春喰み
春喰み
作者 花森ちと
https://kakuyomu.jp/works/16817139557941482862
小説家を夢見た旅人が、十代のままでいられるようアオいアオい春の森に囚われ、この森の闇をどう言葉に表そうかと思いながら堕ちていく気がする話。
純文学っぽさがある。
旅人が表そうとした『森の闇』の話が、本作かしらん。
ファンタジーを比喩に使い、内面を幻想的に表現した作品。
主人公は旅人、一人称私で書かれた文体。自分語りで実況中継をしている。全体的に比喩で物語られている。
女性神話の中心軌道に沿って書かれている。
行く末を不安に思いながら、小説家になりたくて旅に出た旅人は、アオいアオい春の森で木の根に脚を囚われる。
過ぎ去っていく旅人たちを傍観しながら置いてかないでと声を上げるも、去っていく旅人たちは無言のまま背中で『おまえはわたしたちに敵うような努力をしてきたのか? おまえはわたしたちと共に歩ける技量があるのか?』投げかけてくる。
空風の中、木の根から滴る黄金の蜜を舐めて、度に出ることのできない体へとなっていく。「あのあたたかいおうちでぬくぬくしているほうが、ずっとずっとよかった」と過去にすがっていると、 「ああ、よく寝た」と、大木の幹に現れた老人の顔が声を上げる。
旅人は大木に、なぜ自分を捕まえたのか問う。
大木は「キミは心のどこかで行く末を不安に思っていたろ? だからボクはそんな旅人たちをこの青い十代のままでいられるようにここへ閉じ籠めているんだよ。この先、苦しい思いなんてしなくないだろう?」と答え、同じように捉えられている旅人の姿を見せる。
旅人は小説家になりたくて旅をしていたことを思い出し、森の闇を言葉に表せたらいいのにと願い、森の囚われてよかったかもしれないと思いながら堕ちていく気がするのだった。
素直に読めば、ファンタジー作品として楽しめる。
小説家を夢見ながら、不安も抱えて旅に出、春の森を抜けて夏の湖へ漕ぎ出し。次は埜、埜の次は海、その先は誰も知らない。誰も知らないその先を確かめようと出かけたのだ。
『メイドインアビス』でリコたち探窟家が奈落の底を目指していくように、本作の旅人たちも、見果てぬ先を目指していく。
なにも、物語に限ったことではない。
私たちの人生もまた、旅なのだ。
若者は必ず、ここではない何処かを夢見て、旅に出る。
現状に不満を抱き、まだ見ぬ世界にはきっと、夢のような世界があると信じて、憧れだけをもって出かける。
それは今を生きる私たちだけでなく、親の世代はもちろん、その前に生きてきた先人たちも、くり返ししてきた生き方である。
主人公の旅人は、春の森の木の根に囚われて、動けなくなってしまう。ほかの旅人たちはどんどん先へと進んでしまうし、誰も助けてくれない。
「錆びついた火炎銃で炙っても刃こぼれのひどい刀剣で引っ掻いても離れることのない」とある。
春の森はファーストステージなのかもしれない。
ただ、森の大きさは広大なのだろう。
以前は錆びついてもいなければ刃こぼれもしていなかっただろう。でもいまはすっかり錆付き、刃こぼれしている。
おそらく、手入れをしていないのだ。
『おまえはわたしたちに敵うような努力をしてきたのか? おまえはわたしたちと共に歩ける技量があるのか?』と、背中で語られる他の旅人の言葉の努力と関係があるのだろう。
主人公は道具、つまり自身を磨くことを怠ってきたのだ。
森を抜けて先へ行けるものは、鍛錬と修練を怠らず、失敗から学び、小さな成功を自信に変えて、一つずつ経験をつみながら成長してきたものだけなのだろう。
かといって、誰しもが森を抜けられるわけではない。
「この森を見回してみると、今まで通ってきた獣道に沿うように、私のような旅人が、私のように堕落しながら、私のように嘆きながら、この森に、この『青春』という名前のつけられた忌々しい十代という醜い年代に囚われていたのである!」と辺りを見てきづいたように、おそらく努力や技量があっても囚われる者はいるのだろう。
大木の老人は「心のどこかで行く末を不安に思っていたろ? だからボクはそんな旅人たちをこの青い十代のままでいられるようにここへ閉じ籠めているんだよ。この先、苦しい思いなんてしなくないだろう?」と語っている。
不安を抱えぬ者などいるはずはない。
大なり小なり、少なからず不安を抱える。
先に迎えるのは、自分で決めたゴールに辿り着くという信念がある者だけかもしれない。
黒黒とした木の根にたらたらと滴る黄金色の蜜を舐めたことで、虜となってしまう。ファンタジーとしてはその世界のものを口にすると、元の世界には戻れないとする考えはお約束。だけれども、そういう意味合いもあるけれども、別な意味もあると考える。
私たちは小中高と学校という名の、模擬社会のゆりかごに揺られて、ほとんどの十代は過ごしている。
ある意味、モラトリアムな期間だ。
法改正で十八歳から大人となる。
それでも大学や専門学校へ進むと、モラトリアムでいられる時間が伸びる。社会による十代や学生で得られる利点も多く、有限とはいえ若さと時間をもっている。
行く先の不安を考えれば、いまのまま続けばいいのにと願いたくなる気持ちも十代ならば、多少なりとも湧くのは当然かもしれない。
本作は、作者自身の気持ちを書いているのかもしれない。
「卑しい木の根に殺され、卑しい木の根に生かされていたのだった」
この卑しい木の根とは、家族か学校、青春時代なのかそれとも社会かしらん。
なにかに挑むことを上手に避け、親の庇護を受けて怠惰に過ごし、何もしないで生活保護を受けて自堕落にズルズル過ごしたのち、浮浪者のごとく住処を転々とする行き方をして最後に事件を起こして塀の向こうでぬくぬく暮らす。
やろうと思えばできるかもしれない。
そんな生き方の中、「こんなことになるまえにいた、あのあたたかいおうちでぬくぬくしているほうが、ずっとずっとよかったのだわ」と過ぎた日を懐かしんでも遅いのである。
幸いにして、主人公は小説家を夢見て旅に出ている。
まともな生き方をしている人は、小説家には向かない。
挫折し、頼る人もなく、書く以外に他にどうしようもない人こそ、小説家に向いている。
囚われて動けないということは、執筆する時間が有り余っていることの現れである。
目とは、網膜に光が当たることで見ている。
ただし、神経のある一点だけは光が当たらない。
その場所を盲点といい、脳は見えない部分を過去の経験から作り出して見せている。これを充填現象という。
つまり脳は、見えないものを過去の経験を元に現実を作り上げている。
なので、まだ実現していないなりたいものを言葉にくり返すことで経験にし、現実にする方法を取れば、なりたい自分になることができるのだ。
だから、ネガティブなことを口にするなと言われるし、昔あった嫌な経験をくり返し思い出してはいけないと言われる由縁である。
行っていいのは、「なりたいものを言葉に出してくり返す」「出来たことをふり返る」の二つ。
反省は失敗をふり返ることではない。
出来たことをふり返ることで自信に繋がり、前に進めるのだ。
最後、主人公の旅人は『 』と「 」を使い分けて内面を吐露している。おそらく『 』は心で、「 」は口に出していると考える。
主人公はなにもかも失ったかもしれない。
でも、森の闇を愛するようになり、森の闇を言葉に表せたらいいのにと願望を口にし、森に囚われてよかったのかもしれないと言っている。
「生温かいゆりかごへ堕ちていくような気がした」とあり、気がするだけで、堕ちているわけではないのだ。
そもそも、『私はどうして小説を書きたいなんてそんな大層なこと思ってしまったのだろう』と思っているだけで、小説家を諦めたとは一言も書いてない。つまり、まだ諦めていないのだ。
主人公の旅人のような人間こそ、驚くような小説が書けるかもしれない。
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