目が覚めたらあなたは。

まろにか

第1話

 私は、夢の中で自分の意志のままに動き回ることができる。いわゆる、「明晰夢めいせきむ」というやつを見ることができるのだ。

 丁度1年くらい前の寝苦しい夏の夜。大きなペンギンのぬいぐるみを、抱き枕がわりに抱きしめて眠りについたはずの私は、何故か通学路に立っていた。

 よく晴れた夏の日。太陽は真上から少し下がり始めた位置。自己主張が激しいセミたちの鳴き声に包まれて、私は立っていた。


 その時気づいたのだ。

 これは――夢の中だと。


 そのような夢は1、2週間に1回ほどのペースで私の退屈な夜を楽しいものに変えた。

 夢の中では、なんでもできる。

 空も自由に飛べるし、海の中に酸素ボンベ無しで何十分も潜ることさえできる。夢の中の世界に人はいないけれど、不思議と「怖い」という感情はなかった。

 同じクラスの友達にこのことを話しても、

「そんなの嘘に決まってる」

「アニメや漫画の見すぎじゃない?」

 と誰も信じてはくれなかった。

 ただ1人だけ信じてくれたのは、私のおばあちゃんだ。

 そのおばあちゃんのお葬式の日に見た夢の中で、私はおばあちゃんの家を訪ねた。

 やはりそこはもぬけの殻だったが、おばあちゃんが過ごしていた温もりが残っているような気がして、その場に座り込んで泣いてしまった。



「え、もう宿題ほとんど終わったの!?」


 バドミントンシューズが床を蹴る小気味よい音を聞いながら、私と彩花あやかは体育館の外側の壁に寄りかかり、火照った体を風で冷やしていた。


「うん。だってもう夏休みも半分以上終わったんだよ? 最後の方で焦らないためにも、早めに終わらせておくのがいいかなと思って」


「いや、理屈はわかるけどさ! 普通に考えておかしいじゃん! 中二の夏だよ? 宿題なんか後回しにして、青春するのが私たちの使命でしょ?」


 彩花は、保冷機能の付いたステンレス製の水筒をほぼ地面と垂直に傾け、乾いた喉に水分を与えてからそう言った。


「彩花の偏見に私を巻き込まないで」


「いや、それにしてもさー。もうちょっと遊ぼうよ? せっかくの夏休みなのに」


「なにそれ。彼氏もいなければ友達も少ない私への嫌味ですかー?」


「いやいや、そんなつもりはないけどさー。でも本当にいないわけ? 好きな人」


 どんな会話でも否定から入るこの女には、付き合って二ヶ月の彼氏がいる。最近の彩花は、その彼氏とばっかり遊んで、去年みたいに私と家でSwitchをしながら一緒に宿題をするなんてことも少なくなった。

 彩花以外に、夏休みにわざわざ会って遊ぶような友達がいない私は、部活と勉強だけのつまらない夏休みを送っている。しかしそれを彩花に指摘されるのはなんかムカつく。


「明日からお盆休みで、部活も休みになるんだから、たまにはパーッと遊んでみるのもいいんじゃない?」


「なら一緒にプールにでも行く?」


「あ……ごめん、しおり。お盆はウチ、毎年山梨のおばあちゃん家に帰ってるんだ」


「……あー、そうだったね。まあ、お盆はプールも混むしね」


 私はタオルで顔を拭って、そばに立て掛けておいたラケットを手に取って立ち上がった。

 彼氏もいなければ友達もいない。そんな私の中学生女子としての価値は、一体どのくらいなのだろうか。

 そんなことが頭をよぎり、それをかき消すように私はコートへと入った。



 ソファに逆さまに座りながら、上下が反転した大して面白くもないテレビを見ている。ソファの背もたれから投げ出した足先に、エアコンの風が当たって気持ちいい。


「ちょっと栞! いくらお盆休みだからって、ダラダラしすぎじゃない? 少しは家のこと手伝ってよ」


「あーーーい」


 洗濯カゴを持った母がドタドタと廊下を駆ける。

 どうせ暇なんだし、母の手伝いをすればいい。頭の中ではそう分かっていても、別々に意志を持ってだらけているような四肢を動かすことは、なかなかできなそうもない。


 そうしているうちに、私は眠ってしまった。



「あ、やったー。ラッキー」


 久しぶりの明晰夢だ。両手を握ったり開いたりして、自分の体が思うようにうごかせることを確認すると、私は周囲を見回した。

 夢の中へ飛ばされたときの初期配置は、日によって様々だ。今日はどうやら、私が10歳になるまで住んでいた、海のすぐ近くにある一軒家のそばに飛ばされたらしい。

 この一軒家は、両親の「子供が小さいうちは海のそばで育てたい」という不思議な教育方針によって、私が生まれたときに10年契約で借りたのだと、以前母から聞いたことがある。

 向かいの家に住んでいた2歳年下の夏帆かほちゃんとよく浜辺で遊んでいたことを思い出す。


 そうだ、せっかくだし海を見に行こう。


 私は家の裏側に周り、潮風ですっかり錆びてしまった門扉を押す。松の木が生い茂る丘を少し上り、コンクリートの堤防を越えると、眼前には陽の光を反射する青い海が広がっていた。


「わあっ! 懐かしいー」


 砂浜を裸足で駆けていき、水彩画の絵の具のように薄く伸びる白波につま先をつける。

 湿った砂に私の足の裏が埋もれていく感触が、ひんやりとしていて心地よかった。


「やっぱりこの場所は好きだなぁー」


「わかる。いつ来ても本当に綺麗だよね」


 後ろから誰かの声がして、私は咄嗟に振り返った。

 そこには、私と同い年くらいの、優しい顔の男の子が立っていた。


「だっ……誰!?」


 ここは私の明晰夢の中だ。今まで私以外の人が出てきたことなんて1度もない。

 私は驚いた勢いでバランスを崩し、白波の上に尻もちをついてしまった。


「ああ、いきなり話しかけてごめんね。驚かせちゃったかな」


 彼はそう言って、自分の靴が濡れるのもいとわずに、私に手を差し出した。

 その迷いのない仕草とどこまでも優しい表情のせいだろうか。自分の夢の中、しかも意識のある明晰夢の中に会ったこともない人が出てきたというのに、私は微塵も恐れや緊張というような感情を抱かなかった。


「ありがとう」


 私はそう言って彼の手を取り、濡れたお尻をグッと持ち上げた。

 立ち上がった反動で、彼の喉元に思わず顔が近づく。

 身長差は10センチほど。優しい顔にどこか不釣り合いな男らしい喉仏に、思わず目を逸らしてしまった。


「怪我はない?」


「うん、下が砂だったから」


 私は俯きがちにそう答える。


「おいでよ」


 そう言って踵を返した彼は、波打ち際から少し戻ったところにある、大きな流木に腰を下ろした。そして呆然と立ち尽くしていた私を手招く。


「ねえ、あなた一体誰なの?」


 彼のところまで駆け寄って、隣に腰を下ろしながら、私はそう聞いた。

 とてもカジュアルに。同じクラスの友達に、「今日はいい天気だね」とでも言うような具合で。


「僕の名前は冬馬とうま。どうぞよろしく、栞さん」


「どうして私の名前を知ってるの?」


「ずっと昔から知っているからだよ」


 質問の答えにしては微妙にズレている気がするが、彼の屈託のない笑顔で言われると、「そうなのか」と納得してしまう。


「じゃあ質問を変える。どうして私の明晰夢に出てこれるの? 今まで、私の明晰夢に人が出てくるっていうことは1度もなかったの。あ、勿論、普通の夢の中には家族とか、友達とか、沢山出てくるけどね!」


 私は身振り手振りを加えて、彼に質問した。何故かいつも彩花と話す時よりも早口で、言葉に詰まりそうになってしまう。


「うーん、それは多分、僕が――」


 彼の双眸そうぼうが私の瞳を捕まえた。


「――栞のことを、好きだからだと思う」


 ……え?


 話している単語一つ一つは聞き取れるのに、その言葉の意味が捉えられない。

 私と彼の視線が交差したまま、いつもの何倍もの長さに感じる数秒が流れる。


 頭が彼の告白に追いついた途端、顔が火にかけた薬缶のように熱くなる。


「えっ……、ちょっと待ってよ! 私たち今日初めて会ったのに……?」


「僕はずっと昔から栞のことを知ってるよ」


「……え? それって、どういう――」


 彼の輪郭が少しずつぼやける。


 夢が覚めるんだ。



 目が覚めると、外はもう日が落ちていた。

 キッチンの方からは、母が夕食の準備をしている音が聞こえる。

 私は数分間、その場から動けずに頬を赤らめていた。


 一体さっきの夢はなんだったのだろうか。


 その日の夜は、なかなか寝付けなかった。


 睡眠不足のまま迎えた翌日の昼。

 夏休み中の子供を持つ保護者を一番助けていると言っても過言ではない素麺そうめんという名の昼食をとった後、案の定私は、リビングのソファで爆睡をかましてしまった。



 ――足の指の間に柔らかい砂の感触を感じる。一定のリズムで押し寄せる穏やかな波の音が耳をかすめる。


「こんにちは、栞」


 後ろを振り向くと、彼がいた。


「冬馬くん!」


 ――意識がある。どうやら私はまた、明晰夢を見ているらしい。

 どういうことだ? 今まで明晰夢を見る周期は、多くても1週間に1度が限度だったはずなのに。こんなことは今までで1度もない。

 私が混乱を隠せないでいると、冬馬くんが私の右手を優しく握った。


「ねえ、栞。今日は白浜公園に行ってみない?」


「白浜公園!」


 思わず大きな声が出てしまった。白浜公園とは、この海岸のすぐ近くにあり、幼い頃に私と夏帆ちゃんが毎日のように遊びに行っていた場所だ。


「じゃあ行こうか」


 そう言って冬馬くんは右手を差し出した。

 私はその手を取って、冬馬くんの隣を歩く。

 異性と手を繋ぐのなんて、下手したら幼稚園の遠足の時以来だ。列からはぐれないように、隣にいた今では名前もよく思い出せないような男子と繋いだあの時以来。


 冬馬くんの、私よりも角張った右手の感触が、私の鼓動を少しだけ加速させた。



 次の日もまた、明晰夢を見た。これで3日連続だ。

 でもそんな細かいことはどうでもいい。

 今はただ、夢の中で冬馬くんに会えることが何よりも嬉しかった。

 冬馬くんと居ると、心の奥がじんわりと温かくなる。

 冬馬くんと手を繋ぐと、心の奥に心地よいむず痒さを感じる。


 そんな、1日のうちのたった少しの時間が、私の毎日の楽しみになっていた。



「ねえ、栞。あんた最近やけに上機嫌ね。何かいいことでもあったの?」


 夏休みに入って、もう何度食べたか分からない素麺を啜りながら、母が尋ねた。


「え? そうかな? 別に普通だよ」


「普通ねぇ……。まあ、いいわ。ていうか栞、あんた最近寝過ぎじゃない? 明日からは部活も始まるんだし、もっとシャキッとしなさいよ」


 あ、そうか。お盆は今日で終わりか。


「わかってますよー」


 そんな生返事をして、食卓を後にする。

 自室に戻り、大の字になってベッドの上に寝転がり、天井に視線をやる。


 冬馬くんって、一体誰なんだろう……。


 結局今日まで、冬馬くんの正体は分からないままだ。


 残っていた宿題をぼんやりした頭でこなし、図書室で借りていた本を読んで過ごしていると、夕方あたりに強烈な眠気に襲われた。



「――栞」


 ……ん、冬馬くん?


「――栞、起きて」


「あれ……私……」


 私はその夢の中で、砂浜に座っている冬馬くんの肩に頭をあずけながら目を覚ました。


 眼前に広がる海の色は、いつもとは違う橙色で、太陽がもう水平線に沈みかけていた。


「栞、おはよう」


「うん、おはよう。ねえ、冬馬くん。なんで今日は夕方なの?」


 夢の中で夕方というのは、かなり珍しかった。特に最近の明晰夢は、全て昼間の快晴が舞台だった。

 いや、違う。

 思い返してみれば、昨日よりも一昨日、一昨日よりも一昨昨日さきおとといの方が、太陽の位置が高かった。


 段々と日が沈んでいっていたのだ。


「栞、僕は君と過ごしたここ数日が、本当に幸せだった」


「冬馬くん……?」


 その言い方だと、もう二度と会えないみたいじゃないか。


「明日も……明日も会えるよね?」


「そろそろ……僕は帰らなくちゃいけない」


「帰るってどこへ? まだ会ってから何日かしか経ってないのに……」


 柄にもなく取り乱して、冬馬くんの遠くを見つめる瞳を必死に覗き込む。


「栞――」


 冬馬くんが立ち上がり、いつものように私に右手を差し出した。

 その手を取って立ち上がると、冬馬くんは私の手を自分の方へグッと引いて、私にハグをした。


「ちょっ、冬馬くん!?」


 私は今、異性にハグされている!

 思考が追いつかない。

 筋肉が硬直する。


 そんな私を優しく包むように、冬馬くんは私を抱きしめたまま呟いた。


「ねえ、栞。他人の価値基準に自分を当てはめなくていいんだよ。栞は栞のままでいい。今の栞が……僕は大好きだよ」


 ――自分でも気づかないうちに、涙が頬を伝っていた。

 先日の部活の時、私は確かに思っていた。「彼氏も友達もいない私に、価値なんてあるのだろうか」と。


 そんな自分を肯定してくれる人がいる。


 抱きしめながら私の頭を撫でてくれる冬馬くんの手が、私の中のわだかまりを優しく溶かしてくれる。


「冬馬くん……私っ……」


 冬馬くんの体が次第に透けていく。


 まだ……まだ消えないで!


 言いたいことは沢山あるのに、言葉に詰まって何も言えない。言葉の代わりに溢れ出した水滴が、頬を伝う。


「――栞、最後にもう一つ、お礼を言わせてくれ」


 もうほとんど消えかかっている冬馬くんの顔を、必死に、目に焼きつけるように見つめる。


「――夏帆と、仲良くしてくれて本当にありがとう」


 ……え?

 なんで今、夏帆ちゃんの名前が……?


 涙で視界が歪む。


 その先にもう冬馬くんはいなかった。


 言いたいことだけ言って、私に何も言わせずに去るなんて冬馬くんはバカだ。アホだ。大バカだ。

 

 私だって伝えたかった。


 冬馬くんのことが……好きだって。


 夕日に照らされた海の輝きが、今はやけに憎らしい。



 ※※※



「ねえ、お母さん。こっちに引っ越してくる前に向かいに住んでた夏帆ちゃんって、冬馬くんっていうお兄ちゃんがいたりする?」


 翌朝、朝ご飯を作っている母にそう尋ねた。


「あれ? お母さん、栞にそのこと言ったっけ?」


「いや、聞いてないと思う……」


「そうよねぇ。――あ、分かった。夏帆ちゃんからLINEとかで聞いたんでしょ」


「まあ、そんなとこ。詳しくは聞いてないけど」


 私は母の目を見ずに、若干の後ろめたさを隠しながら曖昧にそう答えた。


「そう……。実はね、夏帆ちゃんのところって、夏帆ちゃんが産まれる前に、冬馬くんっていう男の子が産まれる予定だったのよ。無事に産まれていたら、栞と同い年になる男の子」


 母は生卵を手際よく割り、小さなボウルでかき混ぜながら、優しく言葉を紡ぐ。


「だから私と夏帆ちゃんのお母さんは、お互い初めての出産っていうこともあって、同じ境遇の仲間として励ましあっていたの。でも、冬馬くんは……流産で命を落としちゃったの」


 母はボウルの中の溶き卵をじっと見つめていた。


「……そうだったんだ。分かった、教えてくれてありがとう」


 お礼を言った私に、母は優しく微笑んだ。


 今度久しぶりに、夏帆ちゃんを訪ねてみようかな。


 それからは1度も、冬馬くんが夢の中に出てくることはなかった。

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