第7話

「そんでそんな顔をしてると」

 先日の休日の夫とのやりとりを聞いた太一のどことなくつまらなさそうな声に、優衣は小さく頷き、カラオケボックス内のテレビ画面に映る男女の別れのシーンらしき寸劇を眺めつつ、口を動かす。ろくに歌詞をおぼえていないマイナーバンドの曲だったのもあり、詩の曲への当て嵌め方があまり正確にはならないもどかしさを抱えながら、がなるようにして声を出した。

「おい。馴れないことして喉を傷つけんな」

 友人の気遣いを無視して喉を酷使する。いっそ、がらがら声を目指してみるのも悪くないかもしれない。やややけっぱちな気持ちになっていたのもあり、薄暗さの中でさほど乗り気でない選択肢に身を委ねようとする。真横からは、無視すんな、とか、その声は宝なんだぞ、とか、聞けよ、などの物騒な台詞が流れてきたが、無視した。

 程なくして、曲が終わるのと同時に飲み物を差し出される。容器の中身を覗いてみると、薄茶色の液体の表面から甘い匂いと湯気が立ちこめさせていた。

「ココア……」

「本当はお前が無茶する前に飲ませたかったんだが」

 がりがりと後頭部の毛髪を掻く太一に、ありがと、と短く言ってから、ちょこちょこと飲みはじめる。冷たさに付随する潤い的な欲求は満たされなかったものの、芯から温まる感覚は落ち着きをもたらした。

 いつの間にか、太一の曲の前奏がはじまっている。一部界隈で日本語ロックのパイオニアと呼ばれるバンドの街を感じさせる名曲だった。

「歌わないの?」

「少し休憩しようかかなって」

 そうこうしているうちに、歌部分が始まりそうだったので、代わりにマイクをとろうとしたところで、手首を押さえられる。

「ちょっとは休めよ」

「大丈夫。太一も知ってるでしょ? これくらい、大学の時は楽勝だったって」

「もう学生じゃないし、今のお前は信用できないんだよ」

 少しの間、マイクをめぐって小競り合いをしたあと、程なくしてお互いに肩で息をして休止することで合意した。

「まあ、なんだ。しゃあない」

 背後で優衣の予約していた同じ日本語ロックバンドの夏を感じさせる曲が流れはじめたところで、太一はそう切りだす。

「お前の作った曲は、正直、俺が次のライブで使わせて欲しいくらいにはいい曲だと思うけど……人にはそれぞれ趣味ってやつがあるだろう。だから、わからないのは」

「そんなの、わかってるよ」

 自然と荒い声が飛び出した。久々にはっきりと苛立っているのを自覚する。

「それでも……わかって欲しかったんだ」

 わがままだ、と優衣も思った。とはいえ、心の中に押し込めておくことはできても、想い自体を変えるのは難しい。

「そりゃ、そうかもしれないが……」

 気まずそうにビールを口にする太一。やはり、休日だけあっていい身分だな、と感じながら、行儀悪くソファに体重を預ける。

「そもそも、音楽の趣味の違いとかはわかってたのか」

「わかってた……っていうよりも、興味ないって知ってたからあんまり話題に出さなかった」

 それこそ結婚前のお付き合いの時点で、あまり優衣の好むジャンルの音楽にピンと来てないのはわかっていたし、結婚後に演奏を聴いてもらってもあまり芳しい反応を得られなかったため、自然と話題にしなくなったという経緯がある。それ以外の部分は穏やかながらよく気の利く夫だったので不満らしい大きな不満も出ないままふわふわと今日までやってきた。そして、今回、自信作ならわかってもらえると信じて送り出して首を捻られ、優衣の中にある少なからぬ落胆が、浮き彫りになった。

「わかってたなら、飲みこむしかないんじゃないか。もしくは、少しずつわかってもらえるように一緒にお前の趣味の音楽を聴く時間を作るとか。っていうか、お前の方は旦那さんの好きな音楽とかはどうなの?」

「夫がよく聴いてるクラシックとかは、昔は勉強がてらに聞いてたけど、今はけっこう好き。だから、そっちの話はまあまあしてるし、割と楽しい」

「だったら、そっちで満足するっていうのも手じゃないか? 音楽の趣味なんて一朝一夕では変わらんだろうし、押し付けが過ぎて嫌がられたら、元も子もないだろ」

「それもわかってる。けど……」

 端的にいえば、今現在、自分の曲をわかってくれないということが辛いのであって、遠い将来に果たされる結果を求めているわけではない。歯を噛みしめる優衣の前で、太一はぐいっとビールを空にした。

「まだ、結婚の見通しもたってない俺が言うのも難だが、違う人間同士なんだから、わかりあえないのも自然なんじゃないか?」

 聴きたくもない一般論。ココアに口をつける。少し冷めているのが気になった。

「俺だって職場ではしょっちゅう同僚に嫌な思いさせられるし、バンドでもたまに揉めるしな。紗枝とだって、距離が近い分、ちょくちょくぶつかって口も聞かなくなったりもする。けど、まあ、そんなもんだとわりきってるよ。すり合わせはできるかもしれないけど、完全に分かり合えるわけじゃないんだろうなって」

 やはり、旧知の男はごくごく当たり前のことしか言おうとしない。優衣自身が勤めに出ていた時にあった類のストレスからは解放されてしまって久しいため、夫や太一が日々感じている精神的負荷に対する解像度こそ低くなっているかもしれないが、日常がすべて思い通りにならないものであるというのは当の昔から知っている。一方で、押し殺せない不満も胸の中に燻り続けているのだから。

「まあ、こんなこと言ったところで、納得はしないわな」

 太一もこの程度の言葉で諭せるとは思っていなかったらしく、カラオケ機のリモコンを手にしたあと、一回、全部演奏中止にしていいか? と尋ねた。優衣がよくわからないまま頷いてみせると、男は、ありがとな、と応じてから、ストックされていた曲を一つ一つ消していく。作業を終えて一息ついた、太一は、まあなんだ、と言いにくそう声を出し、

「いっそ、すっぱり希望を捨てるってのはどうだ?」

 とんでもない爆弾を投げこんだ。

「不満を抱えたままでいろってこと?」

 そうするしかない、というのは重々承知だったが、確認のために聞き返した。しかし、太一は、ある意味そうかもな、と同意を示したあと、

「旦那さんに、その役目を期待するのを止めるってだけだよ。不満の部分は外で別に補えばいいんじゃないかって、提案だ」

 そんな風に説明した。

 外で補う。言葉の意味はわかっても、具体的にどういった行為がそれにあたるのか、優衣には理解できていない。ゆえに、どうやって? という単純な問いかけを投げかける。太一はこそばゆそうな顔をしたあと、どことなく自信を繕ったような笑みを浮かべた。

「具体的には、ここ最近のスタジオに入ってたときみたいな時間を増やしたりして音楽に本腰で望むこととか。後はお前が夫にできない話に付き合ってくれるやつを探す、とかかな」

 太一の言葉の言わんとしているところは、すぐに理解できた。

「遠回しにバンドに復帰しろって言いたいわけ?」

「そうだったら、俺としてはかぎりなく望ましいが……別にそこにこだわる必要はない。お前が作った曲に興味を持って、一緒に話せる相手がいれば事足りるんだから」

 口ではこんなことを言っていたものの、太一の提案は全て、ここ最近の営みに直結するものだった。振り返ってみれば、現時点で胸の内に創作の火が灯った優衣が求めているのは、たしかにあのような時間であるのはたしかだった。……いや、正確にいえば今も含まれるかもしれないが。とはいえ、素直に頷くのには躊躇いがあった。

「何度聞かれても、私はバンドに復帰するつもりはない。それに……毎週付き合っといて言うのも何なんだけど、あんたとサシで会い続けるのもよくない気がする」

 学生の頃ならいざ知らず、今の二人は自分なりの立場を持ってしまっている。であれば、こうしている時間そのもの自体が夫や恋人に対する裏切りにほかならない。……色々と言い訳をつけてなあなあにしていたものの、おそらく今こそ見切りをつけるべきなのだろう、と優衣は思い、あらためてこうした密会はこれきりにしようと切りだそうとする。

「良いか良くないかでいえば良くないだろうな。けど、そういうの全部抜きにしたうえで、お前と過ごす時間はかけがえのないものだと、あらためて思ってる」

 遮るように放たれた男の言葉は、常識から目を逸らしたごまかしに溢れていた。いけないことだから止めよう、という物言いに対して感情論で訴えてきても何にもならない。そう理解しているにもかかわらず、優衣は、悪くない、と思ってしまった。いや、これでも過小に申告しているきらいがある。もっとはっきりと、心地良いと感じてしまっていた。

「ずっとお前の歌とかギター、を聴いてたいって思ってる。ついでにいい曲ももっと作ってくれたり、笑っててくれると尚嬉しいな」

 特段、気負っていない感じで放たれた言の葉は、優衣が一番欲しかったものだった。一番、言って欲しかった人間の口から出てきたものではなくとも、好ましい相手であるのには変わりがなく、本気の発言であるのも理解できたから。

 そう言えば、私、太一のこと好きだったんだっけ。

 別れてから随分と経って、ほぼほぼ過去として片付けていた事柄が頭の中で浮かび上がってくる。すべては過去に置いてきたつもりだったが、まだ胸の中には残り火があったらしい。そもそも、こうやってほいほい付いて行ってしまっている時点で、答えは決まっていたのかもしれない。

「軽く考えてくれりゃいいんだよ。時々、茶ぁ飲むダチくらいの感じでさ」

 ゆっくりと男の手がテーブルを跨いで伸びてきた。優衣も特段、抵抗せずに受けいれる。ほんのりと汗が滲んでいたが、不快ではなく、むしろ好感すらおぼえた。

 テレビ画面からは、よく知らない若手バンドが人懐っこそうな新曲の告知を垂れ流している。その間に、二人は隣り合い――

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