マネさんの通訳

増田朋美

マネさんの通訳

マネさんこと、白石萌子さんが、製鉄所に来訪するようになって、数日がたった。彼女は、よく製鉄所に来訪してくれるようになっていた。もちろん、入れ歯を作るために、歯医者さんにも前向きに通うようになってくれている。多分、もう歯が抜けてしまったのは仕方ないので、今からは新しい世界に行くんだと考え直してくれたのだろう。

その日も、マネさんは、製鉄所を手伝いにやってきた。なんだか、すごい明るい顔をしているみたいだったから、どうしたんだと杉ちゃんが聞くと、

「今日、総入れ歯を作ってもらいました!」

と、とても嬉しそうな顔で彼女は答えた。そして、にこやかに前歯を見せた。確かに、いかにも、人為的にこしらえたような歯並びだけど、ちゃんと、前歯がついている。

「そうですか。良かったじゃないですか。嬉しいことですよね。本当に良かったです。」

布団に座っていた水穂さんがそう言うと、

「ええ。これでやっと、皆さんと同じ様にカレーが食べられます。皆さんとおんなじように、食事ができるなんて、こんなにうれしいことは無いです。本当に、ありがとうございました。私、こんなにカレーを食べられることが、嬉しいことだなんて、何も知りませんでした。本当にありがとうございます。」

と、マネさんは、にこやかに笑って、水穂さんたちに挨拶したのであった。

「いいえ、あなたが、一生懸命カレーを食べようと努力したことが何よりです。それは、あなたが努力した成果です。頑張った証拠ですよ。ご自身を褒めてあげてください。」

と、水穂さんがそう言うと、

「いえ、皆さんのおかげです。みなさんが、応援してくれたから、私また、食べようと言う気になれましたし、カレーを食べようと言う気持ちにもなれました。ありがとうございます。」

マネさんは、そういったのであった。

「そんなんねえ。僕達が、なにかしたわけでも無いし。そうやって、入れ歯をしたのを喜べるんだから、お前さんの気持ちも、前向きになったんだよ。本当に良かったね。」

と、杉ちゃんが言った。

「願わくは、その経験を、なにか、他人のためにしてやれるといいですね。それで、白石さんも、ご自身が前向きになれるでしょうし。それに、周りの人を救うことになれます。」

水穂さんが、小さくそう言うと、

「そんな事できませんよ。私は、ただ、入れ歯を入れただけですから、それ以外何もしていません。それを大げさにとることをしていたら、水穂さんも言っているじゃないですか。そんな得意絶頂になったら、自分の気持ちがおかしくなってしまうって。自分がこの花は俺が咲かせたんだって思っていたら、自分ばかりが、格好つけて、周りから嫌がられるくらいの人になってしまうって、言ってたじゃないですか。だから、私は、それを頑張ってやりたいです。」

マネさんはそういったのであった。そういうところから判断すると、マネさんは、とても純粋な心を持っている人だと思われる。そういうことを、商売にしようということは、ちょっとむずかしいことでもあるくらいだった。

「そうですか。でも、十分商売になれそうなところもあるけどさ。」

と、杉ちゃんが言った。

「いいえ、私は、何もすることがありません。そんな、入れ歯を入れて、大喜びしただけなのことなんて、何も商売にもなりません。そんなことは、私にできることじゃありませんよ。そんな事。」

「随分謙虚すぎるような気もするが、、、今の時代であれば、いろんな経験だって、商売になるもんだぜ。」

杉ちゃんがそう言うが、彼女はにこやかに笑って、何もしなかった。杉ちゃんも水穂さんも、なんだかもったいないなという気持ちで、彼女を見ていたのだった。

それと同時に、製鉄所のインターフォンの無い玄関が開いた音がした。あれ、いまどき誰だろうと杉ちゃんが言ったら、水穂さんが今日は誰かが来る予定でしたねと、すぐいった。ジョチさんは、会合に出るとか言っていて、まだ帰ってこなかった。三時には戻ってくると言っていたが、まだ、三時には、20分もある。杉ちゃんは、とりあえず、通してあげようと言って、急いで、製鉄所の玄関に行った。

「あの、今日は、三時に、来てくれるという約束ではありませんかね。」

「ええ、そうですけど、すみません。電車を一本間違えてしまいまして、こちらに来てしまいました。」

と、一人の女性が、玄関先に立っていた。

「ああ、そうなのね。じゃあ、中で待ってろや。多分、管理人は、三時には戻ってくると思いますから。」

杉ちゃんがそう言うと、彼女はお邪魔しますと言って、製鉄所の段差のない玄関から、靴を脱いで中に入った。製鉄所の入り口は、誰でも入れるように、上がり框も何もない。それは車椅子の人でも入れるようにという配慮なのだが、簡単に入れるようになってしまうのである。杉ちゃんはとりあえず、彼女を、製鉄所の応接室に入れた。そして、まあ座れと言って、彼女を肘掛け椅子に座らせた。

「えーとお前さんの名前は?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「原といいます。私の名前は、原品子です。」

と彼女は答えた。

「原品子さんね。変わった名前だな。で、何を悩んで、製鉄所に来たの?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ、こちらで、ワークショップとか、カウンセリングとか、そういうものをやっていると聞いたものですから。私もぜひ、参加したいと思ったんです。」

と、原品子さんは答えた。

「ああ、カウンセリングと言っても、高名な人がやるもんじゃないよ、ただ、同じ経験をした人が、気持ちを和らげてやるためにやっているんです。」

杉ちゃんが答えると、

「ええ、それはわかります。でもそれでも、話を聞いていただきたいので、参加させてください。」

と、品子さんは、そう答えた。

「ああ、そうなのね。それでは、お前さんは、何を悩んでいるんだ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ。今、学校に行くべきなんでしょうけど、学校に行けなくて。学校は、行かなきゃいけないんでしょうけど、行けないんですよ。」

品子さんは答えた。

「そうなのね。まあ、今どきに多い、不登校だな。わかったわかった。じゃあ、それでは、管理人のジョチさんに、そのことちゃんと話してさ。グープでも、落ち着いて話ができるといいよな。」

杉ちゃんがにこやかにわらってそう言うと、

「只今戻りました。」

と、ジョチさんが戻ってきたことがわかった。ジョチさんは、玄関先に靴が置いてあったのを気がついて、

「ああ、もう来訪されたんですか。電車の都合でしょうかね。すみません、三時には戻るといったんですけれど、少し遅くなってしまいました。こちら施設の管理を任されている、曾我と申します。あなたは確か、今日来るはずだった、原品子さんですね。」

と、言いながら応接室にやってきた。

「おう、すまんな。とりあえず、僕が応じてあげたけど、彼女、何でも、お話会に参加したいんだって。なんでも学校にいけなくなっちゃったらしい。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そうですか。不登校になった理由とか、そういうことは、お話できますか?」

ジョチさんがそう言うと、

「そうですね。私も、よくわからないんです。学校ってなんで行かなきゃいけないんだって思うようになって。小学校では、学校の先生はずっとそばいいてくれましたけど、中学校高校の先生って、なんかパートタイマーみたいですよね。あたしたち生徒と関わろうともしないで、話したいことを話したらすぐに出ていってしまう人みたい。なんか、教育をしているというより、誰かに雇われて、必要なことを、喋っているだけの人って感じで。それで私、高校には行けたんですど、なんかつまらなくなってしまって。それで、学校に行く気にならなくなってしまったんです。ですが、具体的に何があったかとか、そういうことは、思い出せません。どんな事件があったのかとか、そういうことは。ただ、学校がすごく辛くて、嫌になってしまったことは、確かなんですけどね。」

と、品子さんは、小さな声で言った。

「そうですか。わかりました。まあ、いろんな人とゆっくり話してくれれば、もしかしたら自分の違う一面が見えてくるかもしれません。それによって、自分の評価がまた変わってくるかもしませんよ。それは、ワークショップに参加してくだされば、また実感できるでしょう。」

ジョチさんはそういうことを言ったが、彼女のような人は、いろんなことを、静かに話してくれるのはいいものの、本当に抱えている問題を話すのは、うんと時間がかかるかもしれなかった。スラスラ話せない人のほうが、かえって立ち直りが速い例もある。そうやって、口がうまくてなんでも話せる人は、自分を騙すということを知っているから、それを使って相手も騙せるということを知っている。

「それでは、こちらをどのような頻度で利用したいと思っていますか?」

と、ジョチさんが言うと、

「ええ、毎日決まった時間に来て、例えば午後だけとか。ここで、自習したり、ワークショップに参加させてもらったりとかしたいです。」

と、品子さんは答えた。

「わかりました。じゃあ、そうしていただいて大丈夫ですよ。午後ここに来ていただいて、勉強するなり、してください。」

ジョチさんが言った。品子さんは、ありがとうございますと言って一礼した。ジョチさんは、明日から定期的に来てくれればといったが、品子さんは、今日から利用させてくれと言った。ジョチさんは、わかりました、いいですよと彼女の滞在を許可したため、杉ちゃんが、ちょっとこの建物を、見学したらどうだ、と言った。そこで彼女はそうすることにした。杉ちゃんと一緒に、品子さんは製鉄所の中を歩いて回った。杉ちゃんが、ここがお台所、こっちが中庭と、製鉄所の中の施設を見せて回っていると、

「新人会員さんが入ってきてくれたんですね。名前はなんておっしゃるんですか?」

と、部屋から出てきた水穂さんが品子さんに声をかけた。

「原品子です。」

彼女が答えると、

「そうですか。早くこの施設に馴染んでくれると嬉しいですね。きっと、ここに来ているんだったら、なにかわけがあるのだと思いますから。」

水穂さんは、にこやかに笑った。

「こちらにいらっしゃるのは、白石萌子さんです。数日前から、こちらに来ていただいています。彼女も、ワークショップに参加しているんですよ。仲良くなれたらいいですね。」

「よろしくおねがいします。白石萌子です。みんなにはマネさんと呼ばれています。今は、もうこのあだ名が気に入っていって、私も、このあだ名で呼ばれる方がきが楽なので、マネさんって読んで下さい。」

と、マネさんがにこやかに自己紹介した。

「ありがとうございます。」

マネさんの言葉を聞いて、品子さんは答えた。

「よろしくおねがいします。どうして、こちらの施設をお知りになられましたか?僕達は、電話帳にも、この施設を公開していないはずですが?」

水穂さんがそうきくと、

「いいえ、利用者さんのブログでとても楽しそうにしているのが書かれていました。それで、こちらの、施設を知って、居場所を作りたいと思ったんです。」

と、品子さんは答えた。

「そうなんですか。それじゃあ、製鉄所は、かなり名前が知られてしまっているんだなあ。僕達は、他人のブログネタにしないでもらいたいと思ってたのに。」

と、杉ちゃんが言うと、

「まあ仕方ないじゃないですか。感激して、ブログやSNSに入れてしまうことは、誰でもやりますよ。例えば小説のネタにされたことだってあるでしょう。そういうことをしてしまうことは、あると思いますよ。」

と、水穂さんは優しく言った。

「まあいい。それから、食堂はこっちな。なにか食べたくなったら、ここで食事してくれ。」

杉ちゃんは、急いでそう言った。

「そこで、勉強をしているやつもいるが、マイペースにやりたいやつもいるし、例の有希さんのワークショップが行われたりもするよ。お前さんは、泊まりで利用するわけでは無いんだよな。それでは、居室や、浴室なんかは、紹介しなくてもいいかな。」

「ええ、大丈夫です。私は、先程の管理人さんに話したとおり、利用は短時間だけですし、、、。」

と、言っている品子さんは、水穂さんをみて、かなり動揺してしまったようだ。水穂さんが彼女に気持ちに触れてくれたのかは不詳だが。それを、優しい顔をして、マネさんが見ている。

「そうだね。じゃあ、紹介しなくてもいいか。それでは、学校の勉強とか、そういうことをして、ゆっくり過ごして言ってくれや。」

と、杉ちゃんが品子さんに言った。

「え、ええ。そうですね。わかりました。ありがとうございます。」

品子さんはかなり動揺したような感じで、そういったのであった。

「楽しくやってくれよ。それでは、無理はしないで、ゆっくり過ごしてくれや。さて、僕は、着物を縫う仕事に、戻るかな。」

と、彼女を、そこに残して、縁側に戻っていった。

「あの、こちらの方は、どんな方なんでしょうか?」

品子さんは、思わずマネさんに言ってしまう。

「ええ、磯野水穂さんです。こちらで暮らしているそうで。」

マネさんが答えると、品子さんは、

「そうなんですか、随分きれいな方だから、何をしているのかとか、気になってしまいました。」

と、顔を赤くして、答えた。

「ええ、水穂さんは、ピアニストです。」

マネさんが言ったところ、

「そうなんですか。それで、ショパンにそっくりなんだと思いました。私、音楽の知識があるわけでもないですけど、ショパンの顔は覚えていましたから。」

と、品子さんは言った。

「僕をおだてても仕方ありませんよ。」

水穂さんはそう言うが、

「ご、ごめんなさい。あたし、なんだか変なことを言ってしまったようですね。」

品子さんは、困ってしまった顔で言った。

「いいえ、そんな事ありません。」

水穂さんがそう言うと、品子さんは更に顔を赤くした。それを、マネさんは、からかうことも、馬鹿にすることもしなかった。

「まあ、品子さん、水穂さんのことを、好きなんですね。確かに、きれいな人だから、一目惚れをしてしまっても、仕方ありませんね。」

マネさんは、そういった。マネさんにしてみれば、品子さんが水穂さんに恋心をいだいていることを、伝えてあげたいと思った。

「いいんですよ。あたしは、品子さんが思っていることを伝えてやれるような、そんな立場でいればいい。そう思ってますから。」

「白石さんも変わっていますね。なんで、他人の気持ちを伝えてやろうとか、思うんですか?なかなかそういうことを考える人は、いませんよね。」

水穂さんがそうきくと、

「いや、私は単に人の役にたちたいだけです。それは、だってここのみなさんが、私に優しくしてくれたし、それでは誰かの役に立とうと思ったんですよ。」

と、マネさんはそういった。

「だから、私が、品子さんの気持ちを伝えてあげます。品子さんは、水穂さんのことを、好きみたいです。それは、大事なことですから、私は、何度でも水穂さんに伝えてあげます。」

「そうですか。でも残念ながら、僕は、あなたの気持ちに、答えることはできませんね。僕は、そのような、恋愛に応じて差し上げるほどの、身分ではありませんよ。」

水穂さんは、静かにそう答えると、

「ど、どうしてです?私は、水穂さんのことが、本当に好きなのに。」

品子さんは、すぐに言うが、

「流石に、そうされても困るということはできませんが、僕は、あなたの気持ちには応じられませんよ。申し訳ないですけど、僕には、できないんです。この銘仙の着物が、動かない証拠です。」

水穂さんは、着物の袖を見せて、そういったのだった。でも、品子さんの答えは、こうである。

「何を言っているんですか。私は着物のことはよくわからないですけど、着物は、すごく似合うと思いますよ。着物は、昔からあるもので、すごくいいですよね。男の人が着るとすごく格好いいです。だから、何もへりくだる理由は無いと思いますが、、、。」

なるほど。こういう答えが出るとなると、同和問題についてちゃんと、学校で習っていないようだ。それとも、学校の先生が、ちゃんと教えなかったのか、真偽は不明だが、いずれにしても彼女にとって、同和問題は、解決してしまっているような、自分とは全く関係ないということになってしまっているようである。

「品子さんは、同和問題について、何も知らないのね。学校かどこかで、そういう事習わなかったの?一般の人より、低い身分とされた人がいたってこと。」

マネさんがそう言うが、品子さんは、名もわからない様子だった。同和問題というものも、もうそういうふうにしか、教えて貰えないんだろうなと水穂さんもマネさんも思った。

「ええ、私は何も知りません。そんな事、学校で習ったこともありませんし、それに今はもういいじゃないですか。過去のことになっているんでしたら、それでいいでしょう。もうそんなことをいちいち気にするなんて、そういうことは、もうおわってしまったことではないでしょうか?それなら、もう気にしなくてもいいでしょう?」

品子さんは、知らない顔でそういうことを言っている。それをみたマネさんは、彼女には、もう同和問題のことは、告げないほうが良いと思った。その方が、品子さんの気持ちを拾ってあげたと思う気がした。

それと同時に、水穂さんが激しく咳き込んだ。咳き込むと同時に、内容物も出る。内容物は、朱肉のような、真っ赤な液体である。それは生臭い液体で、魚の腐ったような匂いでもある。これをみて、品子さんはえらくびっくりしてしまったようであるが、

「ああ、またですか。無理してしまったんですね。薬のんで休みましょうか。」

それを無視して、マネさんは水穂さんの背中を擦って、吐き出しやすくしてあげた。品子さんは、

「もう過去のことだと思っていたのに、なんでそんなことがあるんだと思ってしまいました。」

と、正直に感想を言った。マネさんは、こういうときこそ正しい通訳をしなければならないと思った。

「そうなのよ。今でも、同和問題は解決してないのよ。それを、若い人が何も知らないんじゃ、おかしいわね。」




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マネさんの通訳 増田朋美 @masubuchi4996

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