第2話

 あれはオレが幼稚園の年長のときだった。地元の小さな、だけれど一大イベントである駅伝大会で、ランナーを華麗に先導する白バイ隊の勇姿に、小さなオレはすっかり心を奪われてしまったことをよく覚えている。その感動は大人になっても色褪せることなく、最近オレはついに念願の大型二輪免許を取得した。まぁ、でも、白バイ隊に憧れて警察官を目指さないところがなんとも自分らしい。


 だから、本来はタンデム走行はまだできない。だけど今、オレの後ろには見目麗しい少女が一人、美しい銀の髪をなびかせながら、オレとのツーリングを優雅に楽しんでいる。しかもノーヘルで。  


 ノーヘルでつかまるで…ってのは冗談だ。彼女は幽霊なのでどうしたって捕まりっこない。そう、彼女は幽霊だ。ひゃー!


「見て見て! あの車ワンちゃんが乗ってるよ」


 嬉しそうに少女が指差した先。気取られないように視線を寄越すと、すれ違った乗用車の後部座席から真っ白な犬がひょっこり顔をのぞかせている。


「あれは…サモエドかな。毛がふわっふわっでカワイイ〜! あ、舌出してる。あちゅいでちゅね〜」


 なぜに赤ちゃん言葉?


「んふふ。『でちゅね』とか言っちゃった。恥ずかしい。可愛いものみるとなんで赤ちゃん言葉になっちゃうんだろうね。キミが聞こえてなくて良かったっ」


 ごめん。聞いてたわ。


 バイクのエンジン音や風を切る音に紛れることなく、さっきから少女の声ははっきりと聞こえていた。これは、少女の声が空気を震わせて伝わっているわけではないということだ。ここが宇宙空間だとしても少女の声は聞こえるのだろう。やっぱり彼女は見えたり聞こえたりしてはいけない少女なのである。


 銀の髪を風なびかせ、瞳をキラキラ輝かせるその姿は、なんならオレよりも生き生きとしているようにしか見えないが。


「あっ、右カーブ来たー! 体を右に傾けるんだよね。キミのマネしてたら覚えちゃった。ねぇねぇ見て見て! 地面すれすれ! すごくない? あぁもう、キミが見えたらなぁ」


 幽霊の体重移動ほど、オレのコーナリングに何の影響も及ぼさないものはないだろう。でも、地面すれすれは少し見たかったな。なんて思いながらウインカーを左に出す。


「ふーん、こっちを左折なんだ。てことは、動物園と水族館はなしか。遊園地、いや違う…あっ、もしかして美術館?!」


 全部違います。そもそも、着いてからのお楽しみじゃなかったのか?


「ん〜でもキミは美術館に行くタイプじゃないかぁ」


 失礼な。オレだって美術館くらい行くわ。


「ねぇ〜、キミ本当に聞こえてないの?」


 ぎくり。まさかこの幽霊心の声が読めるのだろうか。


「わたしばっかり喋ってたってつまんないよ〜。たまにはキミの声が聞きたいな〜。まぁ、たまにはっていうか一度も聞いたことはないんだけど」


 う、うん、そうだね。


「あれっ?! そもそもわたしたちさっき会ったばっかりだよね。キミのことよく知らないのに着いてきちゃった。しかもどこに行くのかも知らないのに。こんなの公序良俗に反しちゃう」


 そう言うと、少女はぱっと頬を染め、オレの背中にさっと顔をうずめた。なんでそうなる。公序良俗を気にするなら道路交通法も気にしてほしい。


「あっ、でもさ?」


 少しして、少女は何かに気がついたように顔をあげる。オレはミラー越しに少女を覗き見る。ヘルメットをしているからおそらくオレが少女を見ていることはバレていないだろう。少女はというと、さっきまでの恥ずかしげな表情はすっかり鳴りを潜め、今はなんだか楽しそうにしている。まったく喜怒哀楽の喜楽が激しい幽霊だこと。


「キミにはそもそもわたしが見えてないんだから何も起きるわけないか。わたしこんなに可愛いのに残念だなぁ。なんだかあのーあれ…そう…あれ、『宝の持ち腐れ』って感じ」


 使い方、多分違うと思う。


「それにしてもキミは全然喋らないね。普段独り言あんまり言わない人? 誰もいない家に帰って『ただいま〜』って言ったり、テレビ見ながら『なんでやねん!』ってツッコんだりしない人?」


 それにしてもよく喋る幽霊だ。気がつけば目的地まであと半分といったところまで来ている。今日はやけに時間が経つのが早い。それもこれもきっと彼女のせいだ。


「ピッピッピッポーン♪ 時刻は真夜中0時になりました」


 おい、急にどうした。まだ昼過ぎだぞ。


「今日も一日お疲れ様。頑張ったみんなにお耳のご褒美。『ヴァンパイアレディオ』今日もしっぽり始めていきましょう」


 なんだ、ただのラジオごっこか。普通に怖いな。


「それでは、早速ふつうのお便り、略してふつおたから。ラジオネーム『鉄分不足』さんからのお便りです」


 かなり手慣れた進行っぷり。声の調子もさっきまでの緩い雰囲気とはうって変わって、明らかによそ行きの声を絞り出している。なんだか本当に真夜中のAMを聞いているような不思議な感覚に陥ってくる。


「『ヴァンパイアレディオ』いつも楽しく聞いています。背中を押してほしくて初メールします。最近ボクは人間の女性を好きになってしまいました。最初はこの気持ちを隠していれば問題ないと思っていたのですが、彼女と接していけばいくほど想いは募る一方で、最近は彼女のことを考えると胸が苦しくて苦しくて堪りません。ですがどうせ報われない恋。だからいっそ全てを話して彼女の前から姿を消すことにしました。決戦は明日。こんなボクにエールをお願いします…とのことです」


 なんだか湿っぽいラジオだ。どうせならもっと爽やかな話題にしてほしい。せっかくのツーリング、ノってきた気分がずーんと落ち込む。


「報われない恋か。ヴァンパイアと人間ってどうあがいても捕食者と被捕食者。たしかに一朝一夕にはいかないよね」


 どうやら『鉄分不足』さんはヴァンパイアという設定らしい。


「で、片想いの女性に気持ちを伝えてお別れしたいからエールを送ってほしいと…」


 オレは思った。気持ちを伝えられるだけマシだろう

 と。なんだか腹が立つ。架空のラジオにこんなにも心を乱されている。そんな新参リスナーの気持ちなど知る由もなく、ラジオDJ気取りの美少女はオレの背に頬を寄せ、なんとはなしといった感じで遠くの空を眺めている。


「結局さ」


 少女は遠くを見つめたまま桜色の唇を尖らせた。


「『鉄分不足』さんはその人のこと好きじゃなかったんだね」


「だって、その人のこと全然考えてないんだもの。もしかしたら『鉄分不足』さんに告白されたら嫌な気持ちになるかもしれないよ。逆にすごく喜ぶ可能性もある。だけど告白されて嬉しくても『鉄分不足』さんは消えてしまう。どっちにしてもその人は幸せにはならないんだよね」


 少女はラジオDJという設定を忘れたらしい。すっかり等身大の少女で話を続けている。


「ヴァンパイアと人間だから報われない? それなら彼女をヴァンパイアにしちゃえば良いじゃない。にはそれができる。それが愛ってものなんじゃないの?」


 オレはギョッとした。微笑む少女の口元に2本の鋭い犬歯が見えたからだ。それは瞬きした次の瞬間には消えてなくなっていた。気のせいだろうか。気のせいにしてははっきり見えた。これが気のせいでなければ、少女はヴァンパイアの幽霊ということになる。今までさんざん見えてきたけど、このパターンは初めてだ。


「ねぇ」


 突然呼びかけられて、思わずわずかに顔を向けてしまった。聞こえていることがバレたかと一瞬焦ったが、少女は変わらず遠くを見つめていた。


「ねぇ、キミはどう思う? 愛ってそういうものなんじゃないの?」


 同意を求めるというよりは、単純に疑問系の問いかけに、オレはぐっと詰まる。


 その時、胸ポケットから振動がして、オレは路肩にバイクを寄せた。エンジン音にかき消されていたスマホの着信音が次第に大きくなっていく。聞こえてきた着信音に心臓がトクンと高鳴った。


「電話? 誰から?」


 ヴァンパイアゴーストの少女は、いつのまにかオレの目の前にいてスマホの画面を覗き込んでいる。


 画面に映し出された相手の名前を確認する必要はない。この着信音はあの人だけのものだ。


 通話ボタンを押すと同時に、問答無用でオレの心臓を高鳴らせるその人の声が優しく空気を震わせた。


「弟くん、元気にしてた? 急なんだけど今から来られないかな? お願い」


 そう言って、いたずらっぽく目を細めるその人の姿が容易に思い浮かぶ。そして、その人を想像するときはいつだって、まるでひだまりの中にでもいるかのように淡く光輝いて見えるから不思議なものだ。


 オレは新しい目的地に向けて、意気揚々と愛車をUターンさせた。

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