深夜の逃亡劇
「ココア・シュガーユー」
確かこの娘は水属性の魔法使いだったか。青く濁っていた試魔石を思い出す。
「お前が、アーネット様に魔法を使ってる術者だな」
その言葉に肯定も否定もせず、彼女は俺から目を逸らすとそのまま窓から身を躍らせた。
『お、飛び降りた』
「まさか!? ここは三階だぞ」
俺は窓に駆け寄って下を覗く。
すると、落ちていく彼女の下に球状の水が現れていて、そこにざぶんと着地したココアは、そのまま駆け出していった。
(水属性の魔法でクッションを作ったか……やっぱり、とんでもない魔法使いだ、間違いない)
俺もすぐにそれを追おうとするが、
「何かすごい物音しなかった?」
「私も聞いた気がする……目が覚めちゃったもん」
扉の向こうから声がする。女子寮の生徒たちが起きてきてしまったようだった。
俺も急いで逃げなくては、と窓枠からそろそろと降りていく。
もし学園の一流警備兵たちに見つかれば逃げ切るのは不可能だろう。冷や汗をかきながら、ようやく地面に辿り着いた俺は彼女が走り去っていった方向をみやる。
学園正門の方向。奴は市街に逃げおおす気だ。
当然、俺はそれを追うことにした。
校舎の裏を曲がると、遠く彼女の背が見える。
体力には自信があったから、すぐに追いつけると思っていたが。誤算だった。
「くそ……けっこう距離あるな」
走りながらぼやく。
この調子なら、うまく追い詰めるのは難しそうだ。
『戻らないのか?』
「戻る?」
『昨日にだよ。そうすればいくらでもやり直しようはあるだろ』
「ああ……それはまだ、最後の手段に取っておく」
最悪、俺にはHRGという保険がある。だから大胆に動けているのはもちろんだったが、あれだけ影響の大きい力は、既に使わずに済むなら使わない方がいいと考えていた。
「そろそろ校門か……」
『あの小娘、どこまで逃げる気なんだろうな?』
「さあ。どうあれ、逃がすわけにもいかない」
ココア・シュガーユーの後ろ姿が、正門の大きな鉄柵の前に立つ。
どうするのかと見ていると、彼女はそこをよじのぼり始めた。
(本格的にこのまま逃げ切る気か)
俺も負けじと鉄柵を掴む。門を飛び降りた彼女が、ちらりとこちらを見やった。
「……もう、追ってこないで」
「それは無理な話だよ。お前が、アーネット様に危害を加えた以上」
彼女はその紫の髪を横に振ると、すぐに駆け出した。諦めて逃げ切ることにしたらしい。
俺も柵から飛び降りて市街に降り立つ。街に出てくるのは久々だった。
いつかの懐かしい正門前の大通りを駆け抜ける。学園の合格発表が成されたのもここだ――――そういえば、ココア・シュガーユー。彼女と初めて会ったのも、この市街だったと思い出す。
迷路のように入り組む街中を、彼女の背と気配を頼りに追い続けていると、だんだんと夜が明けてきた。
眩しい日差しに目が眩み、そしてだんだんと街にちらほらと人の姿が見えてくるようになり。
路地を曲がったココアを追おうと、大通りから急カーブをかける。……と。
「さあて、今日も一日働っか! ……って、なんだお前!?」
道の脇で、食品の仕入れをしている青年の抱えている荷物にぶつかってしまった。
「すまない! 後で必ず弁償する!」
道の奥に消えていった紫髪の少女の方向を睨む。まずい、見失った……!
すぐに駆け出そうとする俺の腕を、倒れたその青年が掴む。
「ほんと、申し訳ないんだけどいまは一刻を急くんだ!」
俺は横目でその腕を振りほどこうとする……が。
そのおかげで俺は、間一髪で彼が振り降ろしてきた肉包丁を避けられた。
「なぁ……っ!?」
その一撃はなんとか避けたものの、呆気にとられた俺は、壁にしたたかに体を打ち付ける。青年はその隙を逃さず、すかさず包丁を横に叩ききった。
「うおおおお!? ファイアー!」
咄嗟に手に魔力を集中させ、魔法でその包丁を弾く。飛んでいった包丁は地面にぶっ刺さった。あれが首をたたいていたかと思うとぞっとする。
俺はその青年の顔を正面から見た。さきほどまでの活気あふれた顔ではなく、表情の抜け落ちたような顔に……不気味な紫色に光る左目。
「お前……お前は……!?」
「『これ以上追ってこられると困る、本当に』」
眼前の彼が発した声だが、明らかにさっき聞いた青年の声色ではない。
「ココア・シュガーユー!」
こんな短時間で、他人を操り、発声させることまでできるのか……!?
焦る俺の前で、彼は突然ふっと糸が切れたかのように倒れる。
俺がはっとなり、道の奥を見ると、はるか遠くの路地裏から大通りに出る紫色が見えた。
奴だ、かなり距離を取られている!
俺はその青年の身体を横たえると、すぐに彼女の追跡を再開した。
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