第3話
新たな目的地につくまでそれほど時間はかからなかった。ここに来るのはじつに2ヶ月ぶりだ。金縁で象られた『Strawberry Moon』の看板を見上げていると、
「髪を切るの?」
吸血鬼ゴーストの少女が宙に漂いながら同じように看板を見上げていた。空を飛べるならオレの後ろに乗っかる必要も無かっただろうに、少女はご丁寧にここまで二人乗りしてやってきた。一体どこまで憑いてくるつもりなのだろうか。
オレは一つ息を吐いた。幽霊につきまとわれているうんざりさ。そして、目の前のドアの向こうにいるあの人への緊張感。それらを緩和するためのひと呼吸。オレは意を決してドアノブに手をかけた。
木製のドアが軋んだ音をたてながらゆっくり開いていく。サンキャッチャーを兼ねたドアベルが軽やかな音色でオレの来訪を告げた。
目の前には一人の女性が後ろ向きに立っていた。レッドブラウンのワンレンボブの毛先が待ってましたとばかりにふわりと揺れる。サンキャッチャーのプリズムが、振り返る彼女の整った顔に優しく降り注いだ。こうなったらオレにはもう女神にしか見えない。
「弟くん、2ヶ月ぶり。急に予約がキャンセルになっちゃって。だから来てくれて助かったよ。ありがとう」
オレは
「何かあった?」
義姉さんがオレの視線に気がつき、ガラスの方に視線を寄越した。そして、不思議そうに首を傾げた。彼女には何も見えなかったらしい。彼女は気を取り直すようにニコリと笑って、オレに手を差し出した。
「上着預かるね」
言われて、ライダースジャケットのファスナーを開けながら、オレは内心焦っていた。
今日ここに来るのは想定外だった。それどころか誰かと会う予定も無かった。そして今日はいい天気。わりと暑かった。バイク乗りの身を守るライダースジャケットはもちろん長袖で、通気性があるとはいってもけして涼しいものではない。だからほどよく汗ばんでいる。
汗臭くないだろうか。いや絶対汗臭い。頭を抱えてうずくまりたい気分だ。ここに来るまでにどこかで体を拭いてくれば良かった。なんで今の今まで気が付かなかったのだろう。オレのバカヤロー。後悔先に立たず。今更言ってもしょうがない。それもこれも義姉さんからの電話で心がふわふわしていたのがいけないのだ。
とめどない罵詈雑言を自分に浴びせながら、オレは涼しい顔をして上着を渡した。義姉さんは特に変わった様子もなくハンガーに上着を掛けていく。もしかして臭くなかったのかな。奇跡的に臭くなかったのかな。いやいや絶対臭いだろ。やだもう帰りたい…。
「じゃあ、先に軽くシャンプーするね。こっちへどうぞ」
シャンプー台に案内されて椅子に座ると、モーター音とともに椅子が倒れ、上向いた顔にふわっとガーゼをかけられる。キュっと蛇口をひねる音と時間差でシャワーの水音が空間にこだました。一律で継続的なその水音は、時折断続的で不揃いになる。シャワーから出るお湯に手をあて温度を確認しているのだろう。
少しして、天から優しい声が降ってきた。
「熱かったら言ってね」
と同時に、適温のお湯がオレの頭皮を濡らす。髪を梳くように彼女の片手がオレの頭を撫でつける。そうやって一通り頭を濡らし終わると、今度はシャンプーの時間だ。
「どこかかゆいところはない?」
オレは小さくうなずき「ない」という意思表示をする。いつも思うが「ある」と言ったらどうしてくれるのだろうか。思うばかりで言う勇気はない。
カット前のシャンプーはさっと終わった。泡をお湯で流し、タオルで軽く拭き上げてもらうと、椅子がまた自動で起き上がる。顔の上のガーゼを外され、ゆっくり目を開けると、そこには笑顔の義姉さんがいる。たったそれだけのことがオレの心をどうしようもなく弾ませるのだ。
「おつかれさま。今度はこっちにどうぞ」
そう言って、セット面へ通される。2つあるモスグリーンの椅子がベージュの店内に良いアクセントになっている。レザー素材のその椅子に座ると、オレの髪をそっと触る手があった。
「さて、今日はどうする? 伸びた分だけ切って整える感じ?」
正直なんだっていい。髪型にこだわりはない。そんなことを言うときっと困らせてしまうだろうから、いつも彼女の提案にのっかっている。
鏡越しに義姉さんと目が合う。鏡越しならそれほど恥ずかしくはない。義姉さんは優しく笑うと、オレの髪からすっと手を離した。
「じゃあ、切っていくね」
ハサミがリズムよく髪を切っていく。サクサクと髪を切る音。ハサミの刃が擦れ合う音。そして、陽だまりのように降り注ぐ優しい声。今聞こえている全ての音が心地よくオレの心を癒やしてくれる。
「前から思ってたんだけど、弟くんて髪伸びるの早いよね…エロいなぁ」
そんなの都市伝説だろう。えっ、都市伝説だよね?
「ウソウソ! 髪が伸びるのが早いこととエロいことの因果関係は分かってないの。だからそんなに耳を赤くしないで。からかってごめんてば」
義姉さんはおもしろそうにクスクス笑っている。「耳を赤くしないで」と言われても困る。オレの意志とは関係なしに勝手に赤くなるのだから。あまりにも気まずくて、鏡越しにちらりと外を見ると、少女の幽霊がガラスの前を暇そうにぷらぷら浮いていた。どうせ待っているのなら中で待てばいいものを。
「そういえばさ」
義姉さんがハサミを器用に動かしながら、何かを思い出したように言った。
「この前、ちぃが『将来の夢は弟くんのお嫁さん!』って幼稚園で宣言してきたらしいの」
『ちぃ』とは5才になるオレの姪っ子だ。本当の名前は『いちご』だが、『ちぃ』と名乗り、人にもそう呼ばせている。義姉さんとオレの兄とのかわいい一人娘である。
ちなみに兄は2年前に交通事故で死んでしまった。小学生をかばってトラックに轢かれたらしい。なんとも兄らしい。それ以来、義姉さんは娘の名を冠したこの美容室を、なんとか一人で切り盛りして今に至っている。
「私はね、『ちぃが大きくなる頃には弟くんはおじさんだよ』って言ったんだけど、『それでもいいの!』って聞かなくて」
まるで困ったような口ぶりだったが、目元には笑みが浮かんでいる。そんなこと起こり得ないと分かっているから、本当は少しも困っていないのだ。
「ちぃの初恋は弟くんだよってパパが知ったらどんな顔したかなぁ。ふふ、朝までやけ酒してたかもね」
2年経っても義姉の中には兄がいる。3年経っても、10年経ってもきっとそれは変わらない。だからきっとオレは永遠に『弟くん』なのだ。
ハサミの奏でる音色が止まった。
「よし、こんなもんかな」
腕を組み、オレの後頭部を見つめながら義姉は頷いた。シャンプー台へ再び座らせられる。
「今日って外暑いよね。スースーするシャンプーにしよっか」
2度目のシャンプーは1度目よりも丁寧だった。小さな手が力強くオレの頭皮をマッサージしていく。どこにそんな力があるのかと驚くほどの握力だ。だけど、この力加減がはちゃめちゃに気持ちいい。義姉さんがクスリと笑った。
「気持ち良いでしょ。私、上手いって良く言われるの」
よっ、シャンプー上手。
「寝てていいからね。リラックスリラックス〜」
言われなくてもすでに意識は遠い。耳元で泡がアワアワ音を立てている。とても癒やされる。自然と呼吸が深くなり、胸は幸福感で満たされた。この時間が永遠に続けばいいのにと思ってしまう。
そうは言っても残念ながら、この世に永遠なんてものはない。
オレは寝ぼけ眼のまま、極上のシャンプーを終え、ドライヤーで髪を乾かされ、ワックスでおしゃれにセットされ、いつの間にか会計を済ませていた。
急に呼びつけたからと言ってサービスなどしてくれない。もちろん親戚料金なんてものもない。彼女は誰であろうと正規の値段をきっちりがっちり徴収する。それもこれも愛する『ちぃ』のため。そこが義姉さんの魅力の一つでもある。
「うん。来たときよりもかっこ良いよ」
本心なのかリップサービスなのかオレにはてんで分からない。
「今度はもう少し早く来てね。いつでも待ってるから」
義姉さんに会う前はいつも緊張する。だけど、別れのときにはまたすぐに会いたくなるから不思議なものだ。オレは後ろ髪をひかれながらもドアノブに手をかけた。
「あっ、ちょっと待って」
呼び止められ何事かと振り返ると、すぐ目の前に義姉さんの美しい顔が迫っていた。耳元にそよ風のような吐息がかかる。心臓が飛び出さんばかりの勢いでドクンと脈打った。
「糸くずついてた。いつの間に?」
そう言って、義姉さんはオレの髪に手を伸ばし赤い糸くずを取ってみせた。糸くずとオレを交互に見て、突然弾けるように笑い出す。どうやら笑いのツボに入ったようだ。なんだか幸せそうで何よりだ。
笑い泣きする義姉さんに見送られ、オレは『Strawberry Moon』をあとにした。
♢◇
「遅かったじゃーん」
見えてはいけない銀髪の少女はオレの愛車の前で退屈そうに待っていた。結構な時間が過ぎたと思うのだが律儀なものだ。今からお前を忠ゴーストに任命してやろう。
「なんだかさっぱりしたね。いい感じ!」
本心だかお世辞だかオレにはてんで分からないが、どっちにしても無視する。
「次はどこ行く? あのね、今日、親が家にいないの…だから…うちに来る…? なんてね、きゃっ♡ このセリフ言ってみたかったんだ。今日どころかずっといないんだけどね。何十年も前に成仏済みです♪」
親がいようがいまいが幽霊屋敷になど絶対に行かない。オレは本来の目的に向かってバイクを走らせる。
「ちょ、ちょっと待ってよ〜」
少女はピュウッとひとっ飛びして、オレの後ろにすぽっとおさまる。どうやら今日はオレから離れてくれないらしい。はぁ。
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