8日目 空腹は最良のスパイス

 スクワットをみっちり3セット。

 太ももの前側が焼けるように熱い。

 効いている証拠だ、と自分を鼓舞するものの、『もちぬし』はトレーナーさんの「ラスト5回!」という元気のいい言葉に眉をしかめた。まだ5回もあるのか。

 正しい姿勢で行うスクワットというのがこんなにきついものだと、その時まで『もちぬし』は知らなかった。100回だってできると豪語していたくらいだった。

 現実は残念ながら、『もちぬし』が小鹿のように足をぷるぷるさせて、「終わった」と呟いた時のスクワットの回数は3セットで45回。つまりたったの15回3セットで、『もちぬし』は根をあげていた。


 このままじゃ体重は増える一方だ。『もちぬし』は漠然と危機感を感じていたが、それでも、それまではジムに通うなんて考えたことがなかった。なんとなく食べ物を減らせばいいと考えながら、結局何の手も打たずに、いつも通り漫然と過ごしていただけだった。

 だから、友人からパーソナルトレーニングの体験会に誘われた時も、正直最初はめんどくさいと思ったのだった。

 結局参加することにしたのは、ある朝風呂上りに自分のお腹を見てしまったからだ。細かい言及は避けるが。

 

 ジムが終わって、最寄り駅までの道を歩く。

 気を抜けばふらりとよろけそうになる足を押さえつけて、いつもは気持ちの上ではさっそうと駆け上がる階段も、しっかり手摺につかまって、一段一段踏みしめるように上っていく。駅までの道はすぐだ。

 体験会でもらったトレーニングの申し込み書は、きっとそのままごみ箱行きだろうな。そう思いながら、ふと駅に目を向けたとき、ふいに、その看板が飛び込んできた。麦で作られた黄色い炭酸飲料を象った看板の下に、店名がでかでかと光っている。ハッピーアワー。その文字は、今ならその黄色い炭酸飲料が安く飲めるという意味だ。その瞬間、体が今何を欲しているのかわかってしまった。この乾ききった体に、何を注ぐべきなのか。



 やってもうた。

 わかってる。今日の努力はもう水の泡だ。

 わかってるんだ。

 でもな。

「かぁぁ!」

 美味ぁぁぁ!

 やっば!

 癖になりそう。

 ビールをこんなに美味しいと思うのなんて、いったい何年ぶりだ?

 弛んだ体を鍛えるために体験トレーニングに付き合っただけだったのに、体を苛め抜いた後のビールの、なんとうまいことか。

 やばい。

 意味がない。絶対に意味がない。これはよくないことだ。わかってる。そうわかっているのだけれど。

 このビールを飲むために、またトレーニングをしてみるのもいいかもしれないな。

『もちぬし』はぶっちゃけ、そう思ってしまったのだ。

 ……思ってしまったんだよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る