5日目 日記は誰の読み物か

 線香の匂いが俺の体に染みつくのを気にしなくなってから、もう何年も過ぎていた。俺のすぐ脇には、頼りない灯を点した線香からゆらゆらと煙が立ち上っている。そのすぐ後ろ、つまりは仏壇の奥には『もちぬし』の連れ合いの写真が飾られている。生前の様子を窺わせる、締まらない笑みを浮かべたその姿ももう見慣れてしまった。最初のころは、俺を置いて行ってしまった『もちぬし』の笑みに、寂しさを覚えもしたのだけど。

 その『もちぬし』は、最期の時まで日記を書く習慣を止めなかった。

 日記を書くだけの体力がなくなってからも、俺を手元に置いて、ふとした時に見直すような人だった。

 そういう『もちぬし』に恵まれた俺は、きっと過分な勿体を享受したのだろう。

 だから、最期に俺を開いたその『もちぬし』の顔は一生忘れない。

 その時は確かにそう思っていたのだが。


 もうずいぶんと古くなった襖が、ガタガタと音を立てながら開いた。

 漂うだけだった線香の煙が、突然の空気の流れに乗せられて揺ら揺らとそちらに彷徨う。その先に、今の『もちぬし』がいた。

 『もちぬし』はまっすぐに仏壇の前まで来ると、姿勢を正して座り、手を合わせた。

 しばらくの間そうしてから、思い出したように俺に手を伸ばし、やがてそのページを開いた。

 開くページはいつも適当で、『もちぬし』は前の持ち主の人生を順番に読みたいとは思っていないようだった。ただ、思いもかけない言葉がそこにあればいいと思っているようだった。

 6月22日。

 そのページには、今日の日付が書いてあった。

 奇跡みたいな、でも何の意味もない偶然に、『もちぬし』はくすりと笑った。

 何年前の今日だろうか、『もちぬし』は気にしていないようだ。

 日記帳である俺には、俺に書かれている文字がわかる。

『煙草を切らしていて、あいつにあたってしまった。謝れば許してくれるだろうか』

 癖のある字で書かれたその文字は、まるで前の『もちぬし』の響きの少ないのに活舌だけは異様にいい特徴的な声を再現しているようだった。

「すべてのページに愛しているとか書いておけばいいのに」

 楽しそうにそういいながら、でも俺は思うのだ。

 そんな日記だったら、きっと今の『もちぬし』は毎日読みはしないだろうと。





 

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