第15話 鳥籠の外へ(アイリス視点)


 物心ついた時からずっと、アイリスは閉じ込められていた。

 家の外に出れるほど体調のいい日が一月に一度あればいいほうだ。

 しょっちゅう熱を出し、ベッドの上で看病ばかりされていた。


 ……不治の病だ。ずっと、どうしようもないことだと思っていた。

 ケイド・シニアスと出会うまでは。


「ケイド……あなたも体が弱かったと聞きますが、どれぐらいだったのですか?」

「ん? ああ。ひどかったよ。子供の頃は熱ばっかり出してた」


 少し変わり者の、でも活発で魅力的な彼が、アイリスに言う。


「七歳ぐらいまで、家の外に一歩も出たことが無かったな」

「わ、私もです……! でも、今ではすっかり健康なのですよね?」


 あるいは、自分も。

 そんなのは無理だと頭では分かっていても、彼女は希望を抱いてしまった。


「ああ。〈バイタリティ〉の魔法を覚えてから、徐々に動けるようになってきたんだ。もうすぐ魔物と戦う許可も貰えると思う」

「ついに魔物と戦うのですね……!」


 アイリスは自分のことのように喜んだ。


「……やはり、冒険者になられるのですか?」

「そうだなあ。せっかく魔法に満ちた世界なんだから、見て回りたいよな」


 窓の外へと向かうケイドの視線はまっすぐでキラキラしている。

 変に世間ずれしている癖に、根本的なところは夢見がちな少年だ。

 彼のそういうところが、アイリスは好きだった。


「いつか、私にもお話を聞かせてくださいね」

「ああ。もちろんだ」


 ……ケイドが旅立ちに向けて準備を進めているのを、アイリスは喜んでいる。

 けれど心の底では、怪我や病気で旅立ちが遅れてほしい、という思いがあった。

 少しでも長く一緒にいたい。


「じゃあ、〈バイタリティ〉の練習をやろうか」

「はい」


 アイリスの心に、ちくっと罪悪感が刺さった。


(……本当は、もう〈バイタリティ〉を使えるのですが……)


 ケイドに教わり始めてから最初の数週間で、彼女は魔法を習得している。

 でも、ずっと嘘をついていた。……父親のクリフォードは妙に過保護で、本当なら部外者と喋ることも禁止されている。

 この魔法の訓練が、ケイドと会う唯一の機会だ。


(ごめんなさい。わたしは悪い女です。でも、会いたいから……)


 それから数十分の訓練をして、天気や街の噂についてたわいもない雑談をして、ケイドと別れる。

 ……そんな日常は、メイドの交代と共に終わりを告げた。

 〈バイタリティ〉のおかげで体調はいいのに、家からも出してもらえない。


(お父様ったら、心配しすぎですよ)


 閉じ込められたアイリスに出来ることは、そう多くない。部屋でこっそり魔法の練習をしたり、この邸宅の直下から湧き出している温泉に浸かったり。

 あとはずっと暇な時間が続く。家にある娯楽本はもう読み尽くしてしまった。


(ケイドは……魔物と戦ったのでしょうか。旅立ってしまったのでしょうか)


 時間が経てば経つほどに、彼女の抱える悶々とした思いは増した。


(同じぐらい病弱だった彼が、今はあんなに健康になれたなら……私だって)


 彼女は魔法の練習に加えて、体力のトレーニングを始めた。

 広い邸宅の廊下と階段を徹底的にぐるぐる歩き通す。

 メイドが憐れむような目線で見ていたが、それでも外には出してくれなかった。


(私だって……。ケイドは自由に旅をしているのに、私はずっとこのお屋敷に閉じ込められたままなの? 置いていかれて、それで終わり? そんなのは嫌……!)


 ……そして、ある日、ついに限界が来た。

 〈竜籠の青い鳥〉を読み直し、彼女は決心する。

 鳥籠の外に出る時だ。


(私も強くなる! ケイドは、危険だから私を連れていけないって言ってたんですもの。じゃあ、魔物を倒して強くなれば! 私だって!)


 彼女は窓を開け放ち、それからベッドの下で息を潜めた。

 案の定、メイドは外に逃げたものと勘違いしてくれた。

 ……アイリスは風属性だ。風魔法で着地した、と思ったのだろう。


 以前に見つけていた隠し通路を通り、アイリスは森へ抜ける。

 眩しい木漏れ日の中、目を細めて空を見上げる。

 思い切り息を吸い込み、晩秋の森を嗅いだ。


「鳥籠の中では、絶対に手に入らないものがある」


 絵本のセリフを口ずさみ、彼女は奥深くへ進む。

 ……すぐに足が痛くなってきた。

 前夜の雨でぬかるんだ山の斜面は、彼女にとって厳しすぎる。

 それでも、手をついて泥だらけになりながら斜面を登っていく。


(こんなにお洋服が泥だらけで……。帰ったら、叱られてしまいます)


 傾斜がなだらかになり、森に囲まれた小さな花畑へとたどり着いた。

 木に背中を預け、穏やかな景色の中で身を休める。

 心は休まらなかった。危険と興奮で心は空を躍っている。

 アイリスの瞳に映る何もかもが新鮮だ。


 風属性を持って生まれた人間は、みな自由と未知を愛する人間だ。

 彼女も例外ではない。


「……魔物!」


 赤色に目の輝いた魔狼〈ダイアウルフ〉が、遠巻きに彼女を囲んだ。

 心の片方に恐怖が、もう片方に勇気が満ちる。

 アイリスには、魔法の才能がある。その自信が彼女を支えた。


「風よ渦巻く盾となれ、〈ワールウィンド〉!」


 杖を使わず、詠唱だけで魔法を使う。

 巻き上げられた落ち葉がアイリスの周囲を舞った。


「〈ブラスト〉!」


 舞い上がっていた落ち葉と共に、圧縮された衝撃波が狼を打つ。

 狼は吹き飛され、急斜面を転がって落ちていった。


(やりました! わ、わたしでもやれる……!)


 ウウゥ、と唸り声を上げながら、残された狼たちが飛びかかる。

 それを次々と〈ブラスト〉で迎撃した。

 狼たちはみな急斜面に放り出され、必死の様子で逃げていく。


「な、なんだ……。魔物といっても、こんなものなのですね」


 いまさら恐怖が込み上げてくると同時に、油断が頭をもたげた。

 自分に魔法の才能があることは知っていたが、どうやら魔物を楽に倒せてしまうぐらいに強いらしい。

 なら、もっと魔物を狩って経験を積めばケイドに追いつける。


 油断しきった彼女は山の深くへ踏み込んだ。

 襲ってくる小型の魔物をブラストで追い払っていく。


「吹き飛ぶだけで、倒すことはできないのでしょうか……?」


 アイリスはふと思いつき、魔狼をめがけて強力な〈ブラスト〉を放つ。

 その狼は頭を思いっきり木にぶつけ、倒れて動かなくなった。


「地形を使えばいいのですね! ……あ、この死体はどうしましょう?」


 彼女はしばらく迷った挙げ句、狼を放置して先に進んだ。

 魔物を解体するらしい、という知識はあるし、短剣も一応持っていたが、お嬢様のアイリスにとって考えるだけでもおぞましい行いであった。


「……!」


 進んだ先で、アイリスは棍棒を握りしめた巨大な魔物を見かけた。

 緑色の肌をした筋肉隆々の、人間の倍近いサイズを持つ怪物だ。

 頭頂部には二本の角が生えている。

 アイリスでも知っている、〈オーガ〉と呼ばれる危険な魔物だった。


(あ、あれはまずいですよね……?)


 彼女は口元を塞ぎ、そろそろと後退する。

 ……その瞬間、背後から足首に噛みつかれた。


「い、いやあああああっ!?」


 魔狼だ。さっき倒したはずのダイアウルフが、起き上がって襲ってきた。

 経験したことのない痛みに、彼女の瞳から涙が流れる。

 思わず地面に倒れ、足を振り回して狼を振り払おうとするが、うまくいかない。


「や、やめ……〈ブラスト〉!」


 ようやく魔狼は吹き飛ばした。

 ……だが、巨大なオーガが彼女に気付き、牙だらけの口元をにやりと曲げる。

 冒険者ギルドの危険度で言えばBランクに相当する魔物だ。

 相当な実力者でなければ討伐不可能である。

 知識のない彼女でも、絶対に敵わない相手だとはっきり分かった。


「ひっ……」


 立ち上がろうとしても、足が痛くて立ち上がれない。

 アイリスは必死に後ずさる。


「や、やだ……こないで……〈ブラスト〉!」


 衝撃波を受けてもビクともしない。

 ……あの強靭な肉体に殴られようものなら、アイリスは枯れ枝のように脆く真っ二つにされてしまうだろう。


(……このままじゃ)


 死ぬ。アイリスの脳裏に末路が浮かぶ。

 ……彼女は噛みつかれた自分の右足を見た。


「ひっ」


 真っ赤に染まっているのが見えて、思わず目を逸らす。

 ……それでも再び、彼女は自分の足を見据えた。


(傷は深いけど……まだ、歩ける……)


 目前にまで迫ったオーガが棍棒を振り上げる。


「……あああっ!」


 傷だらけの足でアイリスは立ち上がり、走る。

 右足が着地するたび、泣き叫びたくなるような痛みが爆発する。

 それでも彼女は走り続けた。


 朦朧とする彼女の意識に、ケイドの姿が浮かび上がった。

 ……置いていかれたくない。一緒にいたい。

 バカだった。こんなことをしなければよかった。

 でも、しなきゃいけなかった。だって。

 だって、ケイドはわたしを好きじゃないから。

 必死になって追いかけないと、離れていってしまうから。


 ……いくら走ったところで、巨大なオーガから逃げ切れるはずもない。

 アイリスの全身に、大きな棍棒の影が落ちる。

 逃げようとして、傷んだ足が力を支えきれず、彼女は転んだ。


 鳥籠から飛び出した青い鳥は、魔物に襲われて死んだ。

 結局、絵本と同じ結末を迎えようとしている。


(……こういう終わり方をしたら、ずっとわたしを覚えてくれるでしょうか……)


 ふっ、と彼女の口元に自嘲の笑みが浮かんだ。

 いくらなんでも、あまりに卑しいやり方だ。


(ごめんなさい、ケイド。わたしは悪い人です……)


 彼女は瞳を閉じて、迫りくる死を受け入れた。


 ――その時。

 虹色の軌跡を引く剣を携えて、一人の男が森から飛び出してくる。


「おおおおおおっ!」


 振り下ろされる巨大棍棒を、虹の剣が迎え撃つ。

 アイリスの知らないその剣の名は、〈精霊の剣〉。

 四属性のバフを乗せて輝く、ケイド・シニアスの愛剣であった。


 爆発のごとき重い音と共に、巨大棍棒は真っ二つに両断される。


「アイリスッ、大丈夫か!?」


 オーガとの間にケイドが立ち塞がる。

 大きな背中だった。


「……ど、どうしてここに?」

「決まってるだろ!」


 ケイドは叫んだ。


「君を助けに来た!」


 彼はオーガに斬りかかる。


「……っ!」


 アイリスの頬が赤く染まり、瞳が潤んだ。

 足の痛みも忘れて、彼のことを熱っぽく見つめる。


(わたしはあなたが好きだけど……あなたはわたしを好きじゃない……でも)


 でも、好きだ。

 どう頑張っても嘘をつけないぐらい強烈に、気持ちが心から湧き上がる。


「……ケイド! 頑張って……!」

「ああ!」


 そうして、激戦の幕が上がった。

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