第3話 主役は柿崎?〜ヒロイン決定のお知らせ〜1
ミイナのビンタを受けてから一週間。久しぶりのバイトだ。
彼女のビンタと呼ぶには重すぎる一撃は、俺の左頬を腫らし、親知らずが一本抜けかけたほどの威力があった。あの小柄な体に、恐るべきパワーを秘めていた。
先日、芸人が司会のスポーツバラエティに出ていた幕内力士の張り手より威力がありそうだった。
「おはようございます」
「おはよう。大丈夫? 親知らず」
店長が早速声をかけてくれる。店には親知らずのせいで顔が腫れたと言って休みをもらっていた。ミイナには連絡したが返事はなかった。今日はシフトがかぶっていて、正直気まずい。
「お疲れ様でした!」
「お疲れ様」
結局、仕事中ミイナと一度も話すことなく一日が終わってしまった。
「
「…………」
今日は俺が従業員出口でミイナを待った。彼女は何も言わず、俺の隣を歩き出した。
「この前はごめん! キツイとか言っちゃって……。本当に、ごめんなさい!」
沈黙に耐えきれず立ち止まり、俺はミイナに向かって頭を下げた。怒られるのは覚悟だ。なんならもう一発ビンタを食らってもいいくらいだ。でも、せっかく仲良くなったのに気まずいままなのは嫌だった。
「私も……殴ってごめんね。痛かったよね」
「あ、いや、もう大丈夫! それより俺、せっかく仲良くなれたのに、高砂と気まずくなる方が辛いし」
顔を上げると、ミイナはホッと息を吐き、小さく笑っていた。目が少し潤んでいる。
「よかったあ。大怪我してたらどうしようかと思って、メッセージの返事もできなかったんだ」
「気にするなよ、もう全然平気だからさ! 親知らずも抜いてスッキリだし、腫れも引いてるし!」
こんな時でもミイナはやっぱり可愛い。彼女のこの真っ直ぐさや、正直さが、好きだ。
「カキ明日って出勤?」
「あー、休みだ」
「そっか。じゃあ私の家に来ない? 今日ケーキ焼いたんだけど持ってくるの忘れちゃって」
「え、俺に?」
「うん。張り手のお詫び。後はカキに、聞きたいこともあったし」
「あ……そう、うん」
予想もしていなかった展開に、俺は間の抜けた返事しかできなかった。
次の日、俺は放課後大急ぎで駅に向かい、ミイナと待ち合わせた両国駅で電車を降りた。トイレで身だしなみチェックも済ませ改札の前で待っていると、私服姿のミイナがやってきた。
「今日、うちの学校、職員会議で午前授業だったんだ」
「そ、そうなんだ」
休日のシフトでミイナの私服なんて何度も見たことがあったのに、いつもと違う状況が俺の緊張を煽る。何か、気を紛らわせないと。
「そういえば、この辺て雰囲気あるね。さっきから歩いてるのはお相撲さん?」
「そ、そうね。相撲部屋が多い地域だから……」
確かに部屋の名前が書いた純和風の建物も多い。さらに、すれ違う力士の数名がこちらに会釈をしている。
「今の人は知り合い? 頭下げてたけど」
「あ、ああ、近所だから顔見知りなだけよ」
そんな会話をしながら歩いていると、ミイナの家に到着した。比較的大きな一般住宅。玄関ドアが我が家よりずいぶん大きいけど、ミイナの通う
「おじゃましまーす」
「あ、今、誰もいないから。どうぞ」
ミイナがスリッパを差し出す。
——え? 誰もいない? つまり俺たち、ふたりきり?
心拍数が一気に上がる。これはもしかして、ものすごい進展があるんじゃないか?
ダイニングに通され、椅子に座る。ケーキが美味しいこととか、家の中のドアも大きいのは不思議だと感じたことは、あまり深く考えられなかった。
なぜなら俺の頭の中は、大人の階段を登る方法がモーターの如く猛スピードで回転していたからだ。
「カキ、美味しい?」
「うん。美味しいです」
会話に集中ができない。俺はなぜか返事が敬語になっていることにも気づいていなかった。そのまま会話は進んでいく。それはどこか遠くから聞こえるような感覚だった。今は煩悩で頭がいっぱいになっているせいだろうか。
「よかった。そうだ、聞きたいことあるって言ったじゃない?」
「うん。そう聞いてました」
「カキって、私のこと……」
「ただいまー! ミイナ、お客さん来てるの?」
玄関の方から女性の声が聞こえ、俺はハッと我に返った。ミイナも俺と同じような表情をしている。ダイニングに入ってきたのは、ミイナに似た可愛げのある美人。彼女よりは柔和な印象だ。
「こんにちは。ミイナの母です」
「お邪魔してます! か、柿崎です」
「あらあら、ミイナが男の子と近所を歩いてたって聞いたんだけど、本当だったのね? ふふふっ」
「昨日作ったケーキ、食べてもらってるだけだし!」
お母さんにからかわれて、ミイナが顔を真っ赤にして反論している。
うーん。やっぱこれって脈アリだったり? 俺の心は期待に弾む。
「あ、お兄ちゃんたちもそろそろ帰ってくるんじゃないかしら?」
「え! 今日に限って何で」
「ミイナが男の子を連れてきたんだから、気になるに決まってるでしょう? 稽古、早上がりしたみたいよ」
稽古? そういえばお兄さんたちはスポーツをしていると言っていたな。
よくわからないが明らかにミイナは動揺していて、自宅なのに周りを警戒するように首を振っている。俺は何となく気を遣って、急いでケーキを口へ運んだ。
「カキ! 帰ろう。また誘うから。駅まで送る!」
「あ、ああ、うん」
最後の一口を飲み込んだ瞬間、ミイナはケーキの皿を下げ鞄を持って俺の腕を引っ張り、玄関へ誘導しようとする。
「お母さん! 私駅まで送ってくるから!」
「あ、お邪魔しました」
「あらあ、もう少しゆっくりしていったらいいのに」
ミイナのお母さんは残念そうに首を傾けていた。挨拶をして部屋を出ようとした時、俺とミイナはドン!と壁のようなものにぶつかった。それはずいぶん弾力があって、俺は反動でよろめき、尻餅をついた。
「カキ! 大丈夫?」
「ああ、うん……」
同じようにぶつかったはずのミイナは平気そうに立っている。軟弱な自分が情けない。
「ああ、ごめん。大丈夫かい?」
「え! 壁がしゃべった?」
その声は、尻餅をついている俺のはるか頭上から聞こえていた。声の方向へ見上げると、壁の上には人の顔がついている。壁ではなく、彼は人間だったのだ。それも、ものすごく大柄な……。
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