夏の光

夏の光

作者 花森ちと

https://kakuyomu.jp/works/16817139558098620652


 来月はじめの演奏会でショパンのノクターン十三番を弾くきみに嫉妬しながら羨望するわたしは、ピアノの音に恍惚に浸りながら消えてしまいたいと願う話。


 誤字脱字等は目をつむる。

 主人公の心の中の世界を、覗き見させてくれたような作品。

 詩的な比喩表現がいい。

 よく考えて曲選びされている。


 主人公はピアノ教室に通う女の子、一人称わたしで書かれた文体。でます調で書かれており、自分語りの実況中継、詩的な比喩で幻想的な夢の世界観を描いている。一文がやや長い。


 女性神話の中心軌道にそって書かれている。

 きみのピアノの才能に嫉妬する主人公のわたしときみの二人は、正午の電車に乗って帰路についている。来月の初めに開かれる演奏会で弾くのを楽しげに話したきみは、ショパンのノクターン十三番をイヤホンで聞きながら、主人公とともに寝ている。

 主人公は夢の中で、きみのピアノに嫉妬しながら、きみの音で死にたいと切望する。

 君の隣で目覚めた主人公は、イヤホンから聞こえるノクターンをききながら、きみの奏でるピアノに酔いしれながら消えてしまいたいと思うのだった。


 一緒に励んできたのに、相手の子には才能がって、自分には才能がない。ピアノに出会わなければこんな思いもしなかった。どうせかなわないなら、才能のあるあの子の音で死ねたら、美しく死ねる。だからあの子の音を致死量までほしいと懇願しているのだ。


 ピアニストに限らず、同年代で優れた才能を持つ人がいると、必然的にライバルとなり、勝てなければ自分が負けてしまう。勝者の席は常に一つと数が決められているから。

 競争のイス取りゲームに負けた経験のある人は、一度は思うことかもしれない。


「きみのピアノの音はきっとアイロニー五十錠の効き目があって、わたしは劣等感というコップ一杯の水を溶媒に飲み干していくのでした」この表現が作品全体を表していて、詩的な比喩表現も面白い。

 アイロニーとは皮肉である。

 きみのピアノの音は、皮肉五十錠分の効果がある。

 どんな皮肉かといえば、

『あたしはあなたよりも才能があるし努力もしてきたわ。あなたはなにも無いじゃない。なにもできない怠け者さんはそうやっていつまでもそこで地団駄を踏んでいればいいのよ!』

『あなたはあたしよりも綺麗にうたえるじゃない。だから自分自身を卑下しないでよ。もっと自信をもって。そんな悲しいこと言っていたら、あたしも辛くなっちゃうわ』

 というものだろう。

 この皮肉を、コップに注いだ劣等感とともに飲み干すという。

 実際あの子のピアノを聞くと、自分には弾けない素晴らしさに劣等感がつのり、静かな夜の印象を奏でるノクターンでさえも皮肉めいて聞こえるのだろう。

 劣等感に苛まれて自己嫌悪におぼれ、「わたしなんかが音楽なんて大層なモノに触れなければよかったのだ」と自分を卑下し、彼女の音を求めながら、ますます相手の子のピアノに嫉妬をつのらせていく。

 どんな言葉も音も、主人公には皮肉で嫌味にしか聞こえず、ならばいっそ消えてしまいたいと願いながら、自分が素晴らしいと求める彼女の音で死ねたら美しく死ねるから、致死量の錠剤を煽るように音を求め続けようとする。


 本作の大半は、夢の世界を描いているため、はっきりとした映像が浮かぶ表現は少なく、作者独特の深層風景を描く表現がなされている。そこがまた良い。


「真っ黒に染まったわたしは誰も知らない海岸に流れ着きました。月光のたゆたう藍色の波は頬をやさしく撫でて罪を流していきます」

 嫉妬に寄る自己嫌悪に黒く染まった主人公がたどり着いたのも、夜の海。

 夢の中はどこまでも暗く深く沈んでいる。

 目を覚ますと、「正午の光を走る電車」に乗車している。

 現実は明るいのだ。

 この対比が面白く、昼間の明かりが車窓から降り注いでいるとしても、主人公の心はいまだに暗闇に深く沈んだまま。

 

「お気に入りの夜空色のドレスを纏ってピアノを弾く君のすがたを思い描くと、黒く嫌な塊は『ぱっ!』と散って、そこから生まれた羨望の火花が君を覆っていきました」

 相手の子への嫉妬が一瞬で晴れて、憧れにかわる。

 それでも、相手の子が「夏の光なのだとしたら」自分は「誰の目にも留められない」「夏陰」だと対比で表されている。

 世界そのものを覆っていた黒い闇が、どんどん小さくなっていく。

 それでも心に残った想いは「君のその夏の光に恍惚としながら消えていきたいと静かに願」ってしまう。


 とくに落ち込んでいる人の心を目で見える形にしたら、本作のようなどす黒い暗闇に包まれているのかもしれない。

 心象表現がうまい。


『あなたはあたしよりも綺麗にうたえるじゃない。だから自分自身を卑下しないでよ。もっと自信をもって。そんな悲しいこと言っていたら、あたしも辛くなっちゃうわ』

 相手の子の言葉を主人公は「きっとそんなことを思っていない」「きみはわたしなんかよりもずっとずっと綺麗にうたえるのだ」と、信じていない。

 もしかしたら本当かもしれない。

 相手の子は、主人公が歌う曲を弾きたいと思っている可能性もある。だけれども、嫉妬に飲まれている主人公には届かない。他の考えや思いすらできなくなっている。

 なにより主人公はピアノが弾きたいのだ。

 それでも、自分より才能がある人はいて、目の前にいる。

 おそらく相手の子にはかなわない。

 だから次の夢を見つけなければならない。

 そのためにも、いまは一生懸命落ち込む事が必要なのだ。

 自分が輝ける場所で夏の光になるために。


 ショパンの作ったノクターン(夜想曲)はどれも美しい。ノクターン十三番は、全二十一曲中の最高傑作、最初と最後でテンポが倍速になるという変わった曲。途中から五本の指では足らなくなってくる。指番号を決めておかないとぐちゃぐちゃになってもつれてしまうほどだ。

 ショパンの曲にはコラールがよく出てくる。

 コラールとは賛美歌のこと。教会で合唱、四声で歌っていることをイメージし、音の動きと響きを十分に意識する。急激に盛り上げないように。

 ハ短調の中間部は指が届かなくなる人もいる。

 奈落の底や空白を表現したかったから、中間部をハ長調にしたのではという考えもあるらしい。

 なので、主人公が落ち込んでいる時に流れる曲としてはふさわしい。

 

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