第22話 裏切り

 え? は? え? このビンビンに尖った鋼を僕の首にぶっ刺すの? 何で? 死んじゃうじゃん、そんなことしたら。あ、それでいいのか。死ぬんやった僕。

 いやでも……痛いのは嫌だし……や、嫌ではないんだけどね? ただやっぱり生物としての本能が働いて、気持ちとは関係なく勝手に回避しようとしてしまうというか……。

 じゃあこの際、鈴木パッパに頼んでお薬的なもので安楽死的なことしてもらう? いやいやでもなぁ……僕と蒼依の愛の終わり方に、処女厨おっさんの手が介入してくるってのはなぁ……。

 うん、そう考えたらこの包丁だって、どっかの処女厨おっさんが作ってるかもわからないわけだし……。飛び降りにしたって土地の整備をしているのは処女厨おっさんかもしれないし、入水した海や川には処女厨おっさんの尿が混じっているかもしれないし……。

 あれ? もしかして死ぬのって不可能なんじゃね? 人間って死なないんじゃね?

「愛一郎、体ガクブルしているわよ。使わないなら包丁返してね」

「あ、うん」

 ふぅ……。何か肩痛い。そういえば喉の調子も良くない気がするしちょっと風邪気味かも。あー手ぇ、かっゆ。また蚊に刺されたわ。もう九月だってのにあっちぃしゲリラ豪雨も多いし……やっぱ温暖化のせいだよな何もかも。だる。

 はぁ……。

 …………。

 ……………………。

 ………………………………。

 …………………………………………クソっ! そうだよ、死ぬの怖ーよ! しょうがないだろ、だって!

 言い訳なんてない! できない! 僕は蒼依を裏切った! 浮気した! 許されない! 知らなかったなんて通用しない! しょうがないでは済まされない! でも死にたくないのはしょうがないだろ!!

 だいたい僕は蒼依に浮気されたと思い込んでも、愛朱夏に唆されるまでは蒼依を殺そうとなんてしてないんだ! その後だって、ちゃんといろいろ躊躇ってたし……思想に共感したからって実際に手を染めちゃうのは別問題だろ、あのサイコパス女児が! 自分の体に刃物なんて刺せるかぁ! 死にたくない!

 ――だって……だって……! 僕の価値観を形作った本物の蒼依も、十年間共に生きてきた偽物の蒼依も、二人ともこんな一途に僕を愛してくれてきたんだ……この二人といつまでも一緒に生きていきたいと、そう思ってしまうのは仕方ないじゃないか……! …………これで、こんな感じで行けるか……? 通用するかな、これで? もっとたっぷり「――」とか「……」とか駆使して溜める感じで言った方が響くかな?

「もう少しであの子もここまで追いついてしまうはずだから……立てこもって無為に時間を潰すよりも、ちゃんと向き合って話し合うべきだと思うのよね。私やパパは論外かもしれないけれど、あなたなら……。というわけで落ち着いて話し合ってもらうためにも、おいしいご飯でも作っておくわ」

「……にせ……っ、間違えた、蒼依……っ」

「にせ?」

 偽蒼依……本物蒼依にあれほど存在を軽んじられたというのに、君って奴は…………もしかして、めちゃくちゃチョロいんじゃないのか……?

 そうだよな、そもそも君、要するに十年前僕を一目見ただけで、こんな大掛かりな犯罪行為に加担するほどガチ惚れしちゃったってことなんだもんな。

 よしっ! ひとまずこいつには通用するはず! そもそもこっちの蒼依は僕に死んでほしくなんてないわけだし! まずはこっちとの雰囲気をそれっぽく整えておいて、あっちの強敵を迎え撃つぞ!

「いや、ちゃんと三人で話そう。君はあんな風に軽んじられるべき存在じゃない。僕にとっては、二人とも大事な女の子なんだ」

「愛一郎……」

 僕がそれっぽい雰囲気を醸し出しながら言ってやると、隣に立つ蒼依もしっとりとした感じで応えてくれる。よっしゃ、行けるぞこれ。やっぱこいつチョロいわ。

「それにあたって、というより、これから先――僕は君をどちらの名前で呼べばいいんだい。朱依なのか、蒼依なのか」

「そう、ね……」

「僕は君を十年間蒼依と呼び続けた。正直、その呼び名に愛着はある。でも君は、未来で僕との娘が出来たら、愛朱夏、と名付けたいのだろう? それはやっぱり、いつか僕に自分の本当の名を告白したい気持ちが、ずっとあったからなんじゃないのかい」

「……いえ、これからも、蒼依と呼んでほしいわ」

「そう、なのか」

 蒼依は、静かに頷く。

「妹以外とまともに交流もなくて、自己肯定感なんて皆無に等しかった私が、この名前を背負った瞬間、魔法のスイッチが入ったみたいに胸を張って憧れの男の子と向き合えたの。あの子には悪いけれど、私は今の自分が好き。今更この名前を捨てるなんて……ちょっと難しいわね」

 いや今思えば君は入れ替わったばかりの頃めちゃくちゃキョドってたし常に顔真っ赤だったけどな。結婚の約束をしたことで急に僕を意識し過ぎるようになっちゃったのかな可愛いぜ僕の嫁とか勘違いしてたわけだけど。

「それにそもそもの話、ね? 未来から来た娘の前で、あなたは私を蒼依と呼んでいたわけじゃない? 娘はそのことに疑問を呈さなかった。それを目にしても、私は特に違和感を抱かなかったの。ああ、結局、娘の名前に朱色を混ぜても家族に自分の本名は伝えてないんだなーとか、もしかしたら告白はしてもずっと蒼依のまま呼び続けてもらってるのかなーとか……どちらにしても、全く問題だとは思わなかったし、それでいいと思えたの」

「つまり、君の願いは……」

「ええ。あなたに告白したい気持ちがあったのは事実だけれど、やっぱり十年間あなたの声で呼び続けてもらえたこの名前を手放したくないわ。……あなたはそれでも、いい?」

 不安そうに、こちらの表情を窺ってくる蒼依。よっし、最高の流れだ! 上手い具合にこっちの立場が上な感じになったぞ!

 これは多少強引にガンガン攻めていっていいかもしれない!

「ああ、君がそう願うなら、僕も譲歩するよ。本当のところは朱依と呼びたかった気持ちも強いんだ。素敵な名前だし、それに……これから二人の蒼依を愛していくためには、少し紛らわしいからね」

「二人……?」

「ああ、そうだとも! 姉の蒼依と妹の蒼依、僕はどちらとも真剣に向き合っていきたいんだ! これは決して二股とかそういうんじゃない! 僕の愛はただ一つ! でも君たち双子が仲良く同じ方向にいてくれれば、僕の愛は真っすぐなまま二人を同時に包み込めるはずなんだ!」

「愛一郎……!」

「そうだ愛一郎だ! 僕が愛一郎なんだ!」

 よし! 自分でも何言ってんのか1ミリもわからなかったけど勢いだけで何か押し通せた!

「私のことも、蒼依と同等に扱ってくれるのね……? でも、そんなの私に都合が良すぎるわ……私はあなたをずっと騙していて、あなたと一生の約束なんてしていないのに……」

「いいや、僕は君ともずっと一生の約束をしていたつもりだよ! 十年前からね!」

 いやこれはマジでそう思い込んでたんだけどな。

「本当に!? 良かった、実は私もなの! ということは、私とあなたも昔からずっと一生の約束をしていたということでいいのよね!?」

「ああ、もちろんさ!」

 ん? いやでも君、一生なんてない、みたいなこと言ってなかったっけ? 大切な家族の生死もかかっていないのに絶対の約束なんてできないとか何とか――

「じゃあ愛一郎、あなた、一生の約束を交わした私を裏切ったことになるわね。別の女と組んで、私のこと、殺そうとしていたのでしょう?」

「え……」

 蒼依の顔つきが、変わった。口角を吊り上げて、それなのに目は虚ろで――それは先ほどまでの、双子の妹のようで。その手に刃物を握っていることまでもが、見事に共通してしまっていて。

「あ、蒼依……? お、落ち着けよ、まずは包丁を置いて……」

「あの子が言っていた『ママに復讐』って、そういうことでしょう? 私を殺そうとしていた。私は浮気なんて、あなたを裏切ることなんて、パラレルワールドですらしていないのに」

「そ、それはだってっ、君に未来で浮気されたと勘違いしていたからで……実際いくら頑張ったところで君を心中に追い込むなんて元から不可能だったわけで……」

「私は『殺そうとしていた』としか言ってない。そうなんだ、やっぱり心中に追い込もうとしていたのね」

「…………っ! そ、それは……っ、そ、そうだっ、そもそも愛朱夏に騙されていたせいだって、君だって知っているだろう!?」

「勘違いだろうが騙されていようが関係ない! 裏切りは裏切りでしょう!」

「…………っ!」

 な、何だ……何なんだこれは!? こんなの想定してない!

 ま、まさかこいつ……誘導尋問してたのか……? この流れに持っていくために……僕への復讐を正当化させるために!

 こいつ――こいつも! 初めから僕を殺すつもりだったのか!?

「――ま、待ってくれ蒼依! 誤解なんだ! あれは裏切りじゃない!」

「いいえ、あなたは確かに裏切った! 私はものすごく裏切られたと感じた! それなのにちゃんと『ごめんなさい』されてない!」

「わ、悪かった、悪かったよ! 確かに僕はちょっとだけ裏切った! でもほんのちょっとだけなんだ! あくまでも先っちょだけの裏切りなんだ!」

「何よ、悪かったって! 根元までガッツリ裏切られたのに!」

「わ、わかったっ、わかったから包丁を下ろしてくれ! 近いっ、怖いっ、刃先が喉から数センチしか離れてない怖い! すまん、本当にすまん、確かに僕は君を裏切った! でも許してくれ! 死にたくないんだ! すみません! ごめんなさい! 申し訳ございません! もう二度と一生永遠に絶対裏切らないから!!」

「そ。なら許すわ」

「え」

 蒼依はしれっとした顔で冷蔵庫からスイカを取り出し、ザクッと包丁を入れ始める。え? なにそれ僕の頭を叩き切る練習? こわい。

「あの子、スイカ食べられるようになったのかしら。私も昔は食べられなかったけれど、あなたと会うようになってから、大好きになったのよね」

「あ、蒼依さん……?」

「許すわよ、別に。裏切りくらい、謝ってくれたなら、それで。塩にする? レモンにする?」

「き、傷口に……?」

「スイカによ」

「じゃあどっちも……。え、ほ、本当にそれでいいのか? 僕はお前を死なせようとしてたんだぞ!?」

「しょうがないじゃない、騙されていたんだから。あ、いえ、全然しょうがなくはないわね。そもそも浮気ぐらいのことで人を殺そうとしないでよ。一度刺されてみて気付いたわ。殺されるなんてごめん。裏切ってまでしがみ付いた命だもの。裏切ってでも生き抜いてやるわ」

「…………」

「つまりは、そういうことなのよ。私だって、あなたを裏切ったことなんてないし、あなたを裏切る未来も嘘だったわけだけれど……それでも分からないわ。絶対裏切らないなんて言えない。貞操帯なんて、絶対じゃない。気持ちの問題でしかないの。浮気したいだなんて全く思わないし、ずっと貞操帯を着けていたいくらいだけれど、でも知らないわ。未来のことなんて」

「ふざけるなッ! 未来の浮気を否定できないなんてクソビッチだっ! このヤリマンめっ!」

「この期に及んでよく言えるわね、あなた……」

 しまった。つい反射的に。

「だからあなたのさっきの永遠だとか絶対だとかいう言葉も信じていないわよ。あなたはまた私を裏切るかもしれない」

「……裏切る、わけ……」

「いいわ、今のあなたはそれでも。でも私はもう知っているから」

「え?」

「裏切らない人間なんていない。裏切られない人間もいない。みんな裏切るし裏切られるの。ただ、そのことを知っている人間と知らない人間と、知っているのに知らないふりした人間がいるだけ」

 蒼依はどこか諦念と、そしてはっきりと慈愛の滲んだ、遠い目をして微笑んだ。

「だからあなたがまた裏切った時には、また死ぬほど必死に謝ってね?」

 ――僕は、どれだけ恋人に恵まれていたのだろう。

 人生を決める永遠の価値観を植え付けてくれた蒼依と、十年後それによって追い込まれた僕を救ってくれる蒼依。過去と現在と、そしてたぶん未来でも、僕は彼女たちに生かされていく。生かされて、いきたい。

「ありがとう……っ、大好きだ、偽蒼依……っ」

「そういうの照れ隠しじゃなくて素で言ってくる辺りが本当にクズよね。何で私達双子の周りはゴミクズ男しかいないのかしら。申し訳ないけれど、やっぱり数分後あの子にあなたがぶっ殺されるのを止める自信はないわ」

「ちょ、ゴミクズなのは否定しないけど、さすがにあの親父と同列はないだろう! 少なくとも僕はもっとまともに父親をやっていた!」

「確かに愛朱夏にとってはあんな親よりマシなパパだったろうし、演技抜きで懐いていたようにしか見えなかったけれど、そんなの別に蒼依にとっては…………」

「ん? どうした偽蒼依?」

 口に手を当て、一点を見つめて黙り込んでしまう蒼依。そして、しばらく何かを考え込むようにしてから顔を上げ、

「見つけたかもしれないわ。あの子を撃退して、あなたの命が助かる方法……」

「ほ、本当か!? 結婚してくれ偽依にせい!」

「死ね。まぁ、どちらにせよ、勝率の低い賭けにはなると思うわ」

「何だよ、期待させといて……」

「だって、私はあなた達の思想に全く共感なんて出来ないんだもの。ただ、その論理を理解はした。さっきあなたに対して利用したようにね。つまりは、結果の確証は持てないけれど、付け入る隙は見つけた……みたいな? だからあとは……うん、勢いでゴリ押しましょう。それしかないわ」

「……しょうがない。他に方法なんてないし……君に賭けよう。で、僕は何をすれば……」

「うーん、あなた頭悪いからなぁ……まぁ、でもそうね。じゃあ、家族にでもなりましょうか、愛一郎」

 そういえば君とは、まだちゃんと婚約とか交わしたわけじゃないんだったっけ。

 十年前の蒼依との、とてもしっとりとした結婚の約束とは対照的に。とてもサバサバとした感じで、僕達は十年越しに、結婚の約束(?)をしたのだった。

 くぅ、嫌な予感しかしねぇ……

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