家族

家族

作者 相坂あい

https://kakuyomu.jp/works/16817139556797897655


 友人の訃報をきいて通夜に参列した男の話。


 物悲しい。

 作品からやりきれなさを感じる。

 ムンクの『叫び』の絵のような話に思えた。


 主人公は生まれた田舎に住む大人の男性、一人称僕で書かれた文体。感傷的に情景を語り描写し、友人語りをしつつ実況中継もしている。比喩表現を多用している。


 女性神話の中心軌道にそった書き方をしている。

 初夏。友人が電車に飛びこんで自殺した知らせを聞いてショックを受けている主人公は、式場に向かっている。

 子供の頃から住んでいる田舎道を歩きながら昔を振り返り、かつて友人が語ってくれた話を思い出す。

 成績の良かった彼は都会の大学に行き、卒業後に同棲を始めた高校の同級生だった彼女と籍をいれ、子供も生まれた。

 奨学金を返しながら上司の理不尽に耐えつつ、妻と子供のために休みもなく朝早くに家を出て夜遅くに帰宅する。子供と話す時間も彼女と愛し合う時間ももてず、身を粉にして働いた。

 深夜に帰ったある日、家族はいなくなっていた。

 それからほどなくして、彼は電車に飛び込んだという。

 式場に飾られている遺影の傍には、彼の両親が座っていた。だが、彼の愛した家族の姿はいない。

 主人公は友人と会話した、最後の人だった。

 故郷と変わらぬ夕焼けを家族と見ることができたなら、悩みも忘れることができたかもしれないと、雲ひとつない初夏の夜空をみて思うのだった。


 全体的に、ぼやっとした印象をおぼえる。

 本作は比喩表現を多用しているせいかもしれない。

 とにかく、もやもやする。

 なぜだろう。


 わかりやすくする為に比喩を使うと考えていると思うのだけれども、多用しすぎると読み手が迷って、むしろ伝わらないことがあるので、ここぞという所以外は平易な言葉のほうが伝わりやすいのではと考える。

 書き出しがわかりにくい。

 憧れてきた町並みが色あせてくすんだような感傷状態にある主人公がまず居る。

 そこに日中の暑さにくらべたら冷えてきた空気が肌にまとわりついて一段だけ体温を下げた。一度くらい体温が下がったのでしょう。

 そしたら、通りを過ぎる人々の笑い声がゆっくり響いてきた。

 三つのことを一文で書いているから、わかりずらいのかもしれない。

 初夏の話なので、日中の暑さが和らいで、少し涼しくなったのだろう。

 気温が下がると音の通りが良くなるのは確かだし、涼しくなったおかげで人々も陽気に話せるようになった、あるいは暑気払いにこれから飲むつもりをしているのかもしれない。

 

「歩き慣れた道の端には、たくさんの子供たちで賑わっていた駄菓子屋が、今では誰もいなくなった暗い部屋を寂しげに覗かせ」ていた。

 賑わっていた様子を書いて、今はその姿もなく寂しいという書き方は良い。対比のおかげで、さびしさが伝わってくる。


「子供の頃には忌々しくさえ感じたいつもの紅い夕焼けが、今日はなぜか涙を誘う」

 夕日をみると涙を誘うのは、前の部分のにぎやかだったけど今は寂し駄菓子屋と夕焼けが同列、同じものとして存在しているから、主人公は涙を誘うのだ。


 これも一文で書いている。

 二つにわけてもいいのではと思えてくる。 

 思えてくるのだけれども、おそらく作者は意図的に、友人の訃報によって冷静さを欠いている主人公の精神状態を現しているのではと邪推する。

 不安定な精神状態にあるからこそ、見るもの聞くもの感じるもの、自分の気持ちすらまぜこぜになってしまっている。

 そんな状態を表すための書き方なのでは……。


「都会の機械的な灯りと不幸せを飽和するビル郡は田舎者を歓迎しなかった」この表現は上手い。

 ただ、田舎でも外灯は機械的に点灯する。

 むしろ都会の灯りは夜通しついているイメージがある。

 あとで友人は朝早く夜遅く働いているとあるので、灯りはつきっぱなし、友人は働きっぱなしとなるような書き方もできるのではないかと考える。


「粘土細工のようにぼやけて見える田園」とある。

 いまひとつイメージがむずかしい。

 粘土細工がぼやけてみえる、がわかりにくい。

 粘土細工を持ち出したのは、この話の前に自分が子供だったときの仲間のことを思い出していたから。

 子供が遊ぶものの象徴として、出てきたのかもしれない。

 子供の頃は粘土でよく遊んだけれども、今は思い出してもぼやけてしまうほど、とうの昔に粘土で遊ぶのを卒業してしまった。

 それと同じくらいに主人公にとって田園風景は同じく遠い存在になってしまった、ということをいいたいのだと思う。

 思うけれども、わかりにくい。

 そんな遠い存在になってしまった「田園」が、「夕焼けの紅を反射して痛々しく流血を晒しているように見えて」るのだ。

 水の張った田園に夕日の紅が反射していて、それが流血のようだといいたいのだろう。

「痛々しく」と形容し、田園が「晒して」いるようにみえるという。

 遠い存在になってしまった子供時代が、見せつけるように痛々しく血が流しているように主人公が夕日が映る田園をみたとき、「彼が帰ってきた時の事を思い出してしまう」という。

 つまり、友人が話してくれたことは、血の涙を流すほど痛々しいものだったことを表現していると推測する。


 さらりと読んだだけでは伝わらない。

 私の読みも正しいのかわかりません。


 主人公が彼から聞いた話は、つらいですね。

 昔から言われるのですが、社会の歯車のように、馬車馬のように、身を粉にして働く姿は、いろんなものが削られていくようで痛々しい。

 奨学金は借金なのでしてはいけない。

 リボ払いもしてはいけない。

 国内で家賃が一番高いのは東京都市部なので、「東京での生活で切り詰めていた部分もあったとは思うが、なけなしの金を溜め込んで得た微かな幸せ」この部分が、すごく現実感がある。

 もやっとした主人公の比喩的な心象にくらべると、友人の話の部分は具体的で、「自分を守るための唯一の娯楽が酒だった」「どれだけ働いても溶けていく金と、次第に会話が少なくなる家庭」「夜遅くに帰ってきて、朝早くに家を出る、休みなんてほとんどないから子供と話す時間も、彼女と愛し合う時間もない」「彼はその日、深夜に家に帰った。しかし家族はいなかったという」「それから少しして、彼は電車に飛び込んだ」型通りにおもえるも、現実味を感じる。

 

「自分が生きている意味も、全ては彼女と子供のためだったのに、笑っていてもらいたいがために増やした仕事と失った時間は、家族の関係を徐々に壊していた」

 この部分の対となっているのが、

「故郷と変わらない紅い夕焼けを彼も見ることが出来たなら、出来ることなら家族と見ることが出来たなら、そんな悩みも、それに窒息してしまいそうな自分自身も、連れ添う恋人も子供も家族も、払拭して忘れる事が出来たのかもしれない」

 終わりにでてくる主人公の考えだと思う。


 主人公は、「僕は彼と最後に話した人だった」とある。

 なので、友人を救えたのは主人公である彼だけだったと思われる。

 本当に友人で、彼を助けたいと思うなら、強引に「故郷と変わらない紅い夕焼け」を見せて、自分の考えを語るべきだった。

「彼はきっと、その憂鬱を僕に笑い飛ばして欲しかったのだと思う」とあるので、おそらく主人公は友人の話を聞いただけで、自分の考えを話すことはなかっただろうし、なんとかしてあげようとも思わなかったのだ。

 

 だから最後、雲一つとしてない初夏の夜空をみたときに「助けをこう友人の姿がありありと浮かぶような」という表現が出てくる。

 主人公は、友人を助けてあげられなかったことを、後悔しているのだ。

 作品冒頭から、なんだかわかりにくいと感じたのは、友人を助けることできたのではという思い、後ろめたさや申し訳無い気持ちの現れではと考える。

 

 なんでもないなら、初夏の夜空を見上げて友人の笑顔を思い出して終わるはず。

 

 読み終わってタイトルを見ると、「家族」とある。

 主人公が結婚しているかはわからない。

 本作には二つの家族が登場していて、友人の妻子、友人の両親である。

 妻子は去り、息子は死に、年老いた両親が残された。

 現代社会、家族の形が脆くも崩れていく様子を本作は書いているように思えてならない。

 夕日は、日本社会が斜陽であることの象徴で、ラスト夜空で終わっているのは、日本の未来は暗い、と暗示しているかのようだ。 

 比喩表現を多用する本作だからこそ、そう思えてくるのだろう。

 

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