第12話「enemy」

 いつも通りだ。

 放課後になると来栖湊がやって来て、それから力の覚醒を目指して特訓に向かう。場所は優が決めて、高架下の用水路か近所の公園か、その日の気分で変える。

 来栖湊はただついてくるだけでどちらかも聞きはしない。暇そうに景色を見渡して、疑問に思った事があれば尋ねてくる。いつもの優は勝手な推測をしてでも全部答えていた。

 ただし今日だけは、来栖湊の疑問を解消しなかった。分からないと素直に伝えて、そのまま足を進めている。

 足が向かう先も未だ決まっていない。

 公園が見えてきて、あと数十秒で選択肢が一つ消えると迫られたところで、優はようやく切り出す。


「なあ、今日は特訓じゃなくてさ、」


 だが、その言葉は遮られた。


「みはとぉー、ほこにいたのかぁ?」


 聞き慣れない声。粘着質で、活舌の悪い音。

 それは、優と来栖湊。二人の前に立ちはだかるようにいた。

 やせぎすな男だ。歳は四〇から五〇。みすぼらしい身なり。白髪交じりに無精髭。襟のよれた白いシャツにはいくつものシミが目立ち、チェック柄の上着のボタンは掛け違えている。


 誰だ?


 まず真っ先に優の脳内には疑問符が生じ、改めて男の格好を見て嫌悪が勝る。

 その男はなぜか、自分の左手の小指を執拗にしゃぶっていた。活舌が悪かったのはそのせいだろう。今もちゃぷちゃぷと唾液が鳴っている。

 男が見つめるのは、来栖湊。異常な生気を宿らせる眼光だ。


「………」


 対する来栖湊は無言だった。怯えではない。むしろその様子を見る優の方が、怯えていたと言えるかもしれない。

 彼女はあまりに自然体だったのだ。にこやかとすら感じる表情で、平時と何も変わらない空気を纏っている。


 目の前の異様を、当たり前のように受け止めている。


 どういう、関係なのだろうか。

 知人同士なのか。だとしても二人が漂わせる雰囲気は妙だ。まるで状況が呑み込めない優は、隣の少女と道先の男とで視線を行き来させた。

 すると、男の視線がふと優へと向く。


「おぁ? おはえ、なんだぁ?」


 小指は咥えたまま。存在への問い。

 優は口を開けなかった。明らかな異常者を前に体が強張る。一般的な反応のごとく。会話を交わしていい相手なのかの判別もつかずに動けない。

 無意識に、ともすれば助けを求めるように隣を見た。連れ立つ少女を。

 しかしその姿は、僅かな大気の動きと共に、視界の外へと消えたところだった。

 その時男は、応えない優に声を投げる。


「おぉぃ、喋れへぇのはぁ? なんれ、みはとのと——」


 直後、その鼻っ面に靴先がめり込んだ。


 ——ゴッ‼


 頭が先行し、しゃぶられていた左手が口から離れる。僅かにペキ、と硬いものが折れる音。その出所。衝撃の中心点に空く二つの穴から赤い液体が宙へ舞った。

 足取り覚束なかった体は、そのまま背後へと倒れていく。

 受け身も取れず。頭部が跳ねて重い音が響く。

 ぐったりと仰向けになった体はそのまま、しばらく動きを止めた。


「うーん、やっぱり警察に言った方が良いのかなぁ? ヤツメさんにはまだ大きな事頼めないし……」


 呑気に呟く少女。倍以上の歳の差はある男を軽々と蹴り倒していて、未だ表情は揺らがない。

 それはまるで、調味料を増やすかどうかで悩んでいる主婦のような。そんな些事で、倒れる男を見つめている。

 困惑しながらも、優は来栖湊の隣に立った。警戒心で歩みは遅く男への視線も険しい。

 近くで見れば、意識を失っているのは明確だ。

 口を大きく開け、白目を剥いている。息はしているようで胸は上下していた。四肢は投げ出されていて……

 と、確認作業で動く瞳は、左手を捉えて見開かれた。


 口に詰め込まれ、見えていなかった小指。

 それは、第一関節より上が存在していなかった。


 事故によるものか。それとも生まれつきなのか。失ってから時間は経っているようで、歪んだ先端はすっかり肌色で覆われている。

 優は人体の欠損を目の前にして、思わず視線をそらした。一瞬、自身の指も消失した感覚が脳裏をよぎり、嫌な動悸が始まる。

 どうにか思考を整理しようと、問いを投げた。


「こ、コイツは誰なんだ? 知り合い、なのか?」

「叔父さん。お父さんの弟さんだね。ちょくちょくこうして来るんだよねー」


 あまりに平然と応えるものだから、その意味を理解するのに少しの間が空いた。


「……それって、ストーカーじゃないのかっ?」

「あーそう言うのかもね」


 へへ、と来栖湊は被害者らしからぬ笑みを浮かべた。

 だから優も、危機感を覚える自分の方が間違っているのではないかと錯覚する。そんな事はない。明らかに少女の方がおかしい。

 それこそが、ようやく見えた彼女の素性なのかもしれなかった。優はそう悟りながら、肝が冷えていくのを実感する。

 その時だ。


「みなどぉッ‼」


 倒れていた体が、バネ仕掛けのように跳ね上がる。ガバリと起きた男はまっすぐに来栖湊を捉え、更なる光で瞳を濁らせた。

 腕が伸びる。欠けた左手が。

 少女は突然の事にキョトンとしている。このままでは、掴まれてしまう。

 何が何だか分からない。それでも優は、無意識に足を踏み出した。


 ——ダッ!

 なんの捻りもない、体当たりだ。


「ごあっ!?」


 側面からの力にやせぎすの体はあっさりとバランスを崩される。呻きながら、しかし男はすぐに起き上がろうと足に力を入れた。


「逃げるぞ!」


 優は来栖湊の手を取り走り出す。途端に意味不明な叫び声が背後で聞こえ、必死に路面を蹴った。


 無我夢中だった。何も考えず。ひたすらに足を動かす。


 いつもは通らないような複雑な道をわざわざ選んで、何度も何度も角を曲がる。度々後ろを確認すれば、男は追って来ていない。それでも不安は消しきれず、足は止められなかった。

 あんな異常者とは関わってはいけない。

 それは自分だけでなく、彼女も同様だ。例え、半身が異常に浸っているのだとしても優は守るべきだと考えた。

 何も知らなくたって、本能がそう言っている。


 それこそが、ずっと悩んでいた答えだったのだろう。


 ギュッと握る手に力を籠める。すると、握り返される。それに応えなくては、と疲れた足に鞭打った。

 それから更に迂回路をいくつか通って、たどり着いた勝手知る場所で、優はようやく足を止めた。


「はぁっ、はぁっ」


 息は切れ切れ。左手を膝について呼吸を整える。右手はまだ、来栖湊の手を握っていた。

 彼女の方も多少息が荒い。けれど優ほどではない。体力面では彼女の方が秀でているようだった。

 その事実に情けなさを感じつつ、優は逸る動悸を無理やり抑え込む。


「あいつ、追ってきてないよな……?」


 振り返っても姿はない。声も聞こえない。だから大丈夫なはずだ。

 すると、ポロリと来栖湊が零す。


「優くんが撃ち殺してくれたらよかったのに」


 そう言われてドキリとした。それは胸の高鳴りなんかではなく、心臓を握り締められたような感覚によるもので。

 優は言い訳みたく口を開く。


「……力はまだ、ちゃんと使えないから」

「そうだったね。だから特訓してるんだ」


 忘れていたとばかりに納得する。あまりに平常運転だ。

 先ほどの叔父だという人物を前にしても、蹴り倒しても変わってはいなかった。

 知らない面が、急に表層へ浮かんできている。それがよく分からない焦りを生んで、優の思考を散乱させた。


 これからどうするべきなんだ……?


 来栖湊の叔父が襲撃してくる直前、優が言いかけた提案。それを改めて伝えるべきなのだろうが、未だに躊躇がある。その先の恐怖が膨らんでいる。

 不意に、優の右手がグイっと引っ張られた。繋がる相手が動いたのだ。それによって、これまでずっと手に触れている事を思い出して、急に恥ずかしくなった。

 離した方が良いよな、と思春期男子を呼び起こして、手の平を広げようとしたが、その直前に声を投げられる。


「ねえ」

「んっ!?」


 身構えていなかったからか、優は肩を跳ねさせて大きな音で返事をしてしまう。そう言った事は今までもよくあったので少女の方は特に気にせず、空いた右手で、ある場所を指さした。


「ここ、優くんのお家だねっ」


 人差し指の先。そこには《多々良》という表札が掲げられている。

 まさに、優の実家だった。生まれも育ちもこの一軒家だ。

 逃げる先で一番安全そうだと思いついたのが、中に無断で入れるこの場所。けれど女子を家に連れ込む抵抗感が、玄関前で足を止めさせていた。

 優は未だ握られる手の羞恥もあってか、少しぎこちなく頷く。

 すると、来栖湊はぱっと顔をほころばせた。


「だったら、今日はお家で特訓しようよっ」


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