手が震えていることから痛いほど伝わってきました。
「ごめんね、クリスちゃん。」
私はそっとクリスちゃんを抱き寄せてその背中を優しく擦りました。
自然とそうしようと体が動いたからです。
「クリスちゃんの気持ちは凄く良く分かるよ。私を心配してくれてることも。ずっと一緒にいるんだもん。分かるよ。」
「ユナウ……。」
お互いに気持ちが落ち着くまで静かで真っ暗な森の中で、暫くの間そのままでいました。
高ぶった気持ちが落ち着き、心臓の鼓動も正常に戻ると、ゆっくりとクリスちゃんの体から離れました。
「クリスちゃんの言っていることは正しいと思う。」
目瞼に溜まった涙を手で拭き取ると、クリスちゃんはいつもの表情で私の目を見つめていました。
「でも、やっぱり気になるよ。もし主教様達が言っていた下界落ちが私達の知っている下界落ちなら、あの人は死んでしまう。」
「でも、主教様はあの男性が王法規律を犯したと言っていましたわよ。罪人なら仕方がないんじゃありません?」
確かにクリスちゃんの言うことは尤もだと思います。
あの男性は下界落ちになる程のとんでもない罪を犯したのかもしれません。
けど、どうしても胸に引っ掛かるものがありました。
「クリスちゃんはさ、王法規律について疑問に思ったことってない?」
「急に何ですの?」
「禁忌とされているものには、確かにその通りだなって思うものもあるよ。でも、変なものもない?」
「変なもの?」
ユナウの話にクリスティーナは王法規律の内容を思い返してみた。
第一条
第一項、王家に仇なすこと如何なる事由を問わず禁ずる
第二項、王国の政策及び王家の意向には従うこと これに背くことを禁ずる
第三項、第二項に異議を申し立てる場合、元老院並びに四大公爵の署名を以て、王家の者一人以上の賛同を得られた場合のみ之を是とする
第二条
第一項、王国民による下界への干渉の一切を禁ずる 又、意図して下界への興味を持つことの一切を禁ずる
第二項、王家直属の憲兵以外による【正義の門】への立ち入りを禁ずる 憲兵も又、職務以外での無用の立ち入りを禁ずる
第三項、学院北側の森は禁足地である 学生含む王国民は如何なる事由に問わず之に立ち入ること能わず、王家の者又は王家の者同行の下に於いてのみ立ち入りを認める
…
第六条
第一項、王国民は齢八歳を以て王立学院へと入学し、齢十八歳を以て成人とし卒業すること 此れ如何なる理由に問わず例外はない
第二項、学院滞在期間、学生が学院外に出ることの一切を禁ずる
第三項、学院外の者が許可証を持たず学院内へ入ることの一切を禁ずる
…
以上を以て王法規律とする
もし此れを破らんとする時、一度は懲罰を以て警告とし、二度破ればその身を保証せん
王国民はゆめゆめ此れに反すること勿れ
「まあ、確かに変ね。」
一部分しか思い出せないもののそれだけで考えてみても、正当性のあるものも勿論あるが、確かに疑問に思わなくもないものもあった。
「もし仮にあの人が下界のことに興味を持ってしまっただけだとしたら、それだけで死刑のような扱いになるなんて、やっぱりおかしいよ。」
「でも、だからって私達がどうにかできるものではないわよ。」
クリスちゃんの言う通り、主教様達に追いついたとしても今の私には何も出来ないかもしれません。
でも、たとえそうだとしても、どうにかして止めたい。
そんな気持ちが消えませんでした。
それに私にはもう一つ気になる事がありました。
あの時の王妃殿下のご尊顔――。
他の方達は何ともない様子でしたが、王妃殿下だけは何も言わず悲しそうな表情でした。
最初は男性を哀れんでいるのかと思いましたが、そもそも王法規律を定めたのは王家のはず。
それなら規律を犯した者を哀れむというのには違和感があります。
「私、やっぱり気になる。主教様達を追いかけるよ。」
ほとんど何も見えない真っ暗な道を主教様達が進んでいった方向に、私は先程まで感じていた怖いという感情も忘れて走り出しました。
「ちょ、待ちなさいよ、ユナウ!」
クリスティーナは迷いが捨てきれないながらも、一人取り残されるくらいなら、と半ば諦めの気持ちでユナウの後を追いかけた。
「ここは……。」
クリスティーナがユナウに追いついた時、ユナウは目の前の洞穴に目を奪われ足を止めていた。
「これって、まさか【ドウケツの洞穴】!?」
「本当にあったんだ……。」
私達はその洞穴の前で、自分達が今見られてはいけない状況にあるのも忘れて暫くの間見入っていました。
ドウケツの洞穴――何時から、誰が、何故そう呼んでいるのか、全く分かりませんが、そう呼ばれている洞穴があると云う都市伝説が学生達の間で広まっていました。
誰も入ったことがない故に、オカルト好きな学生の妄想だ、〝ドウケツ〟と〝洞穴〟では意味が被っている、森へ入らないようにする為の教師達の作り話だ等々、色々な憶測が飛び交っており、誰一人としてその存在を信じてはいませんでした。
だからこそ今目の前にあるこの洞穴が、噂として再三に渡って耳にした【下界落ち】の内容が本当のことなのだと、私達の心にひしひしと恐怖を刻みつけました。
「やっぱり帰りましょう。これ以上は絶対にダメよ。」
クリスティーナの言葉に反してユナウは洞穴の中に一歩、また一歩と足を踏み入れた。
「ユナウ!」
クリスティーナがユナウの腕を掴んだ時、彼女はようやくそこで気がついた。
「ユナウ、貴女……。」
ユナウの腕は硬く、酷く力んでいた。よく見ればそれは腕だけではなく、足は震え、その表情は今にも泣きそうなほど怖がっているようだった。
「クリスちゃん?」
私はそこでようやく一人ではないことを思い出しました。
先程まで引っ張られていたクリスちゃんの手から力が抜ぬかれ、代わりに腕をクリスちゃんの胸に抱きしめられました。
胸の奥から感じられるクリスちゃんの心臓の鼓動が、怖いのは私だけではないのだと安心感を与えてくれました。
「行きましょう、ユナウ。」
「うん。」
私達は恐怖心を共有しながら、なるべく音を立てないように恐る恐る洞穴の中へと入っていきました。
中は思った以上に深く、一本道が続いていました。
更に進むと奥の方に橙色の灯りが見えてきました。
それが主教様達が先程持っていた灯りであることを私達は一瞬で理解し、すぐそばの隆起した岩陰に壁を背にして隠れました。
「ここからだと何も見えませんし、声も聞き取れませんわ。あそこの岩陰までゆっくり近づきましょう。」
クリスちゃんの耳打ちに私は黙って頷くと、音を立てないように四つん這いで前方にある石筍に移動しました。
「あれは……穴?」
そこから主教様達の様子はよく見えました。そこには人を落とすには十分過ぎる大きさの穴があり、その穴の縁で先程見た五人が立っていました。
「最後に何か言い残す事はありますか?」
背筋が凍るような冷たい声で主教様が男性に語り掛けました。
「お願いします!私は本当に禁忌に触れるようなことはしていません!信じて下さい!」
泣きながら必死に懇願する男性に蔑むような顔を向ける主教様を見て、私は初めて主教様に対して拒絶と憤りを覚えました。
「最後の言葉が懺悔ではなく虚言による抵抗とは……最早救いようがありませんね。」
そう言うと主教様は掴んでいた縄を緩く持ち直し、ラファエーラ先生と神父様に男性を落とすよう手振りしました。
ダメ――!!
頭で考えるよりも早く目の前の行為を止めようと岩陰から身を乗り出したところで、後ろから口と体を全力で押さえつけられました。
ダメよ、ユナウ!! 絶対にダメ!!
気持ちは分かるけど今だけは堪えて――!!
モゴモゴと動く口とバタバタと暴れるユナウの体を、何処から湧き出てきたのかと自分でも驚く程の力でクリスティーナは必死で押さえた。
「――!?」
その瞬間、王妃は突然ユナウ達の隠れている岩の方に振り向いた。
「ん?如何されましたか、王妃殿下?」
主教は綱をクイッと引き寄せて男を落とすのを中断し、王妃の顔色を窺った。
「い、いえ。何も……。」
王妃の顔は言葉とは裏腹に、明らかに何かに気づいたという様子だった。
「この者を落とすのは一旦中止です。ラファエーラ先生、そこの岩陰を見て来て下さい。何かいます。」
主教がそう言い放った瞬間、ユナウとクリスティーナは凍りついた。
体から血の気が一気に引いていき、二人とも体に力が入らず、心臓の鼓動だけが今までにない程バクバクと脈打っていた。
「ちょ、ちょっと待ってください!誰もいるわけないじゃないですか、こんな所に!」
「そ、そうですよ。いたとしてもネズミか何かでしょう。」
ラファエーラと神父は血相を変えて反対した。
それも当然、万が一にでもあの岩の後ろに生徒がいたとしたら、その生徒は勿論、不注意にもフェンスの扉を開けっ放しにしてしまったことでその生徒の侵入を許した自分達も下界落ちになってしまう。
「だ、誰かいるなら助けてくれ!私は無実だ!」
「貴方は黙っていなさい。先生達も早くお調べなさい。貴方達がやらないのであれば私が見ますよ。」
主教は男を小突くと、ラファエーラと神父を睨みつけた。
「お待ちください。」
ラファエーラが渋々覚悟を決め岩の方へ向かおうとした時だった。
王妃はそれを制止させ、主教の方へと二歩、三歩と近づいた。
「どうなさいましたか、殿下?」
「私が見て参りましょう。何かあると、初めに感じたのは私ですので。」
王妃の進言に少し悩んだ末、主教は首を縦に振った。
「そうですね。この二人では己の保身のために嘘を言うかもしれません。誠に恐縮ではありますが、お願いしても?」
「もちろんです。」
王妃は既に元の素顔に戻っており、その顔色一つ変えない表情にラファエーラと神父は絶望に身を落とした。
どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
王妃殿下がゆっくりとこちらに近づいてくる――。
そのことに恐怖を感じながらも、ユナウとクリスティーナは人生で最も思考を回転させていた。
今から後ろの岩まで移動する?
いや、ダメ。絶対に見つかる。
全員の視線が集中している今下手に動けば、王妃殿下だけでなく主教様達にまで見つかってしまう。
かといってこのままここに身を隠す?
いいえ、ダメ。
岩は石筍のように隆起しているだけで身を囲ってくれるような形をしていない。
主教様達からは見えなくても、王妃殿下がこちらまで覗き込んだ瞬間に見つかってしまう。
詰んでいる――。
どう足掻いてもこの状況を凌ぐ術はなかった。
もうそこまで王妃殿下が近づいてきているのが分かる。
ユナウもクリスティーナも覚悟を決めて恐怖に身を寄せ合うしかなかった。
目を瞑り、最後の抵抗と言わんばかりに抱き合うようにして少しでも体を縮こませた。
その状態で静寂な時間がしばらく続いた。
いっそのこともう見つかって楽になりたい――。
そう思ってしまう程にこの一瞬が永遠のような長さに感じた。
「何もありません。」
王妃殿下の声でそう発せられた時、私達は理解が全く追いつきませんでした。
ゆっくりと目を開けると、目の前に王妃殿下のお姿がありました。
思わず声を上げそうになるのを両の手で口を必死に押さえて耐えると、王妃殿下は視線をこちらに一切落とさずに、そのまま主教様の方へと戻っていかれました。
一体どういうことなのか――。
暗くて私達が見えなかった?
あの近さでそんなことはあり得ません。
不思議には思うも、それを考える程の体力が私達には残っていませんでした。
その後、男性は穴に落とされ、下界落ちしました。
断末魔にも似た泣き叫ぶ声が耳に響いて消えません。
けれど今度は体が動かないどころか、助けようと思う気すら起きませんでした。
「今回はやたらと時間が掛かりましたね。消灯時間もとっくに過ぎてしまっています。こんな所に長居は無用です。さっさと帰りますよ。」
主教様のその言葉を最後に、四人は早々に洞穴を出ていきました。
もう見つかる心配はないだろう時間が過ぎた後も、私達はその場から動くことが出来ませんでした。
それでも帰らねばと重い腰を上げて洞穴を出たのは、日が昇ってすぐの頃でした。
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