Hardenbergial voices

沖田一

第1話・佐野薫

空を飛びたい魚がいて


海を泳ぎたい鳥がいて


彼らは互いを羨むだろうか


魚は鱗を剥ぎ取るだろうか


鳥は翼を折るだろうか





 僕は、僕が嫌いだった。もっと丁寧に言えば、僕は私の声が嫌いだった。


 僕の声は、異様に低かった。小学生の頃、周りの同級生たちがきゃぴきゃぴ話しているのを聞いてしまうと、絶望的になるほどには低かった。


 小学校に入学したての頃から、僕は声のせいで明らかにクラスで浮いていた。でも、まだ低学年だったときは、皆あまりお互いの「ちがい」みたいなものを気にはしなかった。


 僕の声が問題になったのは、あったのだか無かったのだか分からない声変わりを終えた頃だった。小学校で高学年になった僕は、明らかにクラスのみんなと違っていて、それが原因で、いつもの友達グループから距離を置かれるようになった。


 それだけなら、僕は私の声を嫌いにならなかったかもしれない。元からひとりでいることが苦痛にならない性格だったから。でも、善悪を知らない無垢な少年少女たちは、「みんな」から何かが少し違うだけの人間を、いとも簡単にいじめだした。


 どうしてそれまではいじめられなかったのか、どうしてあの学年になってから急にいじめが始まったのかは、分からない。多分、いじめてた側も深いことは考えずに「なんとなく、みんなとちがうから」いじめていたのだろうし、そんなことは良くあることだと思う。


 それから僕は、ほとんど話さなくなった。幸いと言っていいのか、声というモノは発さなければ分からない「ちがい」だった。


 僕は、残り少ない小学校生活を暴言と無言のなかで過ごした。当時のことは、あまり覚えていない。




 その後僕に大きな変化が訪れたのは、中学校に上がった時だった。僕は、変わることを決意した。私が私であるための努力を決意したのだ。


 僕は、両親の勧めもあって、私立の中学に進学した。小学校の同級生は誰一人としておらず、新しいスタートを切るには絶好のチャンスだった。


 中学生になるその年の春休み、僕は涙ぐましい努力をした。それをひとことで言えば、発声練習だ。みんなと同じくらい高い声が出せるように、みんなと同じくらいなめらかな声が出せるように、みんなと同じくらい可愛い声が出せるように、僕は努力をした。


 何回も声優さんが出している動画を見て声の出し方を勉強したし、カラオケボックスに一日中立て籠もって声の練習をしたこともあった。両親にそんな姿を見られるのは当時の年齢もあって恥ずかしかったけれど、僕はそんなことにはなりふり構わず、家でも声を作っていった。


 そうして中学に入学した僕は、誰もが疑うことのない私だった。僕は周りの子と同じくらい高い声で話せていたし、皆と同じくらい可愛い声で話せていた。僕の事情なんて全く知らない全く新しく知り合った同級生たちは、みんな普通に接してくれた。


 そんな感じで順調な滑り出しを見せた僕の中学校生活は、どこまでも順調だった。ありがちだけど、たまたま席が近かったクラスの何人かの子とグループになったし、茶道部に入ってそこでも友達ができた。


 僕の中学校生活は、完璧だった。どこまでも、完璧だった。




 でも、完璧は、完璧でないから完璧なのだと、中一の僕は梅雨の雨に打たれながら、知った。


 それは、突然訪れた。その日はジメジメした梅雨の日だった。連日の雨でそこら中に水たまりができていたし、過労死寸前の傘はもはや撥水機能を失って、雨に侵食されていた。


 いつも通り登校して、いつも通り授業を受けて、午前中が終わり、お昼の時間になった。


 「じゃあ、ごはん食べよ」


 そのひとことだった。そのひとことが、僕の喉からは、でなかった。


 そこからのことは、あまり覚えていない。僕は僕の身に起こった事件にパニックになって、泣き出してしまった気がする。そこから担任の先生が駆けつけてくれて、いろいろ面倒をみてくれた……のだと思う。


 ただ記憶に残っているのは、泣き叫ぶ僕の声が、あまりに低かったということだけだ。


 僕が必死に作り上げた声は、時限爆弾付きの、シンデレラ・ボイスだった。華麗に咲き乱れては儚く散る花のように、消えゆくものだった。


 私の高くてかわいい声は、もう二度と、出なかった。




 ショックから立ち直る暇もなく、中学生の忙しさに溺れてゆく中で夏休みになった。


 長い長い休みが始まったその日、僕は決意をした。私が、僕になる決意をしたのだ。


 中学1年の夏を迎えた僕の体は、少しずつだけど、確実に、今まで以上に「女性っぽく」なっていっていた。だんだんと"&(")&'!%)&%'#(!くなっていった。


 でも、体がそうなっていくだけ、僕の声は体と離れていった。自分を鏡で見ながら声を出すと、自分でも違和感が湧き出るようになった。まるで、日本のアニメキャラに野太い声の外国人声優がアテレコしてるみたいに、僕には現実味がなかった。


 自分でもわかる自分の違和感というのは、どうしてあんなにも自分を破壊するのだろう。僕は、私であることを辞めた。


 僕は一人称を「私」から「僕」にしたし、自慢ではなかったけれど、かけがえのない「私」の一部だった長い髪の毛も切って、ショートカットにした。スカートをやめてスラックスで登校するようにしたし、茶道部も顔を出さなくなり、放課後はひとりきりでランニングにふける日々が続いた。


 女子っぽくない女子になれば、ボーイッシュな女子になれば、「男子」に近づけば、僕の声は違和感ではなくなると信じ込んだ。


 声が変えられないなら、外身を変えるしかない。なりふり構ってはいられなかった。そうでもしないと、僕は僕の違和感に、いとも簡単に引き裂かれてしまいそうだった。


 そうして私は僕になり、それでいて沈黙を貫く中学校生活が続いた。

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