第23話 パパ
「何で? 何で逃げたの、愛一郎? おかしいよね、今すぐわたしと死ななきゃなのに、恋人のわたしを放って別の女のアパートに逃げ込むなんて。ねぇ何で? 何でそんな虐殺行為ができちゃうの? 嫌だよ怖いよ愛一郎……ねぇ、なんでなの? なんで? ねぇ。ねぇ。ねぇ、ねぇねぇねぇねぇねぇねぇ」
「ひぃ……っ!」
「ひぃじゃないわよ、あなた人の妹に向かって。一生の約束をした運命の相手なんじゃなかったの?」
偽蒼依との作戦とも呼べないような作戦の、会議とも呼べないような会議が数十秒で終了した直後。チャイムもノックも無しに、その女児は現れた。チャイムやノックどころか、何なら足音にも気づけなかった。てっきりドアを突き破るような勢いで怒鳴り込んでくるのかと思って待ち構えていたら、いきなり目の前十センチの距離に、ぬぅっとその色白の顔が現れたのだ。もはやホラーである。
キッチンのフローリングに尻もちをついた僕が後退ろうとしても、そいつは僕のワイシャツを掴んで逃がしてはくれない。
ついさっきまで愛朱夏と名乗っていた女児――本当は十八歳の鈴木蒼依であるその美少女が、瞬き一つない虚ろな目で迫ってくる。囁くような声なのにもかかわらず凄まじい圧だ。
「早く死ななきゃ、愛一郎。あなたはわたしを裏切ったんだから。このままじゃ、わたしたちの大事な大事な永遠の約束がなかったことになっちゃうんだよ? あなたがちゃんと死ぬことによって約束の意味が、その意義が保たれるの。わたしたちの尊い愛を守れるの」
そう言って本物蒼依は、恋人同士が手を取り合うように、両手でぎゅうっと僕にナイフの柄を握らせてくる。いや、実際に恋人同士なんだけれども。
「た、確かに君の言っていることは正しい。僕は浮気をしたんだから、けじめをつけなければならない」
「そうだよね。全部あなたがやったことだもんね。愛一郎が悪いんだもんね」
「で、でもっ! その手段として死ぬというのは、正しくないと思う……」
「……は? 何を、言っているの……? まさか愛一郎、わたしたちの約束が、間違っているとでも……?」
こ、怖ぇ……瞳孔開いたまま、ギギギって首傾げられるの超怖えー……!
い、いやダメだ、怯んでる場合じゃない! この問答が作戦の肝なんだ!
「ち、違う! 永遠の約束を破ったらそこで終わりというのが、理想の形だとは僕も確信してる! 僕もそこを目指していた! でも理想と現実は違うんだよ! 理想通りが正しいとは限らないんだ! 死ぬのが間違ってるなんて言わない! でも正解じゃない!」
「は? そんなヘリクツ通るわけないじゃん。ねぇ、もしかして死にたくなくて言い訳しているの? 約束が破られてしまったこの人生に、しがみ付く意味があるとでも思っているの? それってわたしに対する最大の侮辱だって理解していないの?」
「そうじゃない!」
いや思いっきりそうだけど。死にたくなくて言い訳してるけど。でも大事なのはそこじゃない。瞳孔開きっぱの恐怖に気圧されずに攻め続けないと……!
「現実問題として、裏切ったら死なんて理想は成り立たないと、僕は言っているだけだ! 君の姉が教えてくれたんだよ、人間は裏切る生き物だって! だからつまり、そんな約束は、互いに死ねって言い合ってるようなものなんだ! そんな約束を交わすほど大切な相手に対してだぞ!? 矛盾してるじゃないか、相手を想う気持ちとそのメッセージが! 『一生愛し合おう』『一生守る』と誓った相手に、その実『死ね』と呪いをかけているなんて、それこそ最低の裏切り行為じゃないか!」
「は? は? は? 何それ。本当におかしくなっちゃったの? そんな出来損ないの、わたし以外の女の言葉なんて真に受けちゃって。わたし以外の言葉でわたしとの約束を蔑ろにして、約束の価値を下げて――許されると思ってるのッ!?」
「ひぃっ……!」
突然の激昂。ヒステリックな、それはもはや咆哮。体が竦む。だが、ここで引き下がるわけにはいかない……僕が生き残るために!
「で、でも事実だ! 誰だって裏切る! らしい!」
「わたしは裏切ってないでしょ! それこそがれっきとした事実! 何よりの証拠! そんなクズ姉とは違うの! 確かにその女と付き合っていれば、いつか必ず愛一郎も裏切られるよ? 別の男と付き合ったりしなかったとしても、別の男をカッコいいと思ったり横目で見たりする瞬間がいずれ訪れるよ?」
「いやカッコいいと思ったことくらい既にあるわよ。水嶋ヒロとかダルビッシュとか」
「でもわたしはそんなこと絶対にしない! わたしは裏切らない! わたしたちの約束は、愛一郎が裏切りさえしなければ完ぺきに守られていた!」
掛かった……!
「じゃ、じゃあ、君がいつか裏切ると、既に裏切ったことがあると、証明できたら、僕たちの論理を認めてくれるよな?」
「はぁ!? そんなの無理に決まってるでしょ!」
「認めてくれるんだな! 証明できたら!」
「だからそんなこと――」
「仮に! 証明! できた場合! 認めるしかないよな!?」
「やれるものならねっ! 絶対あり得ないから! わたしは永久に愛一郎一筋なんだからぁ!」
よし、言質取ったぞ! ただもう僕は首筋を両手で絞められ揺すられまくっていて、いつ殺られてもおかしくないわけだけど。下手したらナイフでイかれるより苦しいかもしれない。
何とかその前に、僕が一瞬でも痛い思いをする前に……さぁ、頼んだぞ、偽蒼依!
僕の目配せを受け取って、偽蒼依は僕たちの間に分け入るように踏み入り、自らの妹に――いや、『娘』に、
「ねぇ、蒼依。いや、愛朱夏。私、実は気付いていたの。あなた、未来の『パパ』――愛一郎『パパ』に、目的とは無関係な愛情を抱いていたわよね?」
「――は……?」
虚をつかれたように目を丸くする愛朱夏。その隙を逃さぬよう、『ママ』は一気に畳みかけていく。
「愛情というか……もはやその父性に依存し始めていたわよね? 近親愛とも呼べるような偏愛を、愛一郎ではなく、愛一郎の別人格である『パパ』に向けていたわよね? それは、あなた達のド変態理論では浮気に当たるんじゃないの?」
「なっ――何バカなことを……っ、あれは、」
「あれは演技だからノーカウントって言いたいの!?」
相手主導で議論を進ませない。無理やりにでも口を挟んでこちらの思惑通りに会話を運ぶ。それが今回の蒼依のやり方だ。たぶん。
「そうだよっ、あれはあんたたちを騙すための演技だったって、バカ朱依だって知ってるでしょ!」
「演技! 浮気の演技! 浮気は殺人でテロで虐殺だったはずよね!? あなたは虐殺の演技をしたというのね!?」
「だったら何だっていうの! 騙すために仕方なく演じてやっただけじゃん! 役に入り込んでただけ! コントみたいなもんだし!」
「演技だろうがコントだろうが許されないのよ、虐殺は!」
「で、でも、ラーメンズだって十年前にNHKで……」
「今は2008年! 北京五輪の時代なの! 九十年代とは全てが様変わり! 愛朱夏が来たという2022年では尚更いろんなことが許されなくなっているわよ! たぶん!」
「そ、そんなこと言われても……い、いやいやいやいやっ! 違うでしょ! そもそも演技かどうかの問題じゃないじゃん! だって、」
「ちょっと待って。流さないで。演技かどうかの問題ではないのね? 演技かどうかは関係ないのね?」
一つ一つ、さり気なく、かつ都合よく発言をすり替えながら、着実に言質を取っていく姉。言い訳を潰していくとも言えるかもしれない。一方の妹は、思わぬ言いがかりに相当頭に血が上っているようで、
「そうでしょ、そりゃ! だって、そもそもの話! 愛朱夏のパパと愛一郎は同一人物なんだから! わたしがパパのことを大好きで何が悪いっていうの!? 何が裏切りなの!? 意味わかんない!」
「はい、言ったわね! パパが大好きだって! パパモードだった愛一郎が大好きだったって!」
「言ったけど!? 大ちゅきでしたけど!? それが何か!?」
「やっぱり! 目的忘れて愛一郎パパに甘えちゃったり頭ポンポンされたりするのに幸せ感じちゃったりしていたのね!?」
「別にいいじゃん! パパは愛一郎なんだから! 裏切りどころか愛し合ってるだけでしょ!」
どんどん自白を引き出されていく妹。もはや姉の手のひらの上だ。
じゃあ、そろそろ僕の出番かな?
「ふーん。だってさ、愛一郎。あなたの恋人の蒼依さん、パパ状態のあなたと愛し合っていたんだって」
偽蒼依からのパスを受け、僕は自分史上最大級の絶望顔を作って崩れ落ちてみた。
「そ、そんな……! あいつは――あのパパは、僕の別人格なのに……! 僕じゃないのに! 一生の約束を交わした蒼依を、別の男に寝取られたっ!」
「え……あ、愛一郎……? 何を言って……」
「酷いよ、蒼依! あんな男に……っ! あんなDV野郎に寝取られていたなんて! 浮気だ! 蒼依に裏切られた!!」
「…………っ! う、嘘でしょ……?」
僕のクソ下手演技を前に、蒼依は愕然として膝をつく。
そう、これが僕と偽蒼依の対蒼依防衛作戦である。名付けて、ただの欺瞞こじつけ詭弁ヘリクツ作戦だ。こんなの社会では当然通用しない。
ただ、僕と「愛」に対してどこまでも誠実で厳格で厳正な蒼依にとってのみ、この作戦はとてつもなく大きな効力を発揮する。かもしれない。つまりは賭けだ。失敗すれば待つのは死だが、何もしなくてもどうせ死ぬしかないような状況だ。ただのヘリクツに僕は賭けるしかない。
「こんなのってないよ、蒼依……信じてたのに……うぅ……っ」
「ち、違うの、愛一郎! あれは演技であって……わたしはファザコンの娘に成りきる必要があって……」
「そんな言い訳は通用しないわよ、蒼依!」
オロオロとする妹の言い分に、姉が鋭く指摘する。何かノリノリだ。人生で初めて妹より上の立場に立てたから嬉しいのかもしれない。
「あなたはついさっき自ら、演技かどうかなんてことは裏切りの当否に関係ないと主張したし、そもそも本気でパパを大ちゅきになっていたと認めているはずよ!」
ひでぇ……揚げ足取りと誘導尋問のコンビネーションである。
しかし実際、姉蒼依のこの指摘はあながち的外れでもないのだろう。愛朱夏からは確かに本気で娘としての愛情を向けられている部分があったと、僕も実感している。
愛朱夏の正体があの約束を交わした本物蒼依だったから本能的に彼女を疑い切れなかったのかと思っていたけど、それだけではなく、愛朱夏自身が本気で僕の娘という役に入り込んでいたからこそ説得力が段違いだったという部分も強いのかもしれない。
姉蒼依は、妹が父性というものに飢えていた可能性を推察していた。自分もそうだったからわかるということらしい。僕に「パパっ、パパっ」と甘える愛朱夏が内心めちゃくちゃ羨ましかったという。ひぇっ、なんだこの姉妹。
「そ、それは、そうだけど……で、でもっ! でもやっぱそんなのおかしい! だってわたしが一方的に愛一郎を裏切るわけなんて、そんなの――」
「そうだよなあり得ないよな、言われてみれば僕だって愛朱夏を本当の娘として本気で愛してしまっていたわけだし」
「……! そうじゃんっ、そうだよそうだよ! わたしがパパにガチ恋してたのが裏切りっていうなら、愛朱夏をぶん守って束縛しちゃうほど溺愛してた愛一郎だって浮気じゃん!」
「そうだね、僕も裏切っていたね」
「ほら! それならやっぱり……ん? あれ?」
「認めたわね、蒼依! ぶん守るの意味は分からないけれど、自分が愛一郎を裏切っていたことをあなたは認めた!」
「い、いや、それは……」
語るに落ちた愛朱夏を間髪入れずに偽蒼依が攻める。よし、ここからがダメ押しだ。
僕は愛朱夏をぎゅぅっと抱きしめ、
「やめるんだ、ママ! 愛朱夏を責めないでやってくれ!」
「……! パパ!」
「愛朱夏は僕がぶん守る! さぁ愛朱夏! 二人だけのお説教タイムだ! パパが愛情たっぷりのおしおきをしてやる! 大ちゅきおしおきタイムだ!」
「パパっ! 大ちゅき! いっぱいおちおきちてっ! いっぱいぶん守って!」
僕の胸に激しく顔をスリスリしてくる愛朱夏。えー……想像を遥かに超えて何か欲求解放してやがるやんけ、こいつ……。
「パパぁ……パパぁ……パ……――はっ……!? わ、わたしは、何を……」
こっちから嵌めたにもかかわらず僕と蒼依がドン引きしていると、愛朱夏は我に返ったようにハッと顔を上げた。
「君の負けだ、愛朱夏――いや、蒼依。君は自分の浮気を、裏切りを認めた」
「…………っ」
僕の宣告を、姉蒼依が引き継ぐ。
「最初の約束通り、人間は裏切るという事実をあなたにも受け入れてもらうわよ。それに伴って、裏切ったぐらいで死ななきゃいけないなんて謎ルールを取り消してもらう。そういう決まりだったものね、この問答は」
「……っ、わたし……っ、わたしが、愛一郎を、裏切った……? 浮気、した……?」
僕が抱擁を解くと、蒼依は呆然とした顔で、ダランと脱力してしまう。
「そうだ、君は僕を裏切ったんだ。だが、仕方ない。僕も君を裏切って浮気をしたわけだからな。ちゃんと謝れば許してやろう」
「あなた、自分を棚に上げて……」
偽蒼依が半眼を向けてくる。いやこれは敢えて偉そうにすることで相手に敗北を自覚させる戦術であって……。ていうかさっきの君の「家族にでもなりましょう」ってこういうことだったのかよ。家族設定で愛朱夏を嵌めようってことね。プロポーズ的なことかと思っちゃったじゃんか。
まぁいいや。とにかくこれで、ひとまず一件落着だ。戸籍のない女の子のこれからとか、処女厨おっさんの処遇とか考えなきゃいけないことはまだまだあるけど、とりあえず誰も死なずには済みそうである。
いやぁ、よかったよかった。
僕は立ち上がり、強張っていた体をほぐすよう伸びをする。
「……意味ない。謝るなんて。裏切ったら、それで終わり」
呟きの聞こえる方を見下ろすと、その女の子は、虚ろな目のまま、床に落ちていたナイフをおもむろに握り込み、その切っ先を自らの喉元へと向けていた。
えー……何だよ、もぉ、諦め悪いなぁ……。まぁでも、この子はそういう奴だったな、昔から。だからこそ、僕もこんな風に強烈な影響を受けてしまったんだ。時間をかけて、じっくりと説得していくしかないのだろう。
「大好き、愛一郎。すぐに追ってきてね」
――刹那、蒼依の目に光が戻り。この世でただ一人僕だけに向けて、彼女は儚げに微笑んだ。
時間が止まったような感覚。目に入ってくる情報がスローモーションのように見える。笑みを浮かべたまま目を閉じていく蒼依。驚いたように妹に手を伸ばし、飛び込もうとする姉の蒼依。結露したスイカの皮から垂れていく水滴。白い首筋に向かって一直線に進んでいくナイフ。
あー、はいはいはい。ナイフで自決ですか。はいはいはい。無理だから、それ。人間には不可能。意志とかの問題じゃないから。生物としての本能で無理。無理無理無理無理。はいはいはい、
「はいはいはいは――うおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
切っ先は、止まることなく喉元に突き進んでいた。あ、ダメだこれ。間に合わん。
そう思いながら、思いながらも、なぜか僕は反射的に腕を伸ばし、そして。
「…………え? は? なにこれ。何で僕のおててにナイフがぶっ刺さってるの? 痛いじゃん、こんなことしたら。…………いっ――――っっってぇええええええええええええ!!」
蒼依が振り抜いたナイフは、その首との間に入り込んできた肉の壁――ていうか僕の右手のひらに突き刺さり。貫通した切っ先で、真っ白な首の薄皮一枚だけを見事ちょこんと傷つけることに成功していた。えぇー……。
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