第3話・佐野薫
「才能」は最高に主観的
*
最悪だった。今でも、そのときの絶望はハッキリと覚えている。
どうして。どうして。この疑問で頭がいっぱいになっていた。当時は中3になったばっかりで、受験の影がすぐそこまで迫ってきていたけれど、そんな不安が飛び散ってしまうくらいには、その絶望は大きかった。
音楽の授業。声を出したくない僕にとって、それは当然苦痛の時間だった。でも、先生の授業方針のせいか、中2までは単独や少人数で歌を歌わせられることはまずなくて、あったとしてもそれは楽器での演奏だった。
だから、僕は歌うときは常に口パクでやり過ごしていた。べつに、バレていても良かった。自分の声を、しかも歌声を自分で聞かなくていいなら、叱られても僕は口パクを貫いただろう。
でも、2人でという話になればそうはいかない。どうしてここにきて急に方針が変わったのか、変えたのかという先生への恨みと、どうしようかという焦りと、ペアの男子(当時はまだ名前がうろ覚えだったけど、名前は
中1の梅雨の時期。あの日の事件以来、学校では、というよりそもそもの話、僕は声を出さなくなった。止まって欲しいのにそんな僕の叫びを受け入れず、好き勝手に僕の身体から離れていく僕の声に諦めがついていたから。何をやっても無駄なら、声を出さなきゃいいじゃないかと思っていた。幸いにも、声というモノは出さなければわからない「違和感」だった。
僕は、悩みに悩んだ。どうやって発表をやり過ごそうかと。幸いにも授業中の課題曲練習は全体練習だったから、そこは口パクでなんとかなった。でも、発表ではそうはいかない。明らかにひとりしか歌っていなかったら、あの先生だったら何度でもやり直しさせるだろう。
裏声でなんとか高い声をだす?風邪を引いたフリをして、声はそのせいだということにする?それとも、学校休む?僕は、どこまでも悩んだ。でも、裏声は発表中ずっと出してられるほど続かないし、風邪を引いている人には歌わせないだろう(そして補習でひとりで歌わせられる――最悪だ)。学校を休んでも、それは結局意味が無いことも分かり切っていた(なぜなら補習で……)。
しかも、何よりも僕のペアは雪中君だ。彼は、あまりにも声が高い。どうか、その声のヘルツを少しでもいいから僕に分けてほしい。そう何度も思った。もしかしたら、彼も男のくせに高い声に悩んでいて、ヘルツを捨てたいと思っているかもしれない。じゃあ、僕と声を交換しよう。そう言いたかった。でも、彼は合唱団で活躍していて、そんな自分の声を愛しているのだということが、痛いほど伝わって来ていた。
そうして、厚手の長袖がクローゼットの隅にだんだんと追いやられていく季節を、僕は音楽の授業への悩みに費やした。
けど、結局結論はでなかった。僕が無傷で済むような結論は。僕が出したのは決意だった。決意というにはセコイかもしれない。僕は、「やり直しさせられないギリギリの声量で歌う」ことを決意した。
発表当日。学校に行きたくないという思いと、行かなければいけないという思いがせめぎ合っていた。結局、そんな葛藤は日常のルーティーンによって流され、憂鬱な顔をしながら、僕は登校した。
1限の国語。ダメ。全くダメ。何も頭に入ってこない。いつもならそういうときは眠くなるけど、今日だけはやたら目が冴えて、寝れない。2限の社会もダメ。西郷だとか伊藤だとか聞いたことのある人名が聞こえるし、手は板書を取り続けているけれど、頭には入ってこない。頭の中は、課題曲の歌詞とメロディー、そして流されたはずの葛藤が、しつこくへばりついていた。
そして3限。ついにあれから一ヵ月が経ってしまった。授業冒頭の先生の話なんて当たり前のように聞き取れないし、発声練習もいつもよりぎこちない口パクになる。
いつも隣から聞こえて来る雪中君の声は今日も透き通っていて、どこまでも飛んでいく。天井近くの壁に貼られたバッハの顔が、届きすぎるその声に眉をひそめているようにさえ映る。
どうして男のくせにそんな高い声が出るのか。羨ましかった。なによりも、そんなにみんなとは「ちがう」、自分の身体とくらべて「違和感」のある声をどうしてそんなに愛せるのか。僕にはそれが一番分からなかったし、それができる彼が羨ましかった。
発声練習が終わると、もう発表が始まる。例によって出席番号順に、男女のペアが呼ばれていく。僕たちはさ行だから、5,6番目くらい。他のペアが発表している間は自習をしていていいことになっているけど、そんなの手につかない。ひたすら、手に汗を握っていた。
そして、エンマ様からのお呼び出し。
「はーい、次のペアー。雪中君と佐野さーん。」
僕も「君」呼びでいいのに。
そんなこと言ってられない。行かなくちゃ。
緊張のせいか、その時のことはあんまり覚えていない。ただ、右手と右足が一緒に前に出てしまうようなことだけは無かったはず。あって欲しくはない。でも、それだけ緊張していた。
「はい、じゃあふたりともリラックスしてね」
できるわけない。
「じゃ、始めます」
無慈悲に伴奏が始まる。
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