浅香一之の野望

鷹山トシキ

第1話

 浅香一之あさかかずゆきはどんな時代でもタイムスリップできる不思議な時計を佐川野さがわの博士から手に入れた。

 一之は京大附属病院の前に立っていた。

 1865・2・26とボタンを押すと幕末へとタイムスリップした。タイムスリップした先は会津松平屋敷になっていた。

 2月26日(元治2年2月1日) - 酒井忠績が大老に就任(江戸幕府最後の大老)

しばらく進むと荒神橋がかかり、鴨川が流れている。橋を渡った先は百万遍屋敷とか御付組屋敷になっていた。

 2006年は地獄な日々だった。一之は埼玉にある印刷会社で働いていたが課長の辰巳から殴る蹴るなどの暴力を受けていた。

 一之は心身のバランスを崩し佐川野病院に入院した。亡くなった孫に瓜二つだった一之は、佐川野から気に入られ時計をもらった。さらにその先は仙洞御所になっていた。


 現在、京都市上京区にある京都御苑内で、京都御所の南東に位置している。これは1627年(寛永4年)に京都新城の跡地に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は「桜町殿」という。東部には広い池を中心に庭園が広がっている。初め小堀遠州によって築庭されたが、のちに後水尾上皇の意向により大きく改造されている。


 仙洞御所の建築群は1854年(嘉永7年/安政元年)の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っている。1867年(慶応3年)以降には隣りの御常御殿が残る大宮御所に組みいれられ、皇室の京都における邸宅として整備された。庭園の南東周辺が空地であり、これを利用して大正天皇及び昭和天皇の大礼の際に、大嘗宮が建立された。平成初期にも京都迎賓館建設地として、こちらも検討されたが、京都御苑の別の一角に建設された。


 なお、仙洞御所西北に隣接する京都大宮御所は後水尾天皇の中宮であった東福門院の女院御所として造営されたものが元となっている。前述のとおり京都大宮御所は御常御殿を改修を行いそれに伴い仙洞御所との塀を除きこれを組み入れた。大正時代には大宮御所の御常御殿の内装などが洋室に改装されるなど住居としての実用性が向上し、仙洞御所の庭園を合わせた邸宅としての装いが整った。現在では大宮御所と仙洞御所を合わせた邸宅を単に「大宮御所」と呼び、天皇・皇后の行幸啓(帰京)の際の滞在施設として使用されている。


 仙洞御所(大宮御所ふくむ)の地は、かつて聚楽第の後身として太閤秀吉が築いた豊臣家の本邸「京都新城」のあった地であり、当時は太閤御所・太閤上京御屋敷などと呼ばれていた。豊臣秀吉が没した翌慶長4年9月に大坂城から秀吉の正室の北政所が移り居住した。彼女は寛永元年に没する。しばらくは甥の木下利房(次男の利次が北政所の養子として羽柴家を継承)が居住したが、寛永4年に後水尾天皇が譲位の意向を示すと、幕府はこの地を仙洞御所と大宮御所の地として選び御所建設工事に着手した。


 このとき御所の規模構造について大坂城代から「皇居より大きくしないこと」などと細かな指示書が示されている。譲位の意向は中宮の東福門院所生の親王が夭折し、いったん撤回され、工事の進捗は緩慢になったと考えられる。寛永6年11月天皇が突如譲位を決行すると、工事を再開、翌7年12月に上皇は新構の仙洞御所に移徙(わたまし)している。このとき多くの建物は二条城から寛永行幸の際に使用した建物を移築再利用している。阿古瀬淵は豊臣家邸宅庭園の遺構と伝える。


 1840年(天保11年)の光格上皇の崩御後は、退位し上皇となる天皇がいなかった事から、1869年(明治2年)の東京奠都に伴う東京への皇室や御所の移転を経た後も従来より単に「仙洞御所」と称されていた。


 そこからしばらく進むと御花畠だ。

 去年、この近くで恐ろしい戦が起きた。

 前年の八月十八日の政変により京都から追放されていた長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。


 畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。


 大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢力は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させられることとなった。一方、長州掃討の主力を担った一橋慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局が主導されることとなった。


 禁門の変の後に、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われるが、その後も長州の政治的復権を狙って薩長同盟(1866年)が結ばれ、四侯会議(1867年)においても長州処分問題が主要な議題とされるなど、幕末の政争における中心的な問題となった。


 なお、「禁門の変」「蛤御門の変」の名称は、京都御所の門(禁門と呼ばれる)を中心に戦われたこと、中でも蛤御門周辺が最激戦地であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には当時の弾痕が残る。


 怪しい虚無僧が刀で襲いかかってきたので、一之は2006・7・14とダイヤルを合わせた。


 7月14日

日本銀行が、2000年8月以来約6年ぶりとなる、ゼロ金利政策の解除を決定。

パロマ工業社製の、ガス瞬間湯沸かし器が原因の一酸化炭素中毒事故により、1985年以降15人が死亡、19人が重軽傷を負った事が判明。


 プロ刑事、一之の婚約者、夏希なつきが、連続殺人鬼に惨殺される。夏希は頭をボーガンで射抜かれていた。夏希が殺されたのはイズミヤ伏見店の近くだった。


 7月16日 - 神奈川県警、東京都町田市の石阪丈一市長の政治資金規正法違反容疑で、自宅および市役所を捜索。

  

 一之は婚約者を殺した犯人を探す中で畠山将暉はたけやままさきって派遣社員に行きつき、彼に対する復讐に燃える。畠山は一之に追われている最中にも殺人を繰り返す。

 畠山は2006年5月まで宇治川近くにある食品工場に派遣されていたが、派遣切りに遭った。

 ゴールデンウィーク最終日、派遣会社の営業マンの八十嶋蘭やそじまらんから契約終了を言い渡された。さて、畠山は蘭を殺したくて仕方がなかった。


 7月17日 - 王貞治福岡ソフトバンクホークス監督の胃癌手術成功。

 深夜、一之は京都ホテルオークラの近くでフランケンシュタインの仮面をかぶった奴に斧で襲われた。

 タイムスリップした先は本能寺だった。

 織田信長は上洛中の宿所として妙覚寺を使用することが多く、本能寺を宿所とすることは3回と稀であった。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)は息子の織田信忠が妙覚寺に逗留しており、信長は本能寺を宿所としていた。その本能寺を明智光秀の率いる軍勢が包囲し、襲われるという本能寺の変が起きその際の兵火で堂宇が焼失した。『信長公記』では同寺で信長が切腹したとしているが遺体は発見されず、その最期は明らかではない。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養している。7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じている。

 一之がタイムスリップしたのは天文16年(1547年)7月21日だ。

 舎利寺の戦いが摂津国東成郡の舎利寺(現在の大阪市生野区)周辺において勃発した。細川晴元方の三好長慶らの軍と細川氏綱・遊佐長教らの軍が激突した戦い。応仁の乱以来の畿内における最大規模の合戦と言われ、三好長慶の実力が畿内に知れ渡る機会ともなった。

 

 永正4年(1507年)の細川政元暗殺以来、室町幕府の実権を握る細川氏は管領細川高国と細川澄元・晴元父子の両派に分かれ、畿内近国の諸勢力を巻き込んで長期にわたる抗争を続けていた(両細川の乱)。享禄4年(1531年)に至り、細川高国は摂津国天王寺(現在の大阪市天王寺区)の戦いに敗れ、尼崎方面へ退却したところを捕らえられて自害した(大物崩れ)。


 ここに細川晴元は畿内最大の勢力となり天文6年(1536年)には管領に就任したが、高国方の残存勢力はなおも抵抗し、畿内は混沌とした状態が続いた。天文11年(1542年)、和泉国で挙兵した高国の養子氏綱は同国堺を包囲した。ただ陥れることはできず、翌年(1543年)8月に摂津国住吉郡へ転進したが晴元方の三好長慶に敗北し、10月中旬に和泉の山間部に退却した。


 細川氏綱はその後もしばしば他の高国派と共に小規模な戦闘を繰り返したが、天文15年(1546年)には河内守護代遊佐長教と結び、高屋城に入城する準備を整えた。これを聞きつけた細川晴元から討伐を命じられた三好長慶は、8月に堺に入り氏綱・遊佐連合軍を攻撃する準備にかかったが、却って包囲されてしまう。会合衆らの仲介によって包囲は解かれたものの、連合軍は北上して西成郡の大塚城を包囲した。


 さらに遊佐長教は三宅城(大阪府茨木市)の三宅国村や池田城(大阪府池田市)の池田信正(久宗)へ書状を送って摂津の国衆を氏綱に帰参せしめ、晴元への裏切りを明確にした。長慶は大塚城の救出を断念して阿波守護細川持隆に援軍を要請し、四国にある三好実休・十河一存や淡路水軍を率いる安宅冬康ら兄弟の勢力を結集することを優先したため、大塚城は9月4日に落城。三宅・池田の寝返りにより、晴元も同月14日に京都を離れ丹波国神尾山城(京都府亀岡市)へ退いた。氏綱・遊佐連合軍は京都方面に向かい芥川山城(大阪府高槻市)を攻撃、これに対して三好政長が後方から攻撃を仕掛けたが、城主芥川孫十郎は18日に和睦開城してしまう。

 

 ここまで連敗続きの晴元・三好方であったが、11月13日に細川晴元が神尾山城から摂津国西部の神呪寺城を経て長慶の越水城(兵庫県西宮市)へ移動し、安宅冬康・三好実休・十河一存の援軍の軍船500船、兵2万も集結したことから、状況は有利に変化してきた。


 長慶軍は、翌天文16年(1547年)2月20日に原田城(大阪府豊中市)、3月22日に三宅城を落とし、6月25日には芥川山城と池田城を無血開城させ、摂津国内における勢力を巻き返していった。この間、3月29日には将軍足利義晴が京都郊外北東の勝軍地蔵山城に入って氏綱・遊佐連合軍を支援したが大勢には影響はなく、4月に近江守護六角定頼からも援軍を得た晴元・三好方が有利に立っていた。7月に三好軍は丹波から畑(京都市右京区梅ケ畑高雄町周辺)に入って一帯を焼き払い、12日に2万の軍勢で相国寺に布陣した。将軍義晴は19日に勝軍地蔵山城に自ら火を放ち、近江坂本へ逃亡し、晴元方が一年ぶりに京都を奪還した。


 一之はこの戦に参戦した三好実休の妻、小少将が気になって仕方なかった。

 小少将は、戦国時代の女性。初めは細川持隆の側室、次に三好実休の継室、その次に篠原自遁の正室となる。最後には長宗我部元親の側室になったとされる。父は阿波国・西条東城主の岡本牧西。細川持隆、三好長治、十河存保、長宗我部右近大夫の生母。名前は不明。大形殿とも称される。

 阿波国・西条東城主である岡本牧西の娘として生まれる。『三好記』によると小少将は絶世の美女と評されている。その後、阿波守護で勝瑞城主であった細川持隆の側室となる。持隆との間に細川真之を産んだ。


 1553年(天文22年)の持隆の死後、持隆を滅ぼした三好実休の継室となり、三好長治・十河存保を産んだ。三好家の家中では大形殿(正室の意味)と呼ばれていた。しかしその実休が1562年(永禄5年)に亡くなると、三好氏の重臣であった篠原自遁(篠原長房の弟)の正室となった。


 さらに自遁の死後は、阿波攻めをしていた長宗我部元親の側室となり、長宗我部右近大夫を産んだという説がある。それも政略結婚ではなく、自身の判断で世を渡り歩いた烈女であったといわれている。


 様々な武将の心を射止めているってことは、かなり色気があったに違いない。

 本能寺から少し先に進むと三条八幡という神社がある。内裏を目指して一之は歩いた。

 平安宮(大内裏)があり、その内部の中央東寄りに南北約300m、東西約200mの内裏が存在した。その場所は、現在の京都市上京区下立売通土屋町の付近である。内裏は、宮城の中央政庁である「朝堂院」の北側に位置し、周囲を築地に囲まれ、その内部は北側に後宮、南側に天皇の政務所である紫宸殿や日常生活の中心地である清涼殿などがあった。


 平安京内裏は天徳4年9月23日(960年10月16日)の火災で全焼したあと、幾度も火災に見舞われ、やがて里内裏が現れてくると天皇はもっぱらそちらに常住するようになり、内裏の意義は低下してくる。平安宮の内裏は鎌倉時代に焼亡したのち再建されることはなく、南北朝以後は内裏の東に位置する里内裏であった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が御所となり、近世になってその内域に紫宸殿、清涼殿などが復元された。現在の京都御所がこれである。

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浅香一之の野望 鷹山トシキ @1982

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