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#1
「湊。世の中にはな、目に見えないものもあるんだぞ」
当時の湊にとって父は、憧れの存在だった。
物知りで。力持ちで。格好良くて。家の外でもいつも讃えられている。
だからこそ父の言葉は絶対とも言えた。
「父さんはな、仕事で成功して欲しい時なんかはいつも、神社にお願いしに行くんだ。すると必ず上手く行く。それって言うのは、父さんの願いを神様が聞き届けて叶えてくれたからなんだぞ」
未成熟な体を抱え上げながら、父は娘に語り掛けた。
娘は大好きな父の言葉なら全て信じ込む。それはまだ一般的な人格だ。
「見えないものは、どうやったら見えるようになるの?」
「どうだろうなぁ? 湊と父さん、それに母さんも既に家族って言う見えない繋がりはあるぞ。まあ信じていれば、感じる事なら出来るさ」
父は楽しそうに笑う。だから、娘である湊も楽しくなって夢を膨らませた。
見えないもの。
それは確かにあるのかもしれない。
少し大きくなれば「嘘だ」と断じて。
更に背を伸ばせば「あるかもね」と受け入れて。
成長していくにつれて。現実を見ていくにつれて。
父が言った事は正しいようで、確たるものではないというのは分かるはずだった。
湊に子供が出来たなら、同じように伝える未来もあったかもしれない。
けれどその未来はあり得なかった。
それは、彼女の辿る成長が変わっていたのか。
それとも、彼女が見る現実がズレていたのか。
どちらであっても彼女は、歪んでいた。
「くそ! こんなはずじゃ……!」
高級住宅街に立つ、二階建ての一軒家。一つ一つの部屋が広く、庭はいくらでも駆け回れる。そんな家の玄関で父は悪態を吐いた。そして連れていかれた。
湊は追いかけようとするのを母に止められて、父の曲がる背中を見送る事しか出来なかった。
ある日、父は捕まった。
湊は理由を詳しくは知らなかった。当時、まだ幼かったからというのはあったが、ある程度分別がついてからも知ろうとはしなかった。仕事で何か悪い事をしたという認識だけがあった。
具体的な事などどうでも良かったのだ。
ただ事実として、父とは引き離されてしまった。
憧れの父がいなくなってしまった。
だからこそ湊は父の姿を求めるようになる。
世の中には目に見えないものがある。
その父の教えを、ひたすらに信じ込んだ。
家族の繋がりもそうだと父は言っていた。だから父がいなくなったって、繋がりなら感じられるはずだと思ったのだ。
けれど湊にはどうしても感じられなかった。
なぜ感じられないのか、その理由も分からなかった。
湊はその頃から既に、心や感情というものに疎かったのかもしれない。
そもそも、父との離別で湊が泣く事はなかった。悲しみもしなかった。
彼女はただただ、起きた事をそのままに受け止める。
故に、目に見えないものが分からない。
見ないと分からない。触れないと。聞かないと。嗅がないと。味わわないと。
そうして、見たいと思うようになった。
その芽吹きが、湊の始まりだった。
父の事件を機に両親は離婚。湊は母に連れられて、前の家の一〇分の一にも感じられるアパートでの二人暮らしが始まった。もちろん湊が文句を言う事はない。
湊の母はプライドの高い性格で、父らしき人物が何度か謝罪に来ていたが全て門前払いをしていた。
昔から犯罪を毛嫌いして、ニュースを見るたびに嫌悪を募らせている。それなのに伴侶が手を染めてしまい、激昂したのだ。湊がふと父の話題を上げただけでも声を荒げて制止された。潔癖症とも言えたのだろう。
それでも湊は母が好きだった。とは言え、母のどこが好きかという質問には答えられなかった。
見えない関係性。親子という繋がり。
唯一知る、見えないもの。
それがあるから。あるいは母と娘という関係性だから、好きだった。
母の言う事は何でも聞いた。周りからも出来た子だと褒められる事は多かった。
湊は、父がいた頃とも変わらずにいた。
しかし、母の方は変わっていった。
女手一つで子供を育てるのは難しかったらしい。
それに母は誰かに頼ろうとしなかった。母の親とは既に縁を切っているらしく、何があったって親戚に連絡は入れなかった。
それに加えて潔癖症の性格は、職場の関係を悪化させていく。生活に行き詰まればそれはどんどん悪循環を生んだ。
母は職を何度も変えた。家にいる時間が増えた。逆に全くいない時間も。
そうして、湊の生活も変わっていく。
一日一食になった。文房具を補充出来なくなった。服は破れたままだった。誰も話しかけてこなくなった。
次第に学校の給食費も払えなくなって。遠くで噂を囁かれる。
それでも湊は変わらなかった。
目に見えるものになんて興味を示せなかったから。
「お母さん、テスト一〇〇点とったよ!」
そう報告すれば、前までの母なら頭を撫でてくれた。けれど、やつれた母は耳をすまさないと聞き取れない音量で「そう」としか返してくれなくなった。
湊はニコニコしながら、母の隣に座る。親に甘える娘のように。
彼女にとっては目に見えないものの方が大切だった。
「お父さんも喜んでくれるかなっ」
離別してからより父を考える機会が増えた。
現在どうなっているかは知らないが、そんな事は関係なく。見えないからこそ、自分の後ろから見守ってくれているのだと。
そんな、見えない父をいつかは見てみたいなとも。
けれど母は違った。
「あの人の話はしないでッ‼」
初めてだった。
母から手を上げられたのは。
怒鳴られる事はあった。それは躾の範囲。その範囲を超える事はあり得ない。何より母は暴力を嫌う人だったから。
けれどその時、母は抑えきれないものが噴き出してしまった。
湊は痛みで目を丸くした。母と目が合う。その瞳は次第に戸惑い始めて。
そんな様子に、湊は純粋な疑問を浮かべた。
「何か、ほっぺたについてた?」
泣く事もなく。不思議そうに腫れた右頬を撫でる。
母が子供に暴力を振るうわけがない。
そう言った制約があるのだと、湊は心の底から信じていた。
それこそ見えないものだから。
けれど、全く間違っていた。それが正される事もない。
母は自分が犯してしまった行動に狼狽しながら、娘のケロッとした表情に恐怖を覚えた。
それから母は更に壊れていった。
決して湊を見放したりはしない。それはプライドの高い性格が許さなかったのだろう。
でも無邪気に話しかけてくる娘を遠ざけた。次第には顔を合わせない日が増えて、そうして母は、ついに逃げ場を作った。
母が閉じこもる部屋の中。そこからは母の楽しそうな声が聞こえてくる。
湊は大好きな母が笑っているのだから、自分も一緒にと覗いてみた事があった。
すると、笑う母に顔面を殴られた。迫った拳。その中には使い終わった注射器。
湊はそれらが何を意味するのか察せなかった。母に聞いても要領の得ない言葉ばかり。更には翌日になればその事すら忘れていて。
また笑い声。湊も同じように部屋を覗き込めば、今度は頭を踏みつけられた。
何度も。何度も。
「部屋には入らないでって言ったわよねぇ?」
言われた記憶はなかったが、湊は自分の方が間違えているだろうと考えた。
「お母さんごめんね。もう入らないよ」
笑いながら頷いて、部屋を出た。
全身の痛みを不思議に思いながらも、青あざが出来た顔で小学校に登校した。
それからは部屋に入らなくても母の暴力が増えた。でもその後は決まって取り乱し、どんどん不安定になっていった。
次第には、何もない場所を指すようにもなった。
「湊。あそこに虫がいるわ。追い払ってくれない?」
「? いないよ?」
母に言われて見てみるも、そこはただのフローリングの床。湊がそう伝えると、母は見えると言い張った。
そして殴って、また取り乱す。
「ごめんなさいっ! なんてことをっ……!」
「大丈夫だよ。お母さんはすごいね、見えないものが見えるんだ」
湊は泣きながら謝る母を尊敬した。
母はついに、自分がずっと見たかったものを見られるようになったのだと。
だからこそより彼女は思うようになった。
自分も、見えないものを見てみたいと。
それが、小学六年生の頃。
それからすぐ、彼と出会った。
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