case10-7 『あまりにも重い問いかけ』
オルコットは処置室の前にあるソファーに座りながら大きな溜め息を吐いた。
瞳を閉じて、そのまましばらく動かない。
そうすると今まで意識から外れていた刺激がたちまちやってきた。
病院全体に漂う消毒液の臭い。
この臭いが苦手という者は多いが、オルコットは好きだった。この独特な臭いは生命が終わっていないことを教えてくれる。
消毒液が使われているということは、まだ助かる見込みがあるということだ。
あちこちから聞こえてくる人の声。
それは子どもの泣き声、待ち時間中に居眠りをする男性のいびき、大きくなったお腹に話しかける女性の声、どこからともなく聞こえてくるしゃがれた呻き声。
病院ほど老若男女、世代が異なる人間が集まる場所は中々無いだろう。
オルコットはもう一度溜め息を吐いて目を開いた。
そして、自分がかなり疲れていることを自覚する。
資料を徹夜で読み込んだ時とは全く異なる疲れ──精神的疲労は未だに慣れない。
これまでも精神的に厳しい場面はあった。
エマを射撃した時。
第三皇女との初対面。
辺境伯との初対面。
しかし、今回のしんどさは歴代最高かもしれない。
ロア・ラーゲンフェルト。
ラムキンにて発生している連続不審死事件の最初の被害者の娘。
エマに異常なまでの憎悪を抱く少女。
オルコットの精神的疲労の原因だ。
とにかく空気が最悪に重いのだ。
ロアはエマを憎み、ノノを嫌っている。
ノノはエマを傷付けたロアに怒りを覚えている。
そして、エマはロア自体を嫌っている様子は無いが、ノノを侮辱されるとブチ切れる。
何よりもキツいのが、いつも空気を変えてくれるノノが悪循環の中に入っていることだ。
これにより場を仕切れるのがオルコットしかいない。
地獄のような空気の中で話を進めるのは精神がゴリゴリ削られていく。
団体行動する必要は無い、と思ったオルコットは病院に着いてすぐに別行動を提案。
エマとノノ。
オルコットとロア。
この組み合わせで行動し、治療後は警察署に再集合という形にした。
提案自体は悪くはなかった。
別々に行動することによって空気が悪くなることはなくなる。
だが、このロアという少女がとにかく厄介だった。
行動を共にすることで分かった事がある。
彼女は極度の人間嫌いなのだ。
診察室にて医師が傷の具合を確認しようとしたら、
「触るな! 気持ち悪い! お前みたいな奴に触れられるくらいなら死んだ方がマシだ!」
と怒号を上げる始末。
何の脈絡もなく唐突に暴言を吐かれた医師は相当ショックを受けてしまったようで泣きそうになっていた。
触診を諦めて、問診するもロアはガン無視。視線はずっと床の方に向いていた。
見かねたオルコットが仲介役となって、何とか診察を終えて傷の処置へと移ったのだ。
処置室に入る前に散々念を押したおかげか、中からは怒号は聞こえてこない。
大人しく処置を受けてくれているのだろう。
「まるで不良だな」
ロアの行動や言葉遣いにどこか既視感があると感じていたが、ようやく正体を見つけることが出来た。
背景の重さ、エマへの憎悪があまりにも強烈で隠れていたが、よくよく観察してみるとやっていることは不良少年、少女と大差ないのだ。
だからなのか、今までの曲者たちとは異なり少しだけ気が楽だった。
×××
病院を出て、オルコットとロアは警察署へと向かう。
並木道を歩く二人に会話らしいものはない。
ロアが話したくなさそうなので、それを尊重していた。
だが、しばらくするとロアは忙しない態度を取り始める。
「どうした? どこか痛むのか?」
「うるさい。黙れ」
「黙って欲しいなら心配させるような態度を取らないでくれ。鎮痛剤飲むか?」
処方された鎮痛剤をロアに見せる。
すると、腹の音が聞こえた。発生源はあえて言わない。
顔を真っ赤にして俯く少女にオルコットは苦笑する。
「そういえば何も食べてなかったな」
オルコットは目先に丁度あった移動販売車で軽食と飲み物を買うことに。何が食べたいか聞くもロアはだんまり。仕方ないので店員のオススメを購入。
ベンチに腰掛けて遅めの朝食をすることに。
「手伝うか?」
「いちいち聞くな。これくらい一人で出来る」
悪態をついて、ロアは左手で器用に軽食を食べ始める。
その姿を眺めながらオルコットはつい質問する。
「左利きなのか?」
「は?」
「いや、随分と綺麗に食べるからさ。左利きなのかと思って」
「そうだったら何?」
「利き腕折れなくて良かったなって。一番は折れないことなんだけどな」
本心から言っていることが分かり、ロアは面白くなさそうに舌打ちをした。
「両利きだからどっちが折れても関係ない。……いちいち干渉しないで」
「分かった。分かったからそんな嫌そうな顔するなよ」
「ふん」
鼻を鳴らしてからロアは意識を食事の方へと向ける。
オルコットは「心配しがいのない奴だ」と小さく呟いて、飲み物に口をつけた。
その後、食事が終わるまでは互いに無言だった。
食事終わり、オルコットは再び質問をした。
これは捜査の一環なのか、はたまた個人的な興味なのかは分からない。
それでも、エマたちと合流する前に聞いておきたかったのだ。
「君は本当にエマが犯人だと思うのか?」
問いの意味を理解した瞬間、ロアの表情は怒りに歪んだ。
少しでも言葉を間違えたら殴りかかってきそうな雰囲気だが、オルコットも引かない。
「ラーゲンフェルト家の事件は十年前だ。その頃のエマは何歳だ? とても犯罪を起こせるような歳じゃないだろう」
犯罪自体は低年齢でも起こせることはある。
実際に五歳の少女が明確な殺意を持って隣の家の子どもを殺したという例も報告されている。
しかし、子どもが全く無関係、赤の他人を……大人を二人も殺せるかと問われれば、首を縦に振る者は少ないだろう。
「お師匠は言っていた。『姿に惑わされるな。化物はどんな姿にでもなれる』──エマ・ムエルテの見た目が子どもでも『死神』というのは事実だ」
「それに、エマはこの事件を解決しようと動いているんだぞ? 自分が犯した未解決事件をわざわざ掘り起こす必要があるか?」
「お前……やっぱりエマ・ムエルテの味方じゃないか! 擁護ばかりして!」
「違う。客観的に見て思ったことを言っているだけだ。俺はこの件……事件に関してはなるべく公平に見るように努力している」
ロアは反論することが出来ずに下唇を噛み締めた。
左拳を強く握りしめながら、血を吐くように言葉を紡ぐ。
「疑問はある……でも、初めてエマ・ムエルテと対峙した時、アイツが纏っていた雰囲気……あれは確かにパパとママを殺した奴が纏っていた雰囲気と一緒だった」
「………………」
怒りは徐々に膨れ上がる。
だが、それは突如萎んでいく。
俯くロアから滲み出る感情はある種の恐怖だった。
「でも、もし……仮に……エマ・ムエルテが犯人じゃなかったとしたら……。アイツを殺すために費やした十年間の意味は? 行き場を失う、このどうしようもなく膨れ続ける憎しみは? ロアはどうすればいい……?」
その問いにオルコットは答えられなかった。
それは、彼女の存在そのものに直結する──あまりにも重い問いかけだった。
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