4日目 N・I・キーとPASOコン

 昨今の流行り病のせいか、『もちぬし』は会社に行かず、自宅で仕事をすることが増えた。

 テレワークというやつだ。

 一人暮らしの『もちぬし』は、最初は自由を謳歌していたが、ひとりで黙々と作業をする感覚にも慣れ、今は何の感慨もなく、淡々とパソコンに向かっている。

 テレワークとその前と、特筆すべき変わったことと言えば、

「えーと、次は、と」

『もちぬし』が声を上げた。

(次は何をやるんだ?)

 都下、一人暮らしの社会人向けマンションの6階、1Kの素朴な部屋の片隅に『もちぬし』の背中が見える。

 本棚のこれまた片隅から、『もちぬし』の背中を見るのが、ここ1~2年の俺の日課になっていた。

『もちぬし』はデスクの脇に置かれた本日のタスクと書かれたメモ帳を手に取って、次にやる作業をぶつぶつと呟いている。

(なんだよ。教えてくれてもいいじゃないか)

 こっちの声が届かないのはわかっちゃいるけど。

 つけっぱなしになったテレビが、「けしからん!」とどこかの誰かの不祥事を声高に糾弾していた。

 変わったことと言えば。

 もちぬしの独り言が増えたこと。

 それから、沈黙を嫌うようになったことだ。

「あ」

『もちぬし』が不意に声を上げた。

(どうした?」

 届きもしない問いかけを、俺も律義に繰り返す。

『もちぬし』の背中越しに、パソコンがカリカリと異音を立てていた。

 どうやら、負荷に耐え切れず作業中のExcelシートの動作が重くなっているらしい。

「ねー! 頑張って! ほんと、頼むよー!」

『もちぬし』の声にこたえるように、パソコンが一段とその音を高くした。

(がんばれ)

 俺もパソコンを激励しながら、『もちぬし』の仕事が泡となりませんようにと祈る。でも内心、パソコンの奴のことを、ちょっと羨ましいなとも感じてしまっていた。

『もちぬし』にあんなふうに声をかけられることなんて、俺にはないからな。

 ま、日記帳に頑張ることなんてなにもない、わざわざ日記帳に話しかける場面なんてどこにもないのだけど。

『もちぬし』が日記を書かなくなってから、もうずいぶんと経つ。

 それでもモノはいつだって『もちぬし』を応援している。

 応援している間に、パソコンは落ち着きを取り戻し、Excelシートも一度は落ちたようだが、なんとか復旧を果たしたようだった。

『もちぬし』が大きく息を吐いた。

 なんとかなったようで、何よりだ。

 胸をなでおろす『もちぬし』の背中越しに、パソコンのデスクトップ画面が見えた。

 そこで、信じられないものを見つけてしまった。

 デスクトップの隅っこで、燦然と輝く≪日記≫フォルダの存在を。

 

 まあ、いいさ。

 まあいい、まあいいんだ。

 そこは俺を使ってくれよと思わなくもないが、書くのって疲れるからな。

 いつか読み返した時、『もちぬし』が微笑ってくれるなら、それでいいんだから。

 手段は問わないさ。

 うん。

 ……うん。

 ウソの日記のはずなのに、なんで俺はこんな結末にしたんだ?

 ウソって難しいな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る